「理想の俳優」に本当になる。 -25ページ目

「理想の俳優」に本当になる。

演劇で自己実現。演劇集合体マキニウム代表、演技トレーナー槙文彦によるブログです。

「価値基準のわからない時代」と言われている。

「モノの豊かさ」=「人の豊かさ」、ずっとそう信じられてきた時代が終わり、今、何が人々の価値基準になっているのか、わからない時代になってきている。

僕の価値基準はここでは述べないことにして(それは芝居で表現しようとしているんだから)、これからの時代、っていうか今の時代は、自分の価値観をちゃんと持っているかどうかが、人生うまくいくキーなのではないか、と考える。

価値観は多様化している。新しいことを始めようにも、いたるところで新しい事は始まってるわけだし、自分が始めようとしていることを自分の友人が、親が、彼女が、彼氏がなんと言うかわからない。 

でもそこで、人に何かを言われたからといって自分の考えている価値観を曲げてしまうのでは、何も始まらない。人からの批判を時には取り入れることも必要だけど、「自分が本当に大切にしたいものは何か」「何を幸せと考えるのか」ここに自分なりの(人と違っていい)、価値観を持っている事はこれからの時代、ものすごく大切になるんだと思う。


演劇にしてもそうだ。「新劇」から始まり(もっと古くはもちろん古典芸能はあったけど)、それに対する反動として小劇場運動が起こり、つかこうへいが現れ、他のたくさんの劇団が現れた。そしてまた、それに対する反動として「静かな演劇」と呼ばれる小ブームが起こった。

何が「おもしろい」のか、それは人によって違うし、時代によっても変化している。たとえば人の芝居を観たとして、それを僕たちは「おもしろい」とか、「おもしろくない」とか感じている。

でもそこに、価値基準はあるだろうか?「自分はこう考えるからおもしろい」「自分はこう考えるからおもしろくない」そういう考察があるだろうか?なんとなくやり過ごしてはいないだろうか。

演劇に対する価値基準を持つことを強要するつもりはない。でももし演劇を始めようと思ったり、演劇に関する活動をしようと思ったりしたなら、そこには「自分なり」のものが絶対必要になってくる。

他人に対して意固地になることがいいというんじゃない。そこは少し微妙なんだけど。自分なりのものがあって、人から影響を受ける、そういう事はいくらだってある。ただ大切なのは、「自分は」ということである。「他人はどう思うか知らないが、自分は、こう思う」ということである。


いろいろなものが雑多に存在している。混在している。だから今の時代はおもしろいんだと思う。でもだからこそ、「自分はこうだ、こう思う」という価値基準が、大切なんだ、ほんとに、そう思う。 
鈴木宗男議員が、今日、自民党離党の意思を表明した。小選挙区制において、自民党を離党するということは、彼の政治生命においてかなり致命的な影響を与えるだろうと言われている。

 鈴木宗男議員がやってきたことは、今の国民世論から言って、おそらく極めて「悪」だ。ムルアカ氏の問題だの、外務省のキャリアの人を殴っただの、もちろんそれも悪だけれど、もっと構造的には、いわゆる政と官の癒着、当選回数でもって政治への影響力を高め、政治献金をしてくれたところに公共事業などの仕事をもってくる。このやり方は、きっと自民党政治には今も大きくはびこっているんだろう。

 でも僕が言いたいのはそんなことではない。鈴木宗男っていう人は、初めて見たときから、どうも僕には「悪いこと」をする人には思えなかった。同じ北海道選出の佐藤孝行氏と比べてみても、佐藤孝行氏はなんだか顔からして「悪人」という感じがするんだけど、ムネオさんはどうも憎めないような感じがするのだ。別に鈴木宗男氏をかばっているわけでもなんでもない。彼をはじめとする旧来の自民党政治が、日本の政治を硬直化させ、ゆがめてきているのは事実だと思う。しかし、今日の離党の会見で見せた涙といい、なんだか愛嬌があるっていうか、憎めないっていうか、そんな感じがするんだよなあ。

 キーワードは「まじめ」・「義理」だと思った。こんなことを書くと皆さんからしかられそうだが、きっと鈴木宗男氏はすごくまじめで、義理深い人なんだと思う。もっともその「まじめ」や「義理深い」が、どういう方向に使われるかが問題なんだけど。

 おそらく彼の所属する、いや、していた「橋本派」の価値観や、鈴木宗男氏の先輩達や支持者に対してすごく「まじめ」で「義理深い」んじゃないかと思う。離党の会見で「私は悪いことはしていない」旨の発言があったのは、きっと彼がある意味純粋に、まじめに諸先輩方から教えられた手法を「誠心誠意」にやってきたからなんじゃないかと思う。理論的にとかじゃなくて、どっちかというと感覚的に、「まじめに」やってきたんじゃないか。その「まじめ」のためには多少の他人への迷惑はあっても仕方ない、というぐらいに。それがほんとにまじめというのか?は別として、少なくとも彼の中ではそう思っていたんだと思う。だから会見で見せた涙は「こんなにまじめにやってきたのにこの仕打ちは何なんだ!!同じようなやり方でみんな大臣とか首相をやってるじゃないか!!」という無念の涙だったんだと思う。

