見てきました。黒松内公演です。
とにかくお客さんが入っていました。200以上は入ってたと思う。
そして、老若男女。客層が広いわけです。
パンフに「東京でも、札幌でもない、後志の劇団」というようなことが書いてあった。
まさにその通りだと思う。
地元に「根ざした」、そのことがぴったりくる劇団だ。
東京を意識して、東京に対抗して、東京から人を呼んできて、でも札幌市民は全然知らない、
それじゃ札幌で演劇をやる意味ってなんだろうと思う。
札幌市民に受け入れられなきゃダメなんだ。
「劇団七転八起」は後志の人々にしっかりと受け入れられている。
倶知安と札幌でしか本公演をしたことがない劇団が、黒松内でいきなり200以上入る。
今年は仁木でも公演するそうだ。仁木で何人入るのか、期待である。
それにしても倶知安2回公演は少ないと思うけど・・・。去年は3回公演でもぎゅうぎゅうだった。お客さん入りきらない。
うれしい悲鳴、うらやまし。
「にれ公演」話題で引っ張ります。多分今日が最後だと思います。
新井田さんという役者がいる。佐々木さんという役者がいる。
お二人ともかつてそれぞれ「劇団新劇場」と「劇団にれ」でバリバリに活躍した俳優さんだ。
そして舞台から長く遠ざかっていた。
「橋からの眺め」で二人は、俳優として復活した(新井田さんは他にも「復活」しているが)。
もったいない。
二人は、氷山の一角だ。札幌市内には、というか全国に、センスがありながら仕事が忙しくなり演劇を諦めざるをえなかった人々が大勢いる。二人も決して演劇が嫌になって辞めたわけじゃない(と思う)。
ちゃんとした仕事につきながらクオリティの高い演劇づくりを40代を超えても頑張ってやってるっていう人は、全国を見渡してもかなり少ない。そして職種が限られる。
新井田さんや佐々木さんのような人々が演劇を続けていたら、札幌の演劇界は随分変わっていただろう(新井田さんは「辞めた」わけじゃないが)。
もったいない。それだけだ。心から、そう思う。
新井田さんという役者がいる。佐々木さんという役者がいる。
お二人ともかつてそれぞれ「劇団新劇場」と「劇団にれ」でバリバリに活躍した俳優さんだ。
そして舞台から長く遠ざかっていた。
「橋からの眺め」で二人は、俳優として復活した(新井田さんは他にも「復活」しているが)。
もったいない。
二人は、氷山の一角だ。札幌市内には、というか全国に、センスがありながら仕事が忙しくなり演劇を諦めざるをえなかった人々が大勢いる。二人も決して演劇が嫌になって辞めたわけじゃない(と思う)。
ちゃんとした仕事につきながらクオリティの高い演劇づくりを40代を超えても頑張ってやってるっていう人は、全国を見渡してもかなり少ない。そして職種が限られる。
新井田さんや佐々木さんのような人々が演劇を続けていたら、札幌の演劇界は随分変わっていただろう(新井田さんは「辞めた」わけじゃないが)。
もったいない。それだけだ。心から、そう思う。
公演終了しました。見に来ていただいた皆さん、ありがとうございました。
それにしても今回の作品は、脚本がすばらしかった・・・。
アーサー・ミラーは「橋からの眺め」は、これから僕のバイブルにさせていただきます。
登場人物の心情の細かい描写、セリフに頼らない行動を使っての見事な心理表現、特にアルフィエリの発言に見られるような豊かな言語表現、そして観客の心を掴む物語展開・構成、どれをとっても一級品であります。
そして、ヒーローを扱っていない。
「どこにでもいる普通の人々の心にこそ、ドラマがある」そう主張しているかのような題材。
打ち上げで、こんな事を言った人がいました。
「この作品では、客が入らないんじゃないか」
僕はそうは思わない。
もしも現代日本を取り上げた題材で、これほどの高い水準の脚本を書ける人がいたとしたら、
その劇団は一気に人気劇団になるだろう、そう確信する。
打ち上げでは言いそびれてしまいました。
人の心を打つ作品が、人気が出ないわけがない。
「脚本の質が高い」とは 何か?
それはまた今度書きたいと思います。
それにしても今回の作品は、脚本がすばらしかった・・・。
アーサー・ミラーは「橋からの眺め」は、これから僕のバイブルにさせていただきます。
登場人物の心情の細かい描写、セリフに頼らない行動を使っての見事な心理表現、特にアルフィエリの発言に見られるような豊かな言語表現、そして観客の心を掴む物語展開・構成、どれをとっても一級品であります。
そして、ヒーローを扱っていない。
「どこにでもいる普通の人々の心にこそ、ドラマがある」そう主張しているかのような題材。
打ち上げで、こんな事を言った人がいました。
「この作品では、客が入らないんじゃないか」
僕はそうは思わない。
もしも現代日本を取り上げた題材で、これほどの高い水準の脚本を書ける人がいたとしたら、
その劇団は一気に人気劇団になるだろう、そう確信する。
打ち上げでは言いそびれてしまいました。
人の心を打つ作品が、人気が出ないわけがない。
「脚本の質が高い」とは 何か?
