存在しない十三人目

第1話 十二冊

相馬冬真には、子供の頃の記憶が少ない。

別に、珍しいことではないと思っている。

小学校一年生の担任の顔も覚えていないし、初めて自転車に乗った日のことも覚えていない。

運動会で何位だったか。
遠足でどこへ行ったか。
初めて好きになった女の子が誰だったか。

聞かれても、ほとんど答えられない。

ただ、一つだけ妙に鮮明な記憶がある。

七歳の冬。

父に連れられて、大きな図書館へ行った。

古い建物だった。

天井が高く、窓から差し込む冬の光の中を、細かな埃がゆっくり漂っていた。

父は十二冊の本を机に並べた。

どれも子供向けではない、分厚い本だった。

「冬真」

父が言った。

「ここに何冊ある?」

冬真は指をさしながら数えた。

「十二冊」

父は笑った。

「違う。十三冊だ」

もう一度数えた。

やはり十二冊だった。

「十二冊だよ」

「十三冊ある」

「ないよ」

「あるよ」

父はそう言って、自分の頭を人差し指で軽く叩いた。

「ここに」

冬真には意味が分からなかった。

「本が入ってるの?」

「そうだ」

「頭の中に?」

「そういう本が、一番なくしちゃいけない本なんだ」

父は笑っていた。

そのときの顔だけは、不思議なくらい覚えている。

それから二十五年。

相馬冬真は、その言葉の意味を知らないまま生きてきた。

 

 

 

 

 

午後六時十二分。

冬真はパソコンの右下に表示された時刻を見て、ため息をついた。

「相馬、明日の朝まででいいぞ」

背後から声がした。

振り返らなくても分かる。

営業部長の柴崎だ。

「それ、今日中にやれって意味ですよね」

「分かってるじゃないか」

「だったら今日中って言ってくださいよ」

「明日の朝までだ」

「はいはい」

柴崎は笑いながら営業部を出ていった。

従業員六十八名。

地方都市にある中小企業、東和記録株式会社。

社名だけ聞けば何をしている会社なのか分かりにくいが、仕事は地味だった。

企業や病院、自治体などから依頼された書類を印刷したり、古い文書をデータ化したり、保存期限の切れた機密書類を処分したりする。

冬真はそこで営業をしている。

勤続九年目。

役職なし。

独身。

大きな借金もなければ、大きな貯金もない。

自分でも面白みのない人生だと思う。

ただ、それを不幸だと思ったこともなかった。

パソコンに向き直る。

明日提出する見積書は、あと一件。

市立中央病院から依頼された、旧診療記録の電子化業務だった。

対象文書、段ボール二百八十四箱。

作業期間、六か月。

冬真は見積書に数字を入力していった。

ふと、一枚の資料で手が止まった。

「……ん?」

対象資料一覧。

一九八九年度。
一九九〇年度。
一九九一年度。

年代順に並んでいる。

その途中。

一九九六年度の横に、手書きで小さく数字が書かれていた。

13

冬真は少し眺めた。

誰かが箱の数でも書いたのだろう。

赤鉛筆だった。

「相馬さん、まだ帰らないんですか?」

声を掛けられて顔を上げる。

経理の宮下だった。

コートを着て、鞄を肩に掛けている。

「あとちょっと」

「また柴崎部長ですか?」

「また柴崎部長です」

宮下が笑った。

「お先に失礼します」

「お疲れ」

「戸締まりお願いしますね」

「はい」

宮下が出ていく。

営業部には冬真一人になった。

冬真はもう一度、資料を見る。

赤い13。

何となく気になった。

だが、それだけだった。

見積書を完成させ、共有フォルダに保存する。

午後七時四十一分。

会社を出た。

 

 

 

 

 

東和記録から冬真のアパートまでは、車で十五分ほどだった。

地方都市の夜は早い。

駅前を外れれば、午後八時でも人通りは少ない。

途中のコンビニで弁当と缶コーヒーを買った。

レジに並んでいるとスマートフォンが震えた。

非通知。

冬真は画面を見て、そのまま切れるのを待った。

非通知の電話は取らない。

数秒後、着信が切れた。

その直後。

もう一度鳴った。

非通知。

「……なんだよ」

今度も取らなかった。

三度目はなかった。

アパートに着いたのは午後八時十三分だった。

築十五年の二階建て。

冬真の部屋は二階の一番奥、203号室。

外階段を上がり、自分の部屋へ向かう。

鍵を出そうとして、足が止まった。

ドアの前に何か置かれている。

小包だった。

茶色い紙に包まれ、麻紐が十字に掛けられている。

宅配便の伝票はない。

宛名もない。

冬真は周囲を見た。

誰もいない。

隣の202号室からテレビの音が漏れている。

小包を持ち上げる。

重い。

本か何かだろうか。

「……気持ち悪いな」

その場に置いておこうかと思った。

だが、自分の部屋の前にある以上、放っておくわけにもいかない。

冬真は小包を持って部屋へ入った。

 

