
存在しない十三人目
第2話 消えた十三
翌朝。
相馬冬真は、目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。
午前五時四十八分。
ほとんど眠れなかった。
枕元には、黒い本が置いてある。
THE THIRTEENTH
昨夜の出来事が夢ではなかったことを、それだけで十分に思い知らされた。
冬真は身体を起こした。
カーテンを見る。
閉まっている。
昨夜、電話の男に言われて閉めたままだ。
少し迷ってから、端を数センチだけ開けた。
月極駐車場。
黒い車はいない。
新聞配達のバイクが一台停まっているだけだった。
冬真はカーテンを閉めた。
それからスマートフォンを手に取る。
着信履歴。
昨夜。
19時56分。
非通知。
19時57分。
非通知。
そして、
22時48分。
非通知。
確かに残っている。
「……誰なんだよ」
当然、かけ直すことはできない。
警察。
その言葉が頭をよぎった。
だが、何と説明する。
七年前に死んだ父親の筆跡で脅迫文が書かれた本が届き、知らない男から電話があり、駐車場に知らない車が停まっていました。
相談すること自体はできるだろう。
しかし――。
その本を、誰にも見せるな。
昨夜の男の声が蘇る。
なぜか、その言葉が引っかかっていた。
脅されているようには聞こえなかった。
むしろ。
警告。
そんな言い方だった。
冬真は黒い本を手に取った。
会社へ持っていくべきか迷い、結局、棚の一番下にある古い旅行鞄へ入れた。
鍵を掛ける。
意味があるのかは分からなかった。
午前七時二十分。
いつもより三十分早く、冬真は家を出た。

会社に着いたのは七時四十一分だった。
東和記録株式会社。
三階建ての古い自社ビル。
一階が印刷・スキャン作業場。
二階が営業と経理。
三階には資料保管室と会議室がある。
駐車場には、すでに三台の車が停まっていた。
冬真はそのナンバーを一台ずつ見た。
知っている車だった。
自分でも馬鹿らしいと思う。
たった一晩で、何もかも疑って見える。
「おはようございます」
事務所に入る。
「おう。早いな」
柴崎がコーヒーを飲んでいた。
「部長こそ」
「年寄りは朝が早いんだよ」
「まだ五十二でしょ」
「十分年寄りだ」
いつもと同じ会話。
いつもと同じ会社。
昨夜のことだけが、ここから切り離されているようだった。
冬真は自分のデスクに座った。
パソコンを起動する。
目的は一つ。
昨日の資料。
市立中央病院の旧診療記録電子化業務。
赤鉛筆で書かれた、
13。
紙の資料は、デスク右側の書類トレーに入れたはずだった。
冬真はファイルを取り出した。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
対象資料一覧。
あった。
冬真は目を走らせる。
一九八九年度。
一九九〇年度。
一九九一年度。
ページをめくる。
一九九四年度。
一九九五年度。
一九九六年度。
冬真の指が止まった。
「……ない」
昨日。
確かにあった。
一九九六年度の横。
赤鉛筆で書かれた、
13。
それが消えている。
消しゴムで消した跡もない。
紙が交換されたようにも見えなかった。
ただ、
最初から何も書かれていなかったように、なくなっていた。

「相馬?」
冬真は肩を跳ねさせた。
「うわっ」
「何だよ」
柴崎が後ろに立っていた。
「びっくりさせないでくださいよ」
「俺がびっくりしたわ。朝から紙睨んで」
柴崎は資料を覗き込んだ。
「病院?」
「……はい」
「見積できた?」
「昨日、共有に入れました」
「早いじゃん」
柴崎は冬真の肩を軽く叩いた。
そのまま自分の席へ戻ろうとする。
冬真は迷った。
「部長」
「ん?」
「あの、この資料って、昨日から誰か触りました?」
柴崎が振り返った。
「資料?」
「これです」
「知らん」
「昨日、俺が帰ったあと誰か残ってました?」
「さあ。宮下とかじゃない?」
「宮下さんは俺より先に帰りました」
「じゃあお前が最後じゃないの?」
冬真は黙った。
そうだ。
昨夜。
宮下は、
戸締まりお願いしますね
と言って帰った。
冬真が最後だった。
「何かなくした?」
「いや……」
柴崎が近づいてきた。
「おい、病院の原本じゃないだろうな」
「違います。コピーです」
「ならいいけど。最近うるさいからな。個人情報」
「分かってます」
「お前、こういうの雑なとこあるから」
「ないですよ」
「ある」
柴崎は笑って席へ戻った。
冬真はもう一度資料を見た。
自分の記憶違い。
そう考えるのが一番自然だ。
昨日、数字を見た。
13だと思った。
本が届いた。
THE THIRTEENTH。
だから頭の中で結びつけただけ。
そうだ。
きっとそうだ。
冬真は自分にそう言い聞かせた。
だが。
一つだけ確認する方法があった。