それはまた今度書きたいと思います。
今回の公演での秋元博行さんの演技がすばらしいということは、この間も書いた。
演劇界では、簡単に言って二つの流れがある。
一方は、脚本を重視し、また中でもその文学性や構造の巧みさなどを重視する流れで、もう一方は生でダイレクトな舞台と観客との交流を重視する流れだ。前者は「新劇系」と呼ばれ、後者は「小劇場系」と呼ばれたりする。もちろんその中間や全く違った方向性や両方兼ね備えた劇団もあるのだろうが、おおざっぱに言ってその二つの流れと言っていい。
我がマキニウムは、「その両方兼ね備えた」を目指して活動している。
「新劇系」と呼ばれる劇団の演技方法は、一般に、登場人物の分析を行い、その立ち振る舞い、場面場面での気持ちの変化などを詳細にきめ細かく演技につけていくことが多い。また小劇場系では、その場その場でいかに客席にダイレクトに俳優の演技の緊張感やライブ感が伝わるかを意識して稽古している場合が多い。
もちろん、どちらの系統もそればかりやっているわけではない。新劇系で「それじゃ客席に伝わらないんだよ」というダメが出ることはよくあるし、小劇場系で「この人(登場人物)はそういう人じゃないんだよ」と役の方向性についてダメを出されることは日常のことだ。
ただ、大まかな方向性として、どちらを重視するか、またはどこから演技にアプローチするか、という点では上のようなことが言えると言っていいだろう。
演劇をやったことがない人は、「それ両方やるのが当然でしょ」と言いたくなるかもしれないが、その片方だけでも極めることは難しいことで、両方を極めることはそう簡単なことではない。というかかなり難しい。というかそれができたらもうプロになってる。
ともかく僕等マキニウムは「新劇のように脚本にこだわり、小劇場系のように客席にダイレクトに伝わる」演劇を目指している。
そのためには、新劇のように「まず脚本ありき」という作り方じゃ作れない、と思った。
俳優は脚本の登場人物に縛られ、場面の雰囲気作りに縛られ、登場人物の気持ちの変化に縛られ、はたまた舞台上の人物の位置関係に縛られ、自由で躍動的な演技なんかできやしない、そう思った。
実際、新劇系の劇団(プロ、文学座とか民芸とか)の演技を見ても、ごくごく一部の天才的な俳優は客席の心をわしづかみにするにしろ、他の俳優さんたちのほとんどが個性あふれる生き生きとした躍動感のある演技など、できていないことが普通だ(それはとてもとてもとてもむずかしいことなのだ)。
僕等は「新劇的な」演技方法を捨てた。
そして新しい演技方法を模索し追求し、現在に至っている。
秋元さんは、根っから「新劇系」の人だ。
しかし、「橋からの眺め」の秋元さん演じる「エディー」は、その演技論を超越している。
主人公の悲しさ、むなしさ、ダメさがにじみ出ている。
エディーは、あの舞台に生きている。
そしてそのエディーを袖から見て、僕のテンションも自然と上がってくるのだ。
秋元さんに、心から拍手を送りたい。
そして少しでも多くの人に、この舞台を見てもらいたい。
演劇界では、簡単に言って二つの流れがある。
一方は、脚本を重視し、また中でもその文学性や構造の巧みさなどを重視する流れで、もう一方は生でダイレクトな舞台と観客との交流を重視する流れだ。前者は「新劇系」と呼ばれ、後者は「小劇場系」と呼ばれたりする。もちろんその中間や全く違った方向性や両方兼ね備えた劇団もあるのだろうが、おおざっぱに言ってその二つの流れと言っていい。
我がマキニウムは、「その両方兼ね備えた」を目指して活動している。
「新劇系」と呼ばれる劇団の演技方法は、一般に、登場人物の分析を行い、その立ち振る舞い、場面場面での気持ちの変化などを詳細にきめ細かく演技につけていくことが多い。また小劇場系では、その場その場でいかに客席にダイレクトに俳優の演技の緊張感やライブ感が伝わるかを意識して稽古している場合が多い。
もちろん、どちらの系統もそればかりやっているわけではない。新劇系で「それじゃ客席に伝わらないんだよ」というダメが出ることはよくあるし、小劇場系で「この人(登場人物)はそういう人じゃないんだよ」と役の方向性についてダメを出されることは日常のことだ。
ただ、大まかな方向性として、どちらを重視するか、またはどこから演技にアプローチするか、という点では上のようなことが言えると言っていいだろう。
演劇をやったことがない人は、「それ両方やるのが当然でしょ」と言いたくなるかもしれないが、その片方だけでも極めることは難しいことで、両方を極めることはそう簡単なことではない。というかかなり難しい。というかそれができたらもうプロになってる。
ともかく僕等マキニウムは「新劇のように脚本にこだわり、小劇場系のように客席にダイレクトに伝わる」演劇を目指している。
そのためには、新劇のように「まず脚本ありき」という作り方じゃ作れない、と思った。
俳優は脚本の登場人物に縛られ、場面の雰囲気作りに縛られ、登場人物の気持ちの変化に縛られ、はたまた舞台上の人物の位置関係に縛られ、自由で躍動的な演技なんかできやしない、そう思った。
