ライブ当日のやる曲目を、今日おおかた決めました。
「これぞ槙文彦」というラインナップです。
フォーク有り、ロックあり、オリジナルあり、熱い曲有り、熱い清くあり・・・。
おそらく楽しんで頂けると思います。
先月位からライブが楽しくてしょうがない!!
ぜい会場に足をお運び下さいーーー!
赤ちゃんポストが設置される事になりそうだ。
世論は赤ちゃんポストへの賛否で揺れている。
唐突だが、僕の予想では、「赤ちゃんポスト」に反対の人はおそらく大方、「北朝鮮への経済制裁賛成」だ。
安倍なにがしに代表されるこの考え方には、「ダメなものはダメ」という考え方がその下敷きになっている。
「ダメなものはダメ」だから「赤ちゃんを捨てるなんてダメ」「北朝鮮は悪い国で制裁するしかない」のだ。
その先にどういうことが起こるかという事を考えていない。この考え方の先にあるのは、「ダメな事をする人はダメな人だから、罰則を強化して取り締まろう」ということだろう。
赤ちゃんポストに赤ちゃんを入れる母親を肯定しようっていうんじゃない。偉いと言ってるんじゃない。ただ、状況は受け入れなければならない。北朝鮮という国があることを。そう言う母親がいるということを。
「自分が産んだ子どもを、赤ちゃんポストに入れて帰ってくる」
誰がどう考えたって楽しい事じゃない。うれしい事じゃない。精神的にリスクが大きい。
だがそのリスクを背負ってまで、ポストに入れたい母親は世の中に相当数いるだろう。そういう人たちをどうするのか?
「ダメな人はだめ」と言ってるのはたやすい。しかしその被害を被るのは子ども達だ。
ポストに入れたいような母親の元に置かれたまま育てられた方がいいのか、受け入れ態勢ができた専門の施設で育てられた方がいいのか。どちらも完全なyesではない。しかしその選択肢の中で考えなければいけないのだ。
今、日本人は全体として他人の「ダメ」なところを「批判したがり」になっている気がする。
経済的発展に自分たちの「自己肯定感」を見いだしていた日本人は、バブル崩壊によって、経済的崩壊によって、自分たちを肯定するすべを失っている。自分たちが「正しい」のかどうかわからなくなっている。
自分の「正しさ」がわからない時、自分のダメな所に気づかされる時、人は他人の「ダメな部分」を見つけたがる。
日本人全体が自分たちに自信を失って、自己肯定感が薄くなり、心の余裕を失って、他人の「ダメな所」を見つけたがっていると感じるのは僕だけだろうか?
他人の「ダメな所」を見つける事は気持ちがいい。指摘するのはもっと気持ちがいい。特に自分に対して自信を失い、「自分はダメだ」と思いこんでいる時には。
自分に自信があり、心の余裕がある時には「そんなに他人をいじめなくたって」「きっと失敗には失敗の理由があるんだ」などと考えられるが、自分に余裕がないとそうはいかない。
経済の失敗が、日本人全体の心の余裕を奪っている気がするのだ。
それが「ダメな人」の否定に繋がり、北朝鮮への攻撃的姿勢に繋がっている気がする。
「ダメな人はダメ」
その考え方の先には未来はない。
その考え方の先にあるものは、「ダメな人間」へのさらなる精神的圧迫で、「ダメな人間」の精神的爆発だ。
精神的爆発は、結果としてあらゆる事態を引き起こす。
それは赤ちゃんを殺してしまう事に繋がるかもしれない。
母親が赤ちゃんを殺してしまう事態を誘発するのか、ポストで受け入れるのか。
他人を批判するのは簡単だ。しかし状況を受け入れて解決策を示すのは簡単じゃない。
真に強い人間がやることは、どちらなのか―。
世論は赤ちゃんポストへの賛否で揺れている。
唐突だが、僕の予想では、「赤ちゃんポスト」に反対の人はおそらく大方、「北朝鮮への経済制裁賛成」だ。
安倍なにがしに代表されるこの考え方には、「ダメなものはダメ」という考え方がその下敷きになっている。
「ダメなものはダメ」だから「赤ちゃんを捨てるなんてダメ」「北朝鮮は悪い国で制裁するしかない」のだ。
その先にどういうことが起こるかという事を考えていない。この考え方の先にあるのは、「ダメな事をする人はダメな人だから、罰則を強化して取り締まろう」ということだろう。
赤ちゃんポストに赤ちゃんを入れる母親を肯定しようっていうんじゃない。偉いと言ってるんじゃない。ただ、状況は受け入れなければならない。北朝鮮という国があることを。そう言う母親がいるということを。
「自分が産んだ子どもを、赤ちゃんポストに入れて帰ってくる」
誰がどう考えたって楽しい事じゃない。うれしい事じゃない。精神的にリスクが大きい。
だがそのリスクを背負ってまで、ポストに入れたい母親は世の中に相当数いるだろう。そういう人たちをどうするのか?