東和記録では、営業資料の多くを複合機でスキャンしてから社内サーバーへ保存する。
昨日の午後。
冬真は病院から預かった資料を、一式PDFにしていた。
紙から消えていても、
昨日のスキャンデータには残っているかもしれない。
共有フォルダを開く。
「営業部」
「案件」
「市立中央病院」
フォルダがある。
クリック。
見積書。
仕様書。
作業工程表。
対象資料一覧。
PDFを開く。
冬真は息を止めた。
一九九六年度。
そこには――
何もなかった。
赤い13はない。
「……嘘だろ」
冬真は画面へ顔を近づけた。
昨日の時点で既に書かれていなかった?
では、自分は何を見た。
そのとき。
PDFの更新日時が目に入った。
2026/09/07 06:13
冬真は時計を見る。
午前八時三分。
今朝、更新されている。
昨日スキャンしたファイルなのに。
午前六時十三分。
冬真はまだ自宅にいた。
「部長」
「ん?」
「今日、何時に来ました?」
「俺?」
「はい」
「七時前くらい」
「何分です?」
「知らんよ。六時五十分とか」
柴崎ではない。
「どうした?」
「いや、何でもないです」
冬真はPDFのプロパティを開いた。
更新者。
空欄。
社内のファイルなのに。
「……」
冬真は立ち上がった。
向かったのは、一階だった。

複合機は一階の作業場奥にある。
東和記録では、機密文書を扱う関係で、作業場への出入りは社員証で記録されている。
さらに複合機にも個人IDが必要だ。
誰かが午前六時十三分にファイルを差し替えたのなら、何か記録が残っている。
「おはようございます」
作業場にいた社員へ挨拶しながら、冬真は奥へ進んだ。
複合機。
操作パネルを開く。
履歴。
管理者権限が必要だった。
「相馬さん?」
後ろから声がした。
宮下だった。
「何してるんですか?」
「ああ……昨日スキャンしたやつ、ちょっと確認したくて」
「二階のパソコンから見られますよ」
「いや、履歴を」
「履歴?」
宮下は不思議そうな顔をした。
冬真は少し考えた。
「宮下さん、昨日何時に帰りました?」
「え?」
「俺より先でしたよね」
「そうですけど」
「何時くらい?」
「七時半前だったと思います」
合っている。
「今朝は?」
「八時前です」
「六時くらいに誰か会社来ることってあります?」
宮下は首を傾げた。
「工場の人ならたまに。でも営業はないんじゃないですか?」
「ですよね」
「何かあったんですか?」
「いや。大丈夫です」
冬真が立ち去ろうとしたときだった。
「あ」
宮下が言った。
「そういえば」
冬真が振り返る。
「昨日、相馬さんが帰ったあと、一人来てましたよ」
「……え?」
「私、忘れ物して戻ったんです」
「何時?」
「八時前くらいかな」
冬真の頭の中で時間を計算する。
自分が会社を出たのは、
午後七時四十一分。
「誰が?」
宮下は少し考えた。
「知らない人です」
「社員じゃない?」
「たぶん」
「男? 女?」
「男の人」
「どんな?」
「スーツ着てました。四十代くらいかな」
冬真の喉が乾いた。
「何してた?」
「一階の入口にいました」
「中に?」
「はい」
「鍵掛かってたはずですよ」
「ですよね。私もそう思ったんですけど」
宮下はそこで笑った。
「でも、普通にいたから。業者さんか何かだと思って」
「顔、覚えてる?」
「なんとなくなら」
「その人、何か持ってた?」
宮下の表情が変わった。
「……なんで?」
「いいから」
「相馬さん、何かあったんですか?」
「あとで説明する」
宮下はしばらく冬真を見た。
そして言った。
「本」
冬真の身体が固まった。
「何?」
「その人、本みたいなの持ってました」
「どんな本」
「そこまでは……」
「色は?」
「黒っぽかったかな」
冬真は何も言えなかった。
宮下が不安そうに聞く。
「相馬さん?」
「……いや」
偶然だ。
そう思おうとした。
しかし、もう無理だった。
昨夜。
自宅のドアの前に置かれていた黒い本。
その前に。
同じような本を持った知らない男が、
冬真が帰った直後の会社にいた。