実際、新劇系の劇団(プロ、文学座とか民芸とか)の演技を見ても、ごくごく一部の天才的な俳優は客席の心をわしづかみにするにしろ、他の俳優さんたちのほとんどが個性あふれる生き生きとした躍動感のある演技など、できていないことが普通だ(それはとてもとてもとてもむずかしいことなのだ)。
僕等は「新劇的な」演技方法を捨てた。
そして新しい演技方法を模索し追求し、現在に至っている。
秋元さんは、根っから「新劇系」の人だ。
しかし、「橋からの眺め」の秋元さん演じる「エディー」は、その演技論を超越している。
主人公の悲しさ、むなしさ、ダメさがにじみ出ている。
エディーは、あの舞台に生きている。
そしてそのエディーを袖から見て、僕のテンションも自然と上がってくるのだ。
秋元さんに、心から拍手を送りたい。
そして少しでも多くの人に、この舞台を見てもらいたい。
終わりました。
主演の秋元さんは、稽古にもましてノッてたように思います。
ごらんになった皆さん、どう感じたでしょうか。
明日もがんばりやす。
主演の秋元さんは、稽古にもましてノッてたように思います。
ごらんになった皆さん、どう感じたでしょうか。
明日もがんばりやす。
民主党が、おもしろい。というより、国会がおもしろくなっている。
俺は政治についてそんなに詳しくないが、なんだか国会での民主党のスタンスは、この選挙を境に、というより民主党の代表交代を境に大きく変わった。匂いでわかる。
選挙前までは、「とにかく反対」だった。まるで「野党だから反対しなければいけない」という縛りにあったように。しかし今の民主党は、自民党と正面から政策で勝負しよう、という気概が伺える。「正面から勝負する」ということは、「自民党案のいいところはいいところで受け入れて、その上で対案を出す」ということだ。
選挙前の民主党は、かつての社会党を思わせた。何もかも反対。これでは選挙に勝てない。そのころから俺はそう思っていた。
「自民党の案に賛成するところは賛成する」、これは一見弱腰と思われがちだ。「あくまで全て反対」これが選挙前の民主党の、郵政民営化に対する態度だ。
「今大事なのは郵政ではない」岡田代表はそう考えたのかもしれない。
民主党が支持を上げていくには、強硬路線がいいと考えたんだろう。
そこまでは正しかったのかもしれない。
しかし、その表現の仕方がまずかった。
岡田代表の切り口は、常に小泉批判だった。少なくとも俺にはそう感じていた。
「郵政民営化はいい。だけど今話すべきじゃない。年金の問題はどうなんだ?財政の問題はどうなんだ?」という切り口で選挙を戦えば、この間の選挙での逆転は可能であったと俺は思う。
「反対しなきゃいけない」そういう意識が強すぎたんだと思う。
「ただでさえ勢いに乗っている今のコイズミのいいところなんか認めてしまったら、それこそ弱腰ととられ、コイズミ人気に拍車をかけてしまう。だからコイズミのダメなところを徹底的につかなければいけない」
そう考えたんだと思う。
しかし結果は逆だった。
「賛成すべきところは賛成して、しかし自分たちのやり方、考え方をしっかりと伝える」
そうするべきだった。
小泉さんは、選挙には天才的、と言われる。確かにそうなんだろう。しかし民主党は、戦い方次第ではこの間の選挙で五分、もしくはそれ以上の結果をおさめることができた。
小泉さんが首相になったばかりの「自民党をぶっ壊す」発言の頃ならそうはいかないが、小泉人気は今、それほど圧倒的ではない。
民主党は、小泉さんの選挙戦略に負けた、「ワンフレーズ・ポリティクス」に負けたと言われている。しかし、僕はそうじゃないと思っている。
民主党は、「今、民主党は強行に反対しなければならないんだ」という自らの内部にひそむ悪魔のささやきに負けたのだ。「小泉マジックの幻影」に負けたのだ。きちんと勝負すれば勝てたのに。
*****
一方で、演技についても、同じようなことが言える。
俳優は、脚本を読み演じる時、「この役はこんな風に読んだ方がいいはずだ」という悪魔のささやきにかられる。時にはその悪魔のささやきは、「この演出家ならこういうのを望んでいるはずだ」とか、「こんな読み方をしたらみんなになんて言われるかわからない」などと形を変える。
その悪魔のささやきによって、「自分が今、今回の配役で、今の空気の中で、どうセリフを発したらよいか、または発したいのか」という役者の本来仕事であるはずの「自己表現」からはかけ離れていく。
悪魔に縛られた「読み方」は、一見よさげに見えることもあるが、「自己表現」からはほど遠い。その結果、お客さんに大きな感動を与えることが極めて難しくなってくるのだ。
*****
小選挙区だから、「ちょっとした差」が大きく結果に響くんだと思う。
僕はよく、「一線を越えよう」と言う。
「一線を越える」とは、「まずまずの演技」から一歩抜き出た「凄い演技」へと開花することだ。