「ダメな人はだめ」と言ってるのはたやすい。しかしその被害を被るのは子ども達だ。
ポストに入れたいような母親の元に置かれたまま育てられた方がいいのか、受け入れ態勢ができた専門の施設で育てられた方がいいのか。どちらも完全なyesではない。しかしその選択肢の中で考えなければいけないのだ。
今、日本人は全体として他人の「ダメ」なところを「批判したがり」になっている気がする。
経済的発展に自分たちの「自己肯定感」を見いだしていた日本人は、バブル崩壊によって、経済的崩壊によって、自分たちを肯定するすべを失っている。自分たちが「正しい」のかどうかわからなくなっている。
自分の「正しさ」がわからない時、自分のダメな所に気づかされる時、人は他人の「ダメな部分」を見つけたがる。
日本人全体が自分たちに自信を失って、自己肯定感が薄くなり、心の余裕を失って、他人の「ダメな所」を見つけたがっていると感じるのは僕だけだろうか?
他人の「ダメな所」を見つける事は気持ちがいい。指摘するのはもっと気持ちがいい。特に自分に対して自信を失い、「自分はダメだ」と思いこんでいる時には。
自分に自信があり、心の余裕がある時には「そんなに他人をいじめなくたって」「きっと失敗には失敗の理由があるんだ」などと考えられるが、自分に余裕がないとそうはいかない。
経済の失敗が、日本人全体の心の余裕を奪っている気がするのだ。
それが「ダメな人」の否定に繋がり、北朝鮮への攻撃的姿勢に繋がっている気がする。
「ダメな人はダメ」
その考え方の先には未来はない。
その考え方の先にあるものは、「ダメな人間」へのさらなる精神的圧迫で、「ダメな人間」の精神的爆発だ。
精神的爆発は、結果としてあらゆる事態を引き起こす。
それは赤ちゃんを殺してしまう事に繋がるかもしれない。
母親が赤ちゃんを殺してしまう事態を誘発するのか、ポストで受け入れるのか。
他人を批判するのは簡単だ。しかし状況を受け入れて解決策を示すのは簡単じゃない。
真に強い人間がやることは、どちらなのか―。
3月31日(土)
20:00オープン
出演者他にもいらっしゃると思いますがわかりません(笑)。
場所は、LOGというお店で、
北区北14条西3丁目 ゼウスビル地下だそうです。
ライブチャージは1000円です。
浅野友寿も出演します。彼は札幌在住最後のライブとなります。
ぜひお越し下さい!
20:00オープン
出演者他にもいらっしゃると思いますがわかりません(笑)。
場所は、LOGというお店で、
北区北14条西3丁目 ゼウスビル地下だそうです。
ライブチャージは1000円です。
浅野友寿も出演します。彼は札幌在住最後のライブとなります。
ぜひお越し下さい!