午前十時。
冬真は市立中央病院にいた。
予定通り、見積書を提出するためだった。
地方都市にしては大きな病院だ。
本館は建て替えられて十年ほどしか経っていない。
ただ、今回電子化する診療記録が保管されているのは、裏手にある旧館だった。
担当者は総務課の田所という男だった。
五十代後半。
痩せていて、眼鏡を掛けている。
「わざわざありがとうございます」
「いえ。こちら見積書になります」
冬真は封筒を渡した。
田所が内容を確認する。
「うん。このくらいですよね」
「箱数が多いので、どうしても」
「分かってます」
商談は十分ほどで終わった。
普段なら、そのまま帰る。
だが冬真は席を立たなかった。
「田所さん」
「はい」
「ちょっと変なこと聞いてもいいですか?」
「何でしょう」
冬真は資料を取り出した。
「この対象資料一覧なんですけど」
田所が見る。
「はい」
「一九九六年度の記録って、何か特殊なんですか?」
田所の指が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、冬真は見逃さなかった。
「特殊?」
「はい」
「どういう意味です?」
「いや。昨日見た資料に、何か書き込みがあった気がして」
「書き込み?」
「赤い鉛筆で」
田所は黙った。
「数字の13って」
その瞬間。
田所が資料から顔を上げた。
「相馬さん」
声が変わった。
「はい」
「その数字、誰から聞きました?」
冬真は答えなかった。
聞いたのではない。
見たのだ。
「田所さん、何か知ってるんですか?」
田所は周囲を見た。
総務課には職員が何人もいる。
「……ここでは話せません」
冬真の心臓が速くなる。
「じゃあ、どこなら」
田所は名刺を一枚取り出した。
自分の名刺。
裏返す。
ボールペンで何かを書く。
旧館地下 12:40
冬真に差し出した。
「一人で来てください」
「何なんですか」
「今は聞かないでください」
「でも」
「それと」
田所は声を落とした。
「誰にも、このことを話さないでください」
昨夜と同じ言葉。
冬真は田所を見る。
「……どうして?」
田所は答えなかった。
代わりに、冬真が持っていた資料へ視線を落とした。
一九九六年度。
そして、小さな声で言った。
「その記録は、本来――」
田所が言葉を切った。
総務課の入口を見ている。
冬真も振り返った。
スーツ姿の男が一人、立っていた。
四十代くらい。
こちらを見ている。
目が合った。
男は軽く頭を下げた。
田所の顔から血の気が引いた。
「田所さん?」
「帰ってください」
「え?」
「相馬さん。今日はもう帰ってください」
「でも十二時四十分に――」
「声を出さないで」
田所は冬真を睨んだ。
「名刺をしまって」
冬真は黙ってポケットへ入れた。
もう一度入口を見る。
男はいなかった。
*
午後十二時三十七分。
冬真は、市立中央病院旧館の階段を下りていた。
地下。
蛍光灯が一定間隔で並んでいる。
古い病院特有の匂い。
人の気配はない。
十二時四十分。
指定された場所に着いた。
田所はいなかった。
十二時四十五分。
来ない。
十二時五十分。
冬真はスマートフォンを取り出した。
病院へ電話しようとした、そのときだった。
上の階から足音が聞こえた。
誰かが階段を下りてくる。
「田所さん?」
返事はない。
足音が近づく。
冬真は身構えた。
姿を現したのは、
病院の警備員だった。
「相馬さんですか?」
「はい」
警備員は怪訝な顔をしている。
「総務の方が探してますよ」
「田所さん?」
「いえ」
「田所さんとここで待ち合わせしてるんですけど」
警備員が黙った。
「……田所さん?」
「はい。総務課の田所さんです」
「何かの間違いじゃないですか」
「いや、さっき会いました」
「いつです?」
「十時くらいです」
警備員の顔から、愛想が消えた。
「相馬さん」
「はい」
「田所さんは今日、出勤してませんよ」
冬真は笑いそうになった。
「いやいや。そんなわけないですよ」
「本当です」
「俺、二時間前に話してます」
「でも田所さんは――」
警備員が言いにくそうに口を閉じる。
「何ですか」
「昨日の夜、倒れているのが見つかって」
冬真は動かなかった。
「救急搬送されました」
「……え?」
「今朝、亡くなったそうです」
地下の廊下で、
蛍光灯の低い音だけが聞こえていた。
冬真はゆっくりとポケットへ手を入れた。
名刺。
田所修一。
その裏には、
確かに本人が書いた文字がある。
旧館地下 12:40
二時間前。
冬真の目の前で書いた文字だ。
警備員が何か話している。
だが、もう聞こえなかった。
冬真は名刺を見つめていた。
そして。
その右下に、小さな汚れがあることに気づいた。
赤いインク。
いや。
赤鉛筆だった。
指で擦る。
その下から、
薄く数字が現れた。
07
冬真はその数字を見た。
なぜだろう。
初めて見るはずなのに。
胸の奥で、
何かがひどく懐かしかった。