政治の上でも演技の上でも、大切なのは「今、俺が(または組織が)どっちに行きたいのか、行くべきなのか、真ん中で考え(または感じ)、まっすぐに実行する」ということである。
「ああした方がいい」「こうした方がいい」過去のデータから学べることは、現在の直観にはかなわないのである。
俺は政治についてそんなに詳しくないが、なんだか国会での民主党のスタンスは、この選挙を境に、というより民主党の代表交代を境に大きく変わった。匂いでわかる。
選挙前までは、「とにかく反対」だった。まるで「野党だから反対しなければいけない」という縛りにあったように。しかし今の民主党は、自民党と正面から政策で勝負しよう、という気概が伺える。「正面から勝負する」ということは、「自民党案のいいところはいいところで受け入れて、その上で対案を出す」ということだ。
選挙前の民主党は、かつての社会党を思わせた。何もかも反対。これでは選挙に勝てない。そのころから俺はそう思っていた。
「自民党の案に賛成するところは賛成する」、これは一見弱腰と思われがちだ。「あくまで全て反対」これが選挙前の民主党の、郵政民営化に対する態度だ。
「今大事なのは郵政ではない」岡田代表はそう考えたのかもしれない。
民主党が支持を上げていくには、強硬路線がいいと考えたんだろう。
そこまでは正しかったのかもしれない。
しかし、その表現の仕方がまずかった。
岡田代表の切り口は、常に小泉批判だった。少なくとも俺にはそう感じていた。
「郵政民営化はいい。だけど今話すべきじゃない。年金の問題はどうなんだ?財政の問題はどうなんだ?」という切り口で選挙を戦えば、この間の選挙での逆転は可能であったと俺は思う。
「反対しなきゃいけない」そういう意識が強すぎたんだと思う。
「ただでさえ勢いに乗っている今のコイズミのいいところなんか認めてしまったら、それこそ弱腰ととられ、コイズミ人気に拍車をかけてしまう。だからコイズミのダメなところを徹底的につかなければいけない」
そう考えたんだと思う。
しかし結果は逆だった。
「賛成すべきところは賛成して、しかし自分たちのやり方、考え方をしっかりと伝える」
そうするべきだった。
小泉さんは、選挙には天才的、と言われる。確かにそうなんだろう。しかし民主党は、戦い方次第ではこの間の選挙で五分、もしくはそれ以上の結果をおさめることができた。
小泉さんが首相になったばかりの「自民党をぶっ壊す」発言の頃ならそうはいかないが、小泉人気は今、それほど圧倒的ではない。
民主党は、小泉さんの選挙戦略に負けた、「ワンフレーズ・ポリティクス」に負けたと言われている。しかし、僕はそうじゃないと思っている。
民主党は、「今、民主党は強行に反対しなければならないんだ」という自らの内部にひそむ悪魔のささやきに負けたのだ。「小泉マジックの幻影」に負けたのだ。きちんと勝負すれば勝てたのに。
*****
一方で、演技についても、同じようなことが言える。
俳優は、脚本を読み演じる時、「この役はこんな風に読んだ方がいいはずだ」という悪魔のささやきにかられる。時にはその悪魔のささやきは、「この演出家ならこういうのを望んでいるはずだ」とか、「こんな読み方をしたらみんなになんて言われるかわからない」などと形を変える。
その悪魔のささやきによって、「自分が今、今回の配役で、今の空気の中で、どうセリフを発したらよいか、または発したいのか」という役者の本来仕事であるはずの「自己表現」からはかけ離れていく。
悪魔に縛られた「読み方」は、一見よさげに見えることもあるが、「自己表現」からはほど遠い。その結果、お客さんに大きな感動を与えることが極めて難しくなってくるのだ。
*****
小選挙区だから、「ちょっとした差」が大きく結果に響くんだと思う。
僕はよく、「一線を越えよう」と言う。
「一線を越える」とは、「まずまずの演技」から一歩抜き出た「凄い演技」へと開花することだ。
政治の上でも演技の上でも、大切なのは「今、俺が(または組織が)どっちに行きたいのか、行くべきなのか、真ん中で考え(または感じ)、まっすぐに実行する」ということである。
「ああした方がいい」「こうした方がいい」過去のデータから学べることは、現在の直観にはかなわないのである。
千広峻史という男がいる。劇団リベラルシアターの代表の男だ。
俺は若い劇団をあまり知らない。というか、俺いつから「若い劇団」じゃなくなったんだ・・・?ともかく、若い劇団の人たちとは今まで知り合う機会があまりなかった。
「劇団にれ」さんの公演に千広君が一緒に出ることもあって、この間「リベラルシアター」の公演を見てきた。俺にはさっぱりおもしろさがわからなかった。しかし、「リベラルシアター」、これから期待だ。
まず、舞台の空気。役者が自由だ。
役者が自由にやっているかどうかというのは、見りゃだいたいわかる。「ああ、ここ演出家からいろいろ要求が出てるんだな」「こんな演技目指してるんだ」全部当たってるとは言えないが、俺の勘は割と当たる。ここの劇団は、ほんとに自由に、むしろやりたい放題といっていい演技が多かった。これは観客からはとても心地いい。