演劇集合体マキニウム#11「僕達の彷徨」にご来場頂きました皆様、ありがとうございました。公演に協力頂きましたみなさま、おつかれさまでした&ありがとうございました。
おかげさまで、本当に沢山の方々にご来場頂きました。そして得るものの大変多い公演となりました。
公演アンケートの中には、「この公演は失敗だ」と書いてあるものもありましたが、公演パンフレットにも書いたように「成功か失敗かは自分たちが決めるしかない」と思っています。
今の率直な思いとしては、「成功した部分も、失敗した部分もあった」そして全体としては「得るものがたくさんあった」公演だったと感じています。
舞台は正直言って「僕の理想とするもの」ではなかった。
それはひとえに僕の力不足です。それだけです。
こういうことを書くと、「そんなものを金を取って見せるのか」という人がよくいますが、映画にしても、舞台にしても、色々な制約や条件の中で、「少しでも理想に近づける」のが創作というもので、時にはうまく行かない事があるものだと思います。それは決して「手を抜いている」ということじゃない。誰がどう考えても「言い訳」にしか聞こえないかもしれませんが、今敢えてそう書きたいと思います。
ただ次の公演への反省材料は沢山見つかりました。それは舞台をつくっていく上での物理的な準備についての事もありますが、「さらにクオリティの高い舞台をつくるための反省」が最も大きなものです。
この「反省点」は今後に大いに生かしていくと共に、いつか僕達の願いが成就した時に、お話ししたいと思います。
アンケートには、沢山の心のこもった言葉をいただきました。もちろん厳しい言葉もありますが。その言葉の一つ一つが、僕達を勇気づけます。
「誰もがおもしろい舞台」をつくりたいんじゃない。
「誰もがおもしろい舞台」なんてあるわけがない。
僕達は「僕達のおもしろいと思う舞台」をつくっていきたいし、必ず近い将来成し遂げたいと思います。
これからもぜひ、演劇集合体マキニウムを見守ってやって下さい。よろしくお願いします。
おかげさまで、本当に沢山の方々にご来場頂きました。そして得るものの大変多い公演となりました。
公演アンケートの中には、「この公演は失敗だ」と書いてあるものもありましたが、公演パンフレットにも書いたように「成功か失敗かは自分たちが決めるしかない」と思っています。
今の率直な思いとしては、「成功した部分も、失敗した部分もあった」そして全体としては「得るものがたくさんあった」公演だったと感じています。
舞台は正直言って「僕の理想とするもの」ではなかった。
それはひとえに僕の力不足です。それだけです。
こういうことを書くと、「そんなものを金を取って見せるのか」という人がよくいますが、映画にしても、舞台にしても、色々な制約や条件の中で、「少しでも理想に近づける」のが創作というもので、時にはうまく行かない事があるものだと思います。それは決して「手を抜いている」ということじゃない。誰がどう考えても「言い訳」にしか聞こえないかもしれませんが、今敢えてそう書きたいと思います。
ただ次の公演への反省材料は沢山見つかりました。それは舞台をつくっていく上での物理的な準備についての事もありますが、「さらにクオリティの高い舞台をつくるための反省」が最も大きなものです。
この「反省点」は今後に大いに生かしていくと共に、いつか僕達の願いが成就した時に、お話ししたいと思います。
アンケートには、沢山の心のこもった言葉をいただきました。もちろん厳しい言葉もありますが。その言葉の一つ一つが、僕達を勇気づけます。
「誰もがおもしろい舞台」をつくりたいんじゃない。
「誰もがおもしろい舞台」なんてあるわけがない。
僕達は「僕達のおもしろいと思う舞台」をつくっていきたいし、必ず近い将来成し遂げたいと思います。
これからもぜひ、演劇集合体マキニウムを見守ってやって下さい。よろしくお願いします。
公演間近となりました!ぜひぜひみなさん見にいらして下さい!
演劇集合体マキニウム#11「僕達の彷徨(ぼくたちのほうこう)」
作・演出 槙文彦
出演 細川泰史 金子綾香 栗原聡美(劇団新劇場) 尾方聖恵 サトウサナエ 波多野友里恵 浅野友寿 大谷啓介(劇団リベラルシアター)吉江和子 大沼誠 小川貴大 濱道俊介
3月10日(土) 19時~
11日(日)14時半~
11日(日)18時半~
ターミナルプラザことにPATOS(地下鉄琴似駅直結)
前売り1500円
当日1800円
(事前にご連絡をいただければ、受付にて前売り券を用意いたします)
*****************
マキニウム本体として、3年ぶりの公演となりました。今回の公演は、札幌演劇界から将来を担う若手の実力派俳優や、老舗劇団の看板女優と多彩な顔ぶれでお送りする約2時間の作品となります。
3年ぶりの本公演ということで、いつもよりもさらに気合いが入っています。お時間がありました ら、ぜひぜひお越しください、お待ちしております。
ぜひぜひお越しください!!!!!!