 僕はそこに、日本人の危険性があるように思う(お!大きく出たね)。日本人はよく「まじめ」「義理堅い」と言われる(たぶん、今も)。唐突だが、この間浅間山荘事件から30年がたった。太平洋戦争からは50年以上か。僕はどうも「連合赤軍事件」に昔から惹かれているようなところがある。彼等はやっぱりものすごく「まじめ」で「義理堅かった」んじゃないかと思う。太平洋戦争を押し進めていった人々もまた、そうなんじゃないかと思う。日本人のほとんどが、戦時中は「鬼畜米英」と思ってた訳だし、戦時中に「俺達悪いことやってるけどそれでいいじゃん、俺達得するんだから。わっはっは。」と思っていた人は少なかったんじゃないかと思う。近年ではオウム事件もまたそれに近いものがあるけど、そこに共通するのは、参加している人の多くが「まじめ」で「義理深かった」と言うことなんじゃないかと思う。

 なんだか我々日本人には、ある価値観を注入されると、盲目的に、とは言わないが、その内容がほんとに正しいのかよく考えずに「まじめ」になってしまうところがあるんじゃないか。友達やお世話になった人が「こうしてくれ」というと、その行動の意味をよく考えずに行動を起こしてしまうきらいがあるんじゃないか。憎めないムネオさんの会見の涙を見て、そんなことを思った。


 あー、脚本書かなくちゃ。

先週、堀幸子バレエ研究所の公演に出演してきた。出演といっても、僕がクラシックバレエを踊れるはずもなく、「演技の方で」の出演だった。

クラシックバレエには僕もあまり詳しくはないのだけれど、時に「演技だけ」の役が必要なときがあるらしい。まあ今回はほんとはちゃんと踊れる人がよかったんだと思うけど、なかなか男のバレエダンサーというのも少ないらしく、僕が出演、ということになったようだ。

クラシックバレエに出演するのは、実は初めてのことではない。8年くらい前にも、堀幸子先生にお世話になったことがあった。その時は、「コッペリア」という作品だったのだが、30分以上舞台の上でただ立っているだけ、という人形の役と、舞台に出てきて舞台上に下がっている鐘のひもを引っ張るだけの鐘つきの役の2役であった。演出家の鈴木喜三夫さんの紹介だったのである。

今回は、それに比べるとかなり重要な役であった。クリスマスの夜の夢の中の少女を、すばらしい世界へ導いていくというサンタクロースの役であった。バレエのお客さんは、僕の演技をどう見たのだろう。


前置きが長くなってしまった。別にそんなことはどうでもいい。今回書きたいと思ったのは、「クラシックバレエはすばらしい!!」ということである。 

まず音楽。「クラシックバレエなのに、どうして音楽?」と思うかもしれないが、クラシックバレエの中で、音楽というのはすごい重要な位置を占める。クラシックバレエは、振り付けにもある程度の決まりはあるらしいが、基本的にはストーリーと音楽から得られるインスピレーションによって振り付けられる。だから音楽が駄目だと、振り付けといってももうどうにもなんないのである。

そしてその音楽がすごい。クラシックバレエの中の音楽は、今でもよくCMなどで使われているぐらい名曲が多い。当代の超一流の作曲家たちが、2時間なり3時間なり流れ続ける曲を、「踊りのため」に、作曲しているのである。 

昔から完全に決まった形で、誰が上演しても変更されることなく使われるのは音楽だけである。「くるみ割り人形」といえば必ずチャイコフスキーの「くるみ割り人形」であって、あらすじは同じだけど音楽は新しい、坂本龍一の「くるみ割り」、なんてのはありえない。

僕はあまり詳しくないので今回出演した「くるみ割り」のことしか言えないが、子供達のかわいらしさ、雪の荘厳さ、そしてアラブ、スペイン、中国などの人々のそれぞれの魅力を存分に表現している。さらに、それはストーリー上必要なことであって、それらが表現されているからこそストーリーが重みを増す、というようにつくられている。

ストーリーの構成を意識した上で一つ一つの曲がとても美しい。これはまさに傑作と言っていい。


さて、そして踊りである。クラシックバレエというのは、振り一つ一つに名前が付いている。「アラベスク」といえば、世界中のバレエダンサーが片足を後ろに伸ばして上げるという同じ形をする。そしてすべてのクラシックバレエは、その決まった型の積み重ねによって、振り付けがなされていく。

演劇にはそのような基本の型というものはない。まあその基本の型がないというのが演劇の魅力であるとは思うが、とにかくクラシックバレエでは基本の型が決まっていて、その育成方法も決まっていて、それらが体系的に構成されて作品がつくられている。そしてそれがまた美しい。

あの美しさというのは、誰がどう見ても美しいんだと思う。基本が決まっているということは、乱暴に言えば誰でもちゃんと基本を学べば、「誰がどう見ても美しく」踊れるということである。そんな基本を、ゼロから構築していくということは、並大抵のことではない。