ああそうか、だから「リベラル」なのか・・・?自由な舞台をつくりたくて、「リベラル」にしたのかもしれない。「リベラル」と聞いて、俺は最初政治的な意味での「リベラル」を想像した。
しかし今の若い劇団が、政治的意味合いで「リベラルシアター」とつけるわけはないだろうとも思っていた。
とにかく彼らの舞台は役者が自由だ。
そして、代表の千広峻史という男が、スマート。
体型や見てくれじゃない。考え方がスマートなのである。
何が?なんだろう。なにかスマートだ。
これが俺が「リベラルシアターのこれからは期待」の理由だ。
その「リベラルシアター」、次回公演では既成脚本に挑戦するという。
既成脚本というのは、オリジナルではない、どこかで既にやったことのある作品のことだ。
若い劇団が既成脚本をやるというのは、あまり聞かない。
俺が知らないだけかもしれない。しかし、「既成をやる老舗の劇団vsオリジナルの若い劇団」という構図は、札幌演劇界ではもう20年以上前から続いてきたんじゃないかと思う。ここしばらく、「若い劇団が既成」というのは、なくはないが少なかった。
時代が動いたんだと思う。
これからは少しずつ、「若い劇団の既成」が増えていくんじゃないか。
今の若い人は、「新劇アレルギー」もきっとあまりない。
「リベラルシアター」の既成挑戦に、月日の流れを感じた。
俺は若い劇団をあまり知らない。というか、俺いつから「若い劇団」じゃなくなったんだ・・・?ともかく、若い劇団の人たちとは今まで知り合う機会があまりなかった。
「劇団にれ」さんの公演に千広君が一緒に出ることもあって、この間「リベラルシアター」の公演を見てきた。俺にはさっぱりおもしろさがわからなかった。しかし、「リベラルシアター」、これから期待だ。
まず、舞台の空気。役者が自由だ。
役者が自由にやっているかどうかというのは、見りゃだいたいわかる。「ああ、ここ演出家からいろいろ要求が出てるんだな」「こんな演技目指してるんだ」全部当たってるとは言えないが、俺の勘は割と当たる。ここの劇団は、ほんとに自由に、むしろやりたい放題といっていい演技が多かった。これは観客からはとても心地いい。
ああそうか、だから「リベラル」なのか・・・?自由な舞台をつくりたくて、「リベラル」にしたのかもしれない。「リベラル」と聞いて、俺は最初政治的な意味での「リベラル」を想像した。
しかし今の若い劇団が、政治的意味合いで「リベラルシアター」とつけるわけはないだろうとも思っていた。
とにかく彼らの舞台は役者が自由だ。
そして、代表の千広峻史という男が、スマート。
体型や見てくれじゃない。考え方がスマートなのである。
何が?なんだろう。なにかスマートだ。
これが俺が「リベラルシアターのこれからは期待」の理由だ。
その「リベラルシアター」、次回公演では既成脚本に挑戦するという。
既成脚本というのは、オリジナルではない、どこかで既にやったことのある作品のことだ。
若い劇団が既成脚本をやるというのは、あまり聞かない。
俺が知らないだけかもしれない。しかし、「既成をやる老舗の劇団vsオリジナルの若い劇団」という構図は、札幌演劇界ではもう20年以上前から続いてきたんじゃないかと思う。ここしばらく、「若い劇団が既成」というのは、なくはないが少なかった。
時代が動いたんだと思う。
これからは少しずつ、「若い劇団の既成」が増えていくんじゃないか。
今の若い人は、「新劇アレルギー」もきっとあまりない。
「リベラルシアター」の既成挑戦に、月日の流れを感じた。
「まきべ」の更新を楽しみにしていたみなさん、お待たせしました(いねーか?)。ブログ形式で綴る「演劇とか、社会とか、マキニウムとかのはじまり、はじまりです。その名の通り、演劇とか、社会とか、でたまにマキニウムとかについての雑感を綴っていきたいと思います。お楽しみに!
で、記念すべき第一回目の今日は、僕の出演する劇団にれ公演「橋からの眺め」について。
今週末、7日(金)からの稽古を今やっているのですが、この芝居の主演の、秋元さんの演技が、いい!!
少なくとも僕が見た秋元さんの演技の中では一番好きだし、なにせ「これが演劇の役者だ」というたたずまいなのであります。秋元さんが本当にこの脚本を愛していて、主人公のエディーという役を愛しているんだというのが凄く伝わってきます。
あとは本番でどれくらいプラスアルファが出るかですが、一緒に稽古に参加している僕も今から楽しみで あります。
でこの芝居、脚本がまたいいんです。アメリカの巨匠、アーサー・ミュラーの作品です。恥ずかしながら僕はアーサー・ミュラーの作品は今まで読んだことがなかったのですが、これがまたほんとにいい。というかレベルが高い。もうため息が出るくらいに上手くつくられている。
劇団にれ「橋からの眺め」、必見です。
で、記念すべき第一回目の今日は、僕の出演する劇団にれ公演「橋からの眺め」について。
今週末、7日(金)からの稽古を今やっているのですが、この芝居の主演の、秋元さんの演技が、いい!!