演劇集合体マキニウム#11「僕達の彷徨(ぼくたちのほうこう)」
作・演出 槙文彦
出演 細川泰史 金子綾香 栗原聡美(劇団新劇場) 尾方聖恵 サトウサナエ 波多野友里恵 浅野友寿 大谷啓介(劇団リベラルシアター)吉江和子 大沼誠 小川貴大 濱道俊介
3月10日(土) 19時~
11日(日)14時半~
11日(日)18時半~
ターミナルプラザことにPATOS(地下鉄琴似駅直結)
前売り1500円
当日1800円
(事前にご連絡をいただければ、受付にて前売り券を用意いたします)
*****************
マキニウム本体として、3年ぶりの公演となりました。今回の公演は、札幌演劇界から将来を担う若手の実力派俳優や、老舗劇団の看板女優と多彩な顔ぶれでお送りする約2時間の作品となります。
3年ぶりの本公演ということで、いつもよりもさらに気合いが入っています。お時間がありました ら、ぜひぜひお越しください、お待ちしております。
ぜひぜひお越しください!!!!!!
「教育再生会議」が「第1次中間報告」に、いじめる児童・生徒への「出席停止」措置を明記する方針で一致したらしい。
「いじめと校内暴力を絶対に許さない学校を目指す」とうたい、「校則に『いじめ・校内暴力の禁止』を盛り込み、厳しく対処する」、いじめを「人間として恥ずべき愚かな行為だと認識させる」らしい。
ここでは「出席停止」に対して直ちに賛成、反対は述べない。僕が今日書きたいのはそこではない。今日書きたいのは、このような問題が起こった時にすぐに出てくる「許さない」という言葉についてだ。
犯罪に対して厳しく対処することは大切な事だ。しかし、「いじめ」に対して犯罪に対処するような対処の仕方が有効だろうか?
「いじめ」というのはあらゆる形態で行われる。上靴の中に画鋲を入れたり、何かを隠したり、みんなの前でズボンをおろさせたりという明らかなものから、無視や悪口、些細な事では「言葉じり」や「ニュアンス」だって、「いじめ」となることはある。いじめた側がいじめと感じていなくても、受け取る側は「いじめられた」と感じる事もある。
「いじめ」は犯罪だっていうけど、じゃあどこからどこまでが犯罪なんだ?全部犯罪だとしたら、そんな犯罪世の中いたる所で存在しているでしょ?
「職場の飲み会に誰かを誘わなかった」「何かのサークルの、付随的な話し合い(例えばそのサークルの主たる活動ではないみんなで行くキャンプについての話し合いとか)を一部の人間でした」とか、全部犯罪?じゃあ国民ほとんど犯罪者でしょう。上記のようなことで傷ついている人は世の中にいっぱいいるはず。
何を言いたいかというと。
今の世では、「人間を良い人間と悪い人間に分ける」と言う風潮が随分強いように思う。「いじめをやるのは悪い人間」「指導力のない教師はダメな人間」「北朝鮮はダメな国」「ミスをするのはダメな事」いちいち「いい事」と「悪い事」に分けて、「いい」事は褒める、賞賛する、「ダメな」ことは非難する、自戒する。
うまくいかない事や人を非難するのは簡単な事だ。しかし、じゃあうまく行かない人や事をうまく行くようにするにはどうしたらいい?そこの考察が完全に抜け落ちている事がありすぎる。
北朝鮮にしてもそうだ。「ダメな国」→「むかつく」→「経済制裁」これだけではただ感情を吐き出しているに過ぎない。
確かにそうしたくなる感情はわかる。しかし、「ダメな人間」→「しかりつける」or「排除する」こんな単純な行動でうまく行くほど人間は簡単じゃない。
「いじめる人間」から「いじめ」を排除したり、単純に「取り締まったり」したらどうなるか。今まで「人をいじめていた人間」は必ずそのストレスを他で発散しなければならない。それはタバコかもしれないし、犯罪かもしれない。覚醒剤かもしれない。自殺かもしれない。
「何もない」人間はいじめなんかしない。いじめる人間には、いじめる人間の“原因”“理由”があるのだ。それは「許す」とか「許さない」とかじゃない。「因果関係」なのだ。
「ダメな人間」もそうだ。「ダメな人間」になるには原因がある。その原因を考えもしないで、ただ「許せない」「ムカつく」で「排除」したりただ「叱っ」たりするだけではなんの解決にもならない。
自分の中の「ダメなところ」も同じだ。