何がすごいか。結局そこまで高質の曲を一流の作曲家につくらせてしまうことも、体系的な基本の型や育成方法がつくられたことも、その所以はそれがつくられた時代に、それだけ世間の人たち全体(全員ではないが)が本当にクラシックバレエに魅了されていた、ということだと思う。

クラシックバレエ愛好家の人たちが一部にいて、その人達がとても立派な人たちだった、というようなものではない。世間全体が、バレエに注目していたんだと思う。そのスケールのでかさを、その音楽とその踊りから、痛感した。
今週号(7.30号)の「週刊ディアス」(光文社)の中で、村上龍が、「プロスポーツ選手に必要なのは、メジャーに行くことそのものより、メジャーを意識することだ」と言っている。これを札幌演劇界に当てはめると、「東京に行くことそのものよりも、東京を意識することだ」となる。

高校の時あたりから、どうやら僕の周辺では、演劇をするために東京に出る=かっこいいこと、という考え方が一般的だった。「あいつ東京行ったんだって」「おお、すっげえなあ」そんな会話があった。

今でも結構そういう考え方は一般的なのではないかと思う。「誰それさんの息子さん、東京行ったんですって」「あらー、すごいわねー、うちのなんかもう30になるのに札幌で、ちまちまやってるわ」そんな声が聞こえてきそうである(注:まき家のことではありません。)。

東京グローブ座の公演「リチャード2世」が先日札幌であった。僕は観に行ってはいないのだけれど、そこに出演していた俳優の中に札幌出身の方がいるらしい。北大演劇研究会出身である。他にも、札幌出身で東京で活躍しておられる方はたくさんいる。彼等は文句なく「かっこいい」と思う。

けれど、いま、僕等にとって重要なのは、東京に行くことそのものではなく、東京を意識し、東京でも通用する表現力を持っているか、ということを常に自問していくことではないか、そう思う。

妥協していくことはたやすい。けれど、「東京でも通用するのか」という意識があるかないか、というのが、表現そのものの才能よりも重要なのではないか、と思うことがある。

前回とほとんど同じ内容になってしまった。村上龍の文章を読んで、再びそう思ったのである。
なぜ札幌で芝居を続けているか。なぜ東京に出ないか。

はじめはやりたい芝居が札幌にあるからだった。でも今は、札幌にいた方がカッコイイと思うからだ。

「札幌にいるのに、東京と比べても遜色ないじゃん。」これがカッコイイと思う。だから札幌に残っている。でも札幌に残っていいもん創れてなかったら、こりゃカッコわりーなあ。

今は、どうなのか。

この間、東京から来た劇団「偉人舞台」の芝居のスタッフを手伝った。紋別出身の我孫子兄弟が中心になってやっている劇団だ。僕は彼らに、完全にやられてしまった。

目指している方向性は僕らとは違う。でも、僕らの断然上を行っている。役者の解放値が断然高いのだ。ほとんどの人が100%解放している。「のびのび」やっているのだ。

「のびのび」?こういうとなんか安っぽいなあ。でもまあのびのびなのだ。そしてそのうち何人かは、客席の空気を感じながら、その日の客席の空気を引っ張っていける技術を持っている。これはなかなかできたもんじゃない。

東京と札幌を比べたら、役者のレベルが(脚本や演出のレベルはとりあえずおいといて)大リーグと日本のプロ野球ぐらいに違うと思った。いやもっとか。JリーグとセリエAぐらいか?どっちにしろ、札幌にも東京で通用する役者の方はいると思うが、全体のレベルが段違いに違うのではないか。そう思った。

もちろん、東京の方が有利なことは間違いないと思う。いくつもの俳優養成所があり、養成所出の俳優なんてごろごろいる。ちょっと力をつけて運が良ければ、一流の俳優から助言をしてもらえるかもしれない。気の合う仲間との出会いの場も多いだろう。札幌にいると、まず心のどこかで「東京には勝てっこない」と思いやすい。っていうか普通は思う。

でも、である。札幌で芝居をやるって決めた以上、そこから抜け出さなきゃいけないんじゃないか。少なくともやってる以上は、「東京に負けないものをつくってやる」っていうせめて意気込みぐらいは、なきゃ駄目なんじゃないか。

札幌にいたら、「そんなこと絶対無理じゃん」ってなんだか戦わずして負けてしまいそうになる。でもそこを抜け出さなきゃいけないと思う。

期せずして、演劇界は「地方の時代」って言われている。コンサドーレだって、開幕前は今の快進撃を誰も予想できなかったに違いない。「東京で頭角をあらわすより、地方で有名になった方がひょっとしたら認知されるのが早いかもしれない」誰かが言っていた。

そう、そうだ!札幌で頑張るべきなんだ。そしてそれが地方の文化の発展の一端を担い、ひいては文化における地方分権が生まれるんだ!!そしてそれがそれが、北海道の経済を盛り上げる勇気につながるんだ!!!


そう言って、自分を慰めている僕がいる。