少なくとも僕が見た秋元さんの演技の中では一番好きだし、なにせ「これが演劇の役者だ」というたたずまいなのであります。秋元さんが本当にこの脚本を愛していて、主人公のエディーという役を愛しているんだというのが凄く伝わってきます。
あとは本番でどれくらいプラスアルファが出るかですが、一緒に稽古に参加している僕も今から楽しみで あります。
でこの芝居、脚本がまたいいんです。アメリカの巨匠、アーサー・ミュラーの作品です。恥ずかしながら僕はアーサー・ミュラーの作品は今まで読んだことがなかったのですが、これがまたほんとにいい。というかレベルが高い。もうため息が出るくらいに上手くつくられている。
劇団にれ「橋からの眺め」、必見です。
もう大分時間がたってしまったが、この間、自民党の野中さんが政界を退いた。野中さんは今も自分の後継者の選挙を「自分の選挙」と言って頑張ってるようだが、ともかく野中さんの引退によって自民党の派閥政治が終わったとされている。
自民党派閥政治については僕は詳しくは知らないのだけれど、「理念や政策の他に、各派閥の人間関係や数の力が政策決定に大きな影響を及ぼす」と僕は理解している。その派閥政治の象徴である橋本派の議員たちが自民党の総裁選で分裂したことにより、自民党の派閥政治は終わりを告げたと言うのである。
このことの良し悪しをここで論じるつもりはない。ただ、「時代は今、確かにそっちの方に動いている」と言うことだ。
そっちの方とは、「個人が尊重される」ということだ。僕らが子供の頃、学校では「先生の言う事をよく聞け」と言われていた。それが唯一であり絶対であった。部活動で活躍するものたちは僕の知ってる限りほとんどみんな「先生の言う事をよく聞いて」いたし、勉強ができる奴もやはり先生に従順な人が多かったように思う。そして先生の言う事を聞かないものは「ダメな生徒」とされたのである。今の学校がどのような状況かは知らないが、ともかく僕らの時代はそうだった。そして少なくとも僕は、その状況にほとんど疑問を感じていなかった。
確かに、「変な先生」「筋の違ったことを言う先生」に対して反発する心を持った事はあったが、人間的に(尊敬まではいかなくても)「普通」の先生の言う事は、基本的に従った。先生の言う事をよく聞く生徒が「よい生徒」であり、逆らう生徒が「悪い生徒」であった。
でも今、時代は確実に変わっている。
松井が、確かポストシーズンに入ってからの試合でトーレ監督に「高めは捨てろ」と言われていたのに高めの球を打って絶賛されたことがあった。イチローや中田は、どうも「人(先生)に言われた事をまじめにやる人」というイメージからはかけ離れている。「人が言ってることはそれはそれとして、自分が主体的に何が一番いいのかを考え、実行する」僕にはそんなイメージがある。
今の時代は、「結局自分しか信じられない時代」なのだ。「自分しか信じられない時代」には、「自分が自由に活動できる環境」が必要になってくる。制約が多いと、どんなに自分を信用しても活動に移ることができないからである。
小泉さんがやろうとしている「構造改革」も、原理的に近いところを目指している。規制をできるだけ撤廃して、各企業が自由に経済活動をできるようにする、というのが基本である。時代はとにもかくにも「個人の時代」なのだ。
だが「個人の時代」とは、「個人がバラバラになってる時代」ではない。経済活動をすべて個人でできるわけではないし、もちろん社会のあらゆる場面で共同作業というのは必要になってくる。というより社会というのはほとんどが共同作業だ。僕のやっている演劇もそうだ。
何が言いたいのかというと、今の時代は、もう「誰かの指示に従って一生懸命やる」だけではダメな時代だということだ。個人個人がどう考え、どう行動するのか、それがモノをいう時代なのだと思う。そして組織は、そのそれぞれの個人の活動をいかに生かしていけるかというのが問われる時代なのだ。
阪神の星野さんは、それを実践した。去年全然ダメだった今岡は、誰にも恐れられる一番打者になった。プロレスリング・ノアも、そういう価値観でやっている。
「自由な中で、個人がいかに頑張れるか」なのだ。
「巨人に必要なのは、自分のことよりも巨人のことを考える選手だ」そんなことを言った人がいた。組織の長に対して異議を唱えると、「まずいわれた事をきちんとやってから言え」と言われる。
僕はそんな考えは、もう古いと思う。マキニウムのメンバーにも、「いつでも辞めていい」と言っている。硬直化した会社は、どんどん淘汰されていく。個人を大切にしない組織は、滅びていくだけなのである。
自民党派閥政治については僕は詳しくは知らないのだけれど、「理念や政策の他に、各派閥の人間関係や数の力が政策決定に大きな影響を及ぼす」と僕は理解している。その派閥政治の象徴である橋本派の議員たちが自民党の総裁選で分裂したことにより、自民党の派閥政治は終わりを告げたと言うのである。
このことの良し悪しをここで論じるつもりはない。ただ、「時代は今、確かにそっちの方に動いている」と言うことだ。
そっちの方とは、「個人が尊重される」ということだ。僕らが子供の頃、学校では「先生の言う事をよく聞け」と言われていた。それが唯一であり絶対であった。部活動で活躍するものたちは僕の知ってる限りほとんどみんな「先生の言う事をよく聞いて」いたし、勉強ができる奴もやはり先生に従順な人が多かったように思う。そして先生の言う事を聞かないものは「ダメな生徒」とされたのである。今の学校がどのような状況かは知らないが、ともかく僕らの時代はそうだった。そして少なくとも僕は、その状況にほとんど疑問を感じていなかった。
確かに、「変な先生」「筋の違ったことを言う先生」に対して反発する心を持った事はあったが、人間的に(尊敬まではいかなくても)「普通」の先生の言う事は、基本的に従った。先生の言う事をよく聞く生徒が「よい生徒」であり、逆らう生徒が「悪い生徒」であった。