自分の中の「ダメなところ」を非難して、自戒して、それで本当に解決するだろうか?忘れ物の多い人が、「ちゃんと確認して!!」とばかり考えていたら、細かい事は完全にできていても 今度はうっかり重要な事を忘れたりする。浮気性の人は自己嫌悪になりながらそこから抜け出せない。
「非難」して、「ダメ」と認識して、改善しようとして改良される部分なんてのは見せかけのほんの少しの部分に過ぎない。根本的な解決なんてできないのだ。そしてさらに悪い事に、「非難」して「ダメ」と認識して改良していく方法の重大な欠点は、大きな副作用があるという事である。
さっき述べた「いじめ排除」→犯罪・自殺・etc もその副作用だ。
忘れ物の多い人が「確認」「確認」ばかりしていては本来その人の持っている発想力や判断力に障害をきたす。
重要な事は、「今起こっている現象の原因を考え、対策を考え、行動を起こす」ということだ。それ以外に問題の解決方法はない。当たり前の事だ。「ダメ人間」→「排除」は原因に対する何の考察もない。
「いじめ」が「愚かな事」だということくらい、わかってるでしょう?誰だって。「愚かな事」だから「興奮する」のかもしれない。「禁止」されるから「やりたくなる」のかもしれない。
「全てのいじめの原因」は僕にはわからない。しかし確実に言える事は、「いじめる側」に大きな精神的ストレスがある事であり、その大きな部分は「自己否定」に関わる事だと思う。
親から自分を認められていない、「ダメな所」ばかり言われる。自分を否定される。そうすれば誰だって人の「ダメな所」を見つけたくなる。「いじめたく」なる。
今の世の中の、物事を「いいこと」と「ダメな事」に分ける社会的風潮が、「いじめ」を大きく助長しているんじゃないか、強くそう思う。
「いじめと校内暴力を絶対に許さない学校を目指す」とうたい、「校則に『いじめ・校内暴力の禁止』を盛り込み、厳しく対処する」、いじめを「人間として恥ずべき愚かな行為だと認識させる」らしい。
ここでは「出席停止」に対して直ちに賛成、反対は述べない。僕が今日書きたいのはそこではない。今日書きたいのは、このような問題が起こった時にすぐに出てくる「許さない」という言葉についてだ。
犯罪に対して厳しく対処することは大切な事だ。しかし、「いじめ」に対して犯罪に対処するような対処の仕方が有効だろうか?
「いじめ」というのはあらゆる形態で行われる。上靴の中に画鋲を入れたり、何かを隠したり、みんなの前でズボンをおろさせたりという明らかなものから、無視や悪口、些細な事では「言葉じり」や「ニュアンス」だって、「いじめ」となることはある。いじめた側がいじめと感じていなくても、受け取る側は「いじめられた」と感じる事もある。
「いじめ」は犯罪だっていうけど、じゃあどこからどこまでが犯罪なんだ?全部犯罪だとしたら、そんな犯罪世の中いたる所で存在しているでしょ?
「職場の飲み会に誰かを誘わなかった」「何かのサークルの、付随的な話し合い(例えばそのサークルの主たる活動ではないみんなで行くキャンプについての話し合いとか)を一部の人間でした」とか、全部犯罪?じゃあ国民ほとんど犯罪者でしょう。上記のようなことで傷ついている人は世の中にいっぱいいるはず。
何を言いたいかというと。
今の世では、「人間を良い人間と悪い人間に分ける」と言う風潮が随分強いように思う。「いじめをやるのは悪い人間」「指導力のない教師はダメな人間」「北朝鮮はダメな国」「ミスをするのはダメな事」いちいち「いい事」と「悪い事」に分けて、「いい」事は褒める、賞賛する、「ダメな」ことは非難する、自戒する。
うまくいかない事や人を非難するのは簡単な事だ。しかし、じゃあうまく行かない人や事をうまく行くようにするにはどうしたらいい?そこの考察が完全に抜け落ちている事がありすぎる。
北朝鮮にしてもそうだ。「ダメな国」→「むかつく」→「経済制裁」これだけではただ感情を吐き出しているに過ぎない。
確かにそうしたくなる感情はわかる。しかし、「ダメな人間」→「しかりつける」or「排除する」こんな単純な行動でうまく行くほど人間は簡単じゃない。
「いじめる人間」から「いじめ」を排除したり、単純に「取り締まったり」したらどうなるか。今まで「人をいじめていた人間」は必ずそのストレスを他で発散しなければならない。それはタバコかもしれないし、犯罪かもしれない。覚醒剤かもしれない。自殺かもしれない。