夕食を済ませても、小包には触れなかった。

午後十時を過ぎた頃。

テレビを消す。

部屋が静かになる。

テーブルの上には、茶色い小包。

冬真はしばらく眺めてから、ようやく麻紐を解いた。

包装紙を剥がす。

中から出てきたのは、予想通り一冊の本だった。

黒い布張りの表紙。

かなり古い。

英語のタイトルが金色で刻まれている。

THE THIRTEENTH

冬真は英語が得意ではない。

それでも意味くらいは分かる。

「十三番目……?」

ページを開いた。

海外の古い小説らしい。

紙は黄色く変色している。

ところどころに赤い線が引かれていた。

最初は前の持ち主の書き込みだと思った。

だが、妙だった。

線が引かれているのは文章全体ではない。

単語。

一つ。

また数ページ先に一つ。

さらに先に一つ。

冬真は缶コーヒーを置いた。

赤線の単語を、最初からメモ用紙に書き写してみた。

TWELVE

ARE

DEAD

数ページめくる。

THE

THIRTEENTH

IS

ALIVE

そこで冬真の手が止まった。

英語が得意でなくても読める。

十二人は死んだ。

十三人目は生きている。

「……何だ、これ」

誰かの悪趣味ないたずらだろうか。

さらにページをめくる。

赤線はもうなかった。

最後のページまで来た。

何もない。

冬真は息を吐いた。

馬鹿馬鹿しい。

本を閉じようとした。

そのとき。

裏表紙との間にある白紙に、何かが書かれていることに気づいた。

日本語だった。

たった一行。

 

 

 

 

 

冬真へ。

そして、その下。

次は君の番だ。

冬真は動かなかった。

心臓が一度、大きく鳴った。

文章の内容ではない。

その字を知っていた。

丸みの少ない「冬」。

右上がりになる「真」。

「次」の最後を長く払う癖。

何百回も見てきた。

小学校の連絡帳。

誕生日にもらった手紙。

大学の合格祝いの封筒。

そして最後に見たのは、七年前。

病院へ持っていった書類だった。

「……親父?」

相馬宗一郎。

冬真の父。

七年前に死んでいる。

冬真は本を持ったまま立ち上がった。

棚の奥から古いファイルを引っ張り出す。

父の遺品をまとめたものだった。

保険関係の書類。

古い領収書。

年賀状。

その中から一枚の封筒を取り出した。

表には、

冬真へ

と書かれている。

並べる。

本。

封筒。

同じだった。

少なくとも冬真には、そう見えた。

そのとき。

スマートフォンが鳴った。

テーブルの上。

画面には、

非通知

と表示されている。

コンビニで掛かってきた電話を思い出した。

冬真は迷った。

そして、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

返事はない。

「もしもし?」

雑音。

遠くで何かが聞こえる。

電車の音。

それから、男の声。

小さかった。

冬真はスマートフォンを耳に押しつけた。

「何ですか?」

男は何か言った。

「聞こえません」

もう一度。

今度は聞こえた。

「本を――」

そこで雑音が入った。

「何?」

「その本を、誰にも見せるな」

冬真の背中から汗が引いた。

「誰ですか」

返事はない。

「誰なんですか」

男は答えなかった。

代わりに、こう言った。

「相馬冬真」

フルネーム。

「今すぐ、カーテンを閉めろ」

冬真は反射的に窓を見た。

カーテンは開いている。

二階の窓。

その向こう。

道路を挟んだ月極駐車場。

街灯の下に、一台の黒い車が停まっていた。

運転席に誰かいる。

顔は見えない。

「……誰だよ」

電話の向こうで、男が息を吸った。

「まだ思い出していないなら、その方がいい」

通話が切れた。

「おい!」

冬真は窓へ駆け寄った。

黒い車のライトが点く。

ゆっくりと駐車場を出ていった。

ナンバーを見ようとした。

だが、遠くて読めなかった。

車は角を曲がり、見えなくなった。

静かになった部屋で、冬真はしばらく窓の前に立っていた。

やがて振り返る。

テーブルの上に、黒い本がある。

THE THIRTEENTH

十二人は死んだ。

十三人目は生きている。

そして。

まだ思い出していないなら、その方がいい。

冬真は本を閉じた。

その瞬間。

一つだけ、妙なことに気づいた。

この本を開封したとき。

どこかで見たことがある気がしたのだ。

タイトルではない。

表紙でもない。

赤鉛筆で引かれた線。

その色を。

冬真は今日、見ている。

会社で見積書を作っていたとき。

市立中央病院から預かった資料。

一九九六年度。

その横に書かれていた――

13。

冬真は時計を見た。

午後十時四十七分。

七年前に死んだ父から届いた本と、

明日、自分が見積書を提出する病院。

その二つがつながっているはずがない。

冬真は、そう思った。

その夜までは。