でも今、時代は確実に変わっている。
松井が、確かポストシーズンに入ってからの試合でトーレ監督に「高めは捨てろ」と言われていたのに高めの球を打って絶賛されたことがあった。イチローや中田は、どうも「人(先生)に言われた事をまじめにやる人」というイメージからはかけ離れている。「人が言ってることはそれはそれとして、自分が主体的に何が一番いいのかを考え、実行する」僕にはそんなイメージがある。
今の時代は、「結局自分しか信じられない時代」なのだ。「自分しか信じられない時代」には、「自分が自由に活動できる環境」が必要になってくる。制約が多いと、どんなに自分を信用しても活動に移ることができないからである。
小泉さんがやろうとしている「構造改革」も、原理的に近いところを目指している。規制をできるだけ撤廃して、各企業が自由に経済活動をできるようにする、というのが基本である。時代はとにもかくにも「個人の時代」なのだ。
だが「個人の時代」とは、「個人がバラバラになってる時代」ではない。経済活動をすべて個人でできるわけではないし、もちろん社会のあらゆる場面で共同作業というのは必要になってくる。というより社会というのはほとんどが共同作業だ。僕のやっている演劇もそうだ。
何が言いたいのかというと、今の時代は、もう「誰かの指示に従って一生懸命やる」だけではダメな時代だということだ。個人個人がどう考え、どう行動するのか、それがモノをいう時代なのだと思う。そして組織は、そのそれぞれの個人の活動をいかに生かしていけるかというのが問われる時代なのだ。
阪神の星野さんは、それを実践した。去年全然ダメだった今岡は、誰にも恐れられる一番打者になった。プロレスリング・ノアも、そういう価値観でやっている。
「自由な中で、個人がいかに頑張れるか」なのだ。
「巨人に必要なのは、自分のことよりも巨人のことを考える選手だ」そんなことを言った人がいた。組織の長に対して異議を唱えると、「まずいわれた事をきちんとやってから言え」と言われる。
僕はそんな考えは、もう古いと思う。マキニウムのメンバーにも、「いつでも辞めていい」と言っている。硬直化した会社は、どんどん淘汰されていく。個人を大切にしない組織は、滅びていくだけなのである。
演劇界の人たちと話していて、「褒める文化がないなあ」と思うことがよくある。「あそこの芝居はここがだめだった」「あのギャグが寒かった」という話はよく聞くのだが、「あの人が素敵だった」とか、「あのセリフはよかった」という話は、ほとんど、でもないがあまり聞かない。
「札幌の演劇のレベルが低いから」。それはそうかもしれない。
でも、他のジャンル、例えばスポーツや他の文化ではそうなのだろうか。どうも演劇界は批判が多いように思う。
演劇というジャンルが、入場有料という原則に成り立っているというのも原因かもしれない。人の芝居を観るときにはほとんどの場合、入場料を払う。それも100円とか200円とかではなくて、他に使えば結構な贅沢(と思うのは僕だけか)、とまではいかなくても、バイキングで焼肉やすしやラーメンやらを食べ放題食べたり、ちょっといいTシャツを買ったり、ガソリン代にするとニセコ往復(燃費がいい車はもっと遠くまで)できたりする金額を払うのだから、そりゃつまんないものを見せられたら文句の一つでも言いたくなるのはわかる。
ただでも、札幌の演劇界にいて思うのは、「それにしても褒めることがないなあ」ということである。別に自分たちの芝居が褒められないからではない。僕たちもおかげさまでそれなりの人数の方々(ほとんどが演劇関係以外の方)から褒められるようになってきた。もちろん今の現状に満足しているわけでは毛頭ないが、「褒めて」「褒めて」とわざわざここで書く必要は感じていない。ただ、演劇界全体として、「人を褒めることが少ないなあ」と思う。
「人を褒めるには勇気がいる」んだと思う。褒めるという事は、その人が良しとしていることがバレルということである。特に人前で褒めてしまったら、「ああ、この人はこういうのを良しとしているのね」となる。演劇界は、「何がいいのか」という価値観がものすごくバラバラな社会だから、自分の価値観に自信がないと、人を褒めるのはすごく勇気のいることになる。
しかし、芸術分野における表現者の成長には、人に褒められることが不可欠だと僕は思う。褒められることによって、「ああ、自分のいいところはここなんだ」と思い、そこを伸ばすことによって、表現が楽しくなり、それが認められると、「もっと表現したい」となる。自分のダメな所を直すだけでは、絶対に優れた表現者にはなれない。
日本人によくあるタイプだが、人に言われた自分のダメな所を直すだけの人は、一生、二流もしくは二流にもなれない三流や四流の表現者にしかなれない、と思う。 寺山修二をはじめとする小劇場運動によって、一度演劇界は価値観がぐちゃぐちゃになった。それ以来、いろんな人がいろんな事を考えていろんな価値観を持った演劇人が日本にいる。そのそれぞれを統一する必要なんかない。ただ、自分はどの価値観に共感するのか、いいと思うのか、そこはきっちり考えなければ、かっこわるいと思う。そして、その自分の持っている価値観にそった褒め方でなければ、相手の心には届かないんだと思う。
それはきっと、教育にも当てはまるんじゃないか、と思った。高度経済成長の時代が終わり、多様な価値観の時代になった。ただただ「まじめ」に働くことが美徳、とされた時代は終わった。まじめな事は一つの美徳ではあるが、社会の規範、では、もはやなくなった。日本人が一致して目指す人間像というものが何なのか、誰もわからなくなった。
だから、みんな「ちゃんと」は褒められなくなったんだと思う。「まじめ」な子どもを褒めたとしても、「さあ、その先に何がある?まじめの行く先はリストラだ、仕事人間だ」という疑問がぶら下がっている。雑誌に「子どもを育てるには褒めることがいいことだ」と書いてあるから褒める、そういう知識を持っているから褒める、という褒め方しかなくなった。