「何もない」人間はいじめなんかしない。いじめる人間には、いじめる人間の“原因”“理由”があるのだ。それは「許す」とか「許さない」とかじゃない。「因果関係」なのだ。
「ダメな人間」もそうだ。「ダメな人間」になるには原因がある。その原因を考えもしないで、ただ「許せない」「ムカつく」で「排除」したりただ「叱っ」たりするだけではなんの解決にもならない。
自分の中の「ダメなところ」も同じだ。
自分の中の「ダメなところ」を非難して、自戒して、それで本当に解決するだろうか?忘れ物の多い人が、「ちゃんと確認して!!」とばかり考えていたら、細かい事は完全にできていても 今度はうっかり重要な事を忘れたりする。浮気性の人は自己嫌悪になりながらそこから抜け出せない。
「非難」して、「ダメ」と認識して、改善しようとして改良される部分なんてのは見せかけのほんの少しの部分に過ぎない。根本的な解決なんてできないのだ。そしてさらに悪い事に、「非難」して「ダメ」と認識して改良していく方法の重大な欠点は、大きな副作用があるという事である。
さっき述べた「いじめ排除」→犯罪・自殺・etc もその副作用だ。
忘れ物の多い人が「確認」「確認」ばかりしていては本来その人の持っている発想力や判断力に障害をきたす。
重要な事は、「今起こっている現象の原因を考え、対策を考え、行動を起こす」ということだ。それ以外に問題の解決方法はない。当たり前の事だ。「ダメ人間」→「排除」は原因に対する何の考察もない。
「いじめ」が「愚かな事」だということくらい、わかってるでしょう?誰だって。「愚かな事」だから「興奮する」のかもしれない。「禁止」されるから「やりたくなる」のかもしれない。
「全てのいじめの原因」は僕にはわからない。しかし確実に言える事は、「いじめる側」に大きな精神的ストレスがある事であり、その大きな部分は「自己否定」に関わる事だと思う。
親から自分を認められていない、「ダメな所」ばかり言われる。自分を否定される。そうすれば誰だって人の「ダメな所」を見つけたくなる。「いじめたく」なる。
今の世の中の、物事を「いいこと」と「ダメな事」に分ける社会的風潮が、「いじめ」を大きく助長しているんじゃないか、強くそう思う。
2006年も終わろうとしている。
密かにこのブログをご覧になっている方、いつもありがとうございます。更新してなくてごめんなさい。ライブの告知ばかりでごめんなさい。
さて、2006年の終わりに、「まじめが日本をダメにする」というテーマでこのブログを締めたい。このテーマはずっと書こうと思っていたテーマであった。
~~~~~~~~~~
僕達日本人は、何かとまじめに考える。
「これってどうなんだろう」「この行動ってどうなんだろう」僕達はいつもそんなことを考えて生きている気がする。
何かに結果が出なかった時、うまく行かなかった時、「まじめにやっていただろうか?」「がんばりが足りなかったからじゃないか?」「精一杯やっていただろうか?」
これは暴走族の兄ちゃん達や犯罪者集団、果ては暴力団組織でも多分そうだろう。
アメリカやイタリアやアジアのマフィアが「俺たちは頑張りが足りないんじゃないか?」と悩んでいる姿は想像もつかないが、日本の暴力団ならあり得る気がする。シノギの少ない若者や下部組織に「てめぇらは頑張ってないんじゃ」を怒る上役。知ってる訳じゃないけどあってもおかしくない気がする。
僕達日本人は、「頑張っているかどうか」に対する価値観がとても高い民族なんだと思う。
人に対する評価は、「結果が出ているかどうか」が一番で、「頑張っているかどうか」が2番、「頑張ってなくて結果が出ていない」のは最悪に評価が低い。場合によっては「結果が出ているかどうか」より「頑張っているかどうか」の評価の方が高い場合もあるし、また「結果が出ている人」は「きっと頑張っているんだろう、だから偉いんだよね」となる時もある。結果が出ていても頑張っていなさそうに見える人には評価が低い場合もある。
「頑張っているか」「人としてどう生きているか」そこに対する価値観、僕の言う「まじめ」はそういう事であり、僕達日本人はこの価値観がとても高いのだと思う。
日本は高度経済成長を歩んでくる中で、この日本人の持っている「まじめ重視観」は大きな力を発揮してきた。
戦後の高度経済成長は、大量生産、大量消費社会への仲間入りだった。「正確に同じ物をできるだけ早く作る。」これが日本の労働者に求められた要求だった。日本の労働者はこれがとても得意だった。「まじめ」な日本人は、「頑張る事」が第一だからだ。頑張って頑張って、一生懸命正確に、同じ物を大量に作ってきた。これがきっと高度経済成長に好影響を与えたんだと思う。
僕は何もそれを否定するつもりはない。僕達はそのお陰で今の経済的に豊かな社会を生きている。よく「今の社会を作った大人がダメだった」という輩(やから)がいるが、僕はそういうのは好きじゃない。今の大人達がああじゃなかったら僕達は韓国よりも、中国よりも遅れた国に生きていたかもしれない。
ただ、時代は確実に変わってきている。
「いいものをただ安く売る」ことを信条としてきたダイエーは今大変な苦境にいる。「いいものをいかに早く、正確に作るか」だけでは今の世の中では何の結果も残さない。
経済的に豊かになったこの国の中で、「売れる物をつくる」ためには創意と発想が必要だ。これは僕が特別に言ってる事じゃなく、もはや当たり前の事だ。
今日本人は、「単純なまじめ美化主義」から脱却しようとしている、その過渡期にいるんじゃないかと思う。
「まじめな人」は「いい人間」と「悪い人間」の基準点を作る。
「まじめな人」は一つのことに執着しがちだ。
以上の「まじめな人」の性質は、「正確に、いいモノを早くつくる」ことが第一とされる社会では大変な効力を発揮するが、自分で判断し、物事を組み立てていったりしなければいけない社会では大変な弊害になる。
「いい人間」と「悪い人間」を分ける事は、自己嫌悪を誘発する。誰でもいつでもいい人間であるわけはなく、いつでも「いい人間」である人はその基準点がとても低いか、いつでも「いい人間」であらねばいけないと頑張ってるストレスを溜め込んでいってるかのどちらかだ。人は自分のことを「悪い人間だ」とか「ダメな奴」と思い自己嫌悪になることによって、次へのモチベーションが下がっていく。これは大きな弊害だ。
まじめな人は、「自分の中の問題点を一つ一つ見つけ、そこを解決する事に執着する。「一つのことに執着する」ということは、「全体を見渡すバランス感覚が鈍る」という事だ。その二つを同時にこなすなんて事は不可能だ。まじめであればまじめであるほど、この傾向は強まる。一つの事に執着し、ものすごく頑張る。その結果、全体が見渡せない=今一番大切な事が見えない事になるのだ。
「自己嫌悪」と「バランス感覚の欠如」。
この二つは今の社会を生きていく中で大変な弊害だ。
時代の成功者の中に、「毎日自己嫌悪になりながらがんばっている人」や「バランス感覚が悪いながら不器用に頑張っている人」は想像できない。ホリエモンや村上さん(二人とも逮捕されちゃったけど)松坂大輔や松井やイチロー、井川や荒川や安藤や浅田や末續にそんなイメージはない。駒苫だってそうだ。
「あの人達は結果が出てるからいいんだよ」「結果が出てなければ頑張るしかないじゃない」そう人は言う。
逆だ。「頑張ってだけいるから結果が出ないんだ。
結果を出すためには、何が課題なのかを冷静に考え、その課題はなぜ克服できないのかを考える必要がある。原因がわかれば、結果は自ずとついてくる。目的があれば、その目的のために何をすればいいかを考え、その筋道がわかれば結果が見えてくる。
例えばスポーツのように、その目的達成のための筋道の中に「筋肉増強」といった「がんばらなければいけない課目」が含まれる場合には、もちろん頑張る事も必要だ。しかしそれは「頑張る事が美しい」からではなく「目的達成のために頑張る事が必要だからがんばるのだ。
いじめの問題もこのことが大きく影響していると思う。
「まじめな人間」はストレスがたまりやすい。「いい人間」と「悪い人間」の基準点を作ってしまっているため、「自分がダメな人間である」と思う度にストレスが溜まっていく。そしてそのストレスはどこかで吐き出さなければならない。いじめの、いじめる側の原因の大きな部分はそこにあるんじゃないかと僕は思っている。