それでは本当には子供の心には届かないんだと思う。その場で「ああ、こういうことが褒められるんだ」という学習はあっても、自分という存在の中のもっと根源的なところにある自信には結びつかない。それでは「すくすくと」育っていく事は難しいんじゃないかと思う。 ちょっと乱暴な書き方かもしれない。でもそういう問題はきっと広がっているんじゃないかと思う。
価値観をすべて統一する必要なんかない。そんなこと、きっとできないんだと思う。今の多様な時代にあっては。
ただ必要な事は、自分としてどんな価値観を選択するのか、ということなんだと思う。それはものすごく難しいことで、一朝一夕に見つかるものではないかもしれない。でもそれがなければ、子どものいろいろな面での健全な成長も、札幌の演劇界の成長も、ただ成り行きにまかせるしかなくなってしまうのだと思う。
「下手な役者はいつまでたってもうまくなれない」そう言う人がいる。それには僕は付け加えてこう直したい。「価値観のしっかりしていないところでは、下手な役者はいつまでたってもうまくなれない。」現にうちの役者は、少しずつではあるがうまくなってきている。
「札幌の演劇のレベルが低いから」。それはそうかもしれない。
でも、他のジャンル、例えばスポーツや他の文化ではそうなのだろうか。どうも演劇界は批判が多いように思う。
演劇というジャンルが、入場有料という原則に成り立っているというのも原因かもしれない。人の芝居を観るときにはほとんどの場合、入場料を払う。それも100円とか200円とかではなくて、他に使えば結構な贅沢(と思うのは僕だけか)、とまではいかなくても、バイキングで焼肉やすしやラーメンやらを食べ放題食べたり、ちょっといいTシャツを買ったり、ガソリン代にするとニセコ往復(燃費がいい車はもっと遠くまで)できたりする金額を払うのだから、そりゃつまんないものを見せられたら文句の一つでも言いたくなるのはわかる。
ただでも、札幌の演劇界にいて思うのは、「それにしても褒めることがないなあ」ということである。別に自分たちの芝居が褒められないからではない。僕たちもおかげさまでそれなりの人数の方々(ほとんどが演劇関係以外の方)から褒められるようになってきた。もちろん今の現状に満足しているわけでは毛頭ないが、「褒めて」「褒めて」とわざわざここで書く必要は感じていない。ただ、演劇界全体として、「人を褒めることが少ないなあ」と思う。
「人を褒めるには勇気がいる」んだと思う。褒めるという事は、その人が良しとしていることがバレルということである。特に人前で褒めてしまったら、「ああ、この人はこういうのを良しとしているのね」となる。演劇界は、「何がいいのか」という価値観がものすごくバラバラな社会だから、自分の価値観に自信がないと、人を褒めるのはすごく勇気のいることになる。
しかし、芸術分野における表現者の成長には、人に褒められることが不可欠だと僕は思う。褒められることによって、「ああ、自分のいいところはここなんだ」と思い、そこを伸ばすことによって、表現が楽しくなり、それが認められると、「もっと表現したい」となる。自分のダメな所を直すだけでは、絶対に優れた表現者にはなれない。
日本人によくあるタイプだが、人に言われた自分のダメな所を直すだけの人は、一生、二流もしくは二流にもなれない三流や四流の表現者にしかなれない、と思う。 寺山修二をはじめとする小劇場運動によって、一度演劇界は価値観がぐちゃぐちゃになった。それ以来、いろんな人がいろんな事を考えていろんな価値観を持った演劇人が日本にいる。そのそれぞれを統一する必要なんかない。ただ、自分はどの価値観に共感するのか、いいと思うのか、そこはきっちり考えなければ、かっこわるいと思う。そして、その自分の持っている価値観にそった褒め方でなければ、相手の心には届かないんだと思う。
それはきっと、教育にも当てはまるんじゃないか、と思った。高度経済成長の時代が終わり、多様な価値観の時代になった。ただただ「まじめ」に働くことが美徳、とされた時代は終わった。まじめな事は一つの美徳ではあるが、社会の規範、では、もはやなくなった。日本人が一致して目指す人間像というものが何なのか、誰もわからなくなった。
だから、みんな「ちゃんと」は褒められなくなったんだと思う。「まじめ」な子どもを褒めたとしても、「さあ、その先に何がある?まじめの行く先はリストラだ、仕事人間だ」という疑問がぶら下がっている。雑誌に「子どもを育てるには褒めることがいいことだ」と書いてあるから褒める、そういう知識を持っているから褒める、という褒め方しかなくなった。
それでは本当には子供の心には届かないんだと思う。その場で「ああ、こういうことが褒められるんだ」という学習はあっても、自分という存在の中のもっと根源的なところにある自信には結びつかない。それでは「すくすくと」育っていく事は難しいんじゃないかと思う。 ちょっと乱暴な書き方かもしれない。でもそういう問題はきっと広がっているんじゃないかと思う。
価値観をすべて統一する必要なんかない。そんなこと、きっとできないんだと思う。今の多様な時代にあっては。
ただ必要な事は、自分としてどんな価値観を選択するのか、ということなんだと思う。それはものすごく難しいことで、一朝一夕に見つかるものではないかもしれない。でもそれがなければ、子どものいろいろな面での健全な成長も、札幌の演劇界の成長も、ただ成り行きにまかせるしかなくなってしまうのだと思う。
「下手な役者はいつまでたってもうまくなれない」そう言う人がいる。それには僕は付け加えてこう直したい。「価値観のしっかりしていないところでは、下手な役者はいつまでたってもうまくなれない。」現にうちの役者は、少しずつではあるがうまくなってきている。