「頑張っていればいい時代」は終わった。僕達は「結果を出さなければいけない時代」に生きている。結果を出すために、「まじめなこと」は「必要不可欠な事」じゃない。自己肯定と目的達成への楽観的な見込み、そしてそれを実現しようとする力、そこに現代を生きるキーワードがあるんじゃないかと思う。
あ、年明けちゃった。
密かにこのブログをご覧になっている方、いつもありがとうございます。更新してなくてごめんなさい。ライブの告知ばかりでごめんなさい。
さて、2006年の終わりに、「まじめが日本をダメにする」というテーマでこのブログを締めたい。このテーマはずっと書こうと思っていたテーマであった。
~~~~~~~~~~
僕達日本人は、何かとまじめに考える。
「これってどうなんだろう」「この行動ってどうなんだろう」僕達はいつもそんなことを考えて生きている気がする。
何かに結果が出なかった時、うまく行かなかった時、「まじめにやっていただろうか?」「がんばりが足りなかったからじゃないか?」「精一杯やっていただろうか?」
これは暴走族の兄ちゃん達や犯罪者集団、果ては暴力団組織でも多分そうだろう。
アメリカやイタリアやアジアのマフィアが「俺たちは頑張りが足りないんじゃないか?」と悩んでいる姿は想像もつかないが、日本の暴力団ならあり得る気がする。シノギの少ない若者や下部組織に「てめぇらは頑張ってないんじゃ」を怒る上役。知ってる訳じゃないけどあってもおかしくない気がする。
僕達日本人は、「頑張っているかどうか」に対する価値観がとても高い民族なんだと思う。
人に対する評価は、「結果が出ているかどうか」が一番で、「頑張っているかどうか」が2番、「頑張ってなくて結果が出ていない」のは最悪に評価が低い。場合によっては「結果が出ているかどうか」より「頑張っているかどうか」の評価の方が高い場合もあるし、また「結果が出ている人」は「きっと頑張っているんだろう、だから偉いんだよね」となる時もある。結果が出ていても頑張っていなさそうに見える人には評価が低い場合もある。
「頑張っているか」「人としてどう生きているか」そこに対する価値観、僕の言う「まじめ」はそういう事であり、僕達日本人はこの価値観がとても高いのだと思う。
日本は高度経済成長を歩んでくる中で、この日本人の持っている「まじめ重視観」は大きな力を発揮してきた。
戦後の高度経済成長は、大量生産、大量消費社会への仲間入りだった。「正確に同じ物をできるだけ早く作る。」これが日本の労働者に求められた要求だった。日本の労働者はこれがとても得意だった。「まじめ」な日本人は、「頑張る事」が第一だからだ。頑張って頑張って、一生懸命正確に、同じ物を大量に作ってきた。これがきっと高度経済成長に好影響を与えたんだと思う。
僕は何もそれを否定するつもりはない。僕達はそのお陰で今の経済的に豊かな社会を生きている。よく「今の社会を作った大人がダメだった」という輩(やから)がいるが、僕はそういうのは好きじゃない。今の大人達がああじゃなかったら僕達は韓国よりも、中国よりも遅れた国に生きていたかもしれない。
ただ、時代は確実に変わってきている。
「いいものをただ安く売る」ことを信条としてきたダイエーは今大変な苦境にいる。「いいものをいかに早く、正確に作るか」だけでは今の世の中では何の結果も残さない。
経済的に豊かになったこの国の中で、「売れる物をつくる」ためには創意と発想が必要だ。これは僕が特別に言ってる事じゃなく、もはや当たり前の事だ。
今日本人は、「単純なまじめ美化主義」から脱却しようとしている、その過渡期にいるんじゃないかと思う。
「まじめな人」は「いい人間」と「悪い人間」の基準点を作る。
「まじめな人」は一つのことに執着しがちだ。
以上の「まじめな人」の性質は、「正確に、いいモノを早くつくる」ことが第一とされる社会では大変な効力を発揮するが、自分で判断し、物事を組み立てていったりしなければいけない社会では大変な弊害になる。
「いい人間」と「悪い人間」を分ける事は、自己嫌悪を誘発する。誰でもいつでもいい人間であるわけはなく、いつでも「いい人間」である人はその基準点がとても低いか、いつでも「いい人間」であらねばいけないと頑張ってるストレスを溜め込んでいってるかのどちらかだ。人は自分のことを「悪い人間だ」とか「ダメな奴」と思い自己嫌悪になることによって、次へのモチベーションが下がっていく。これは大きな弊害だ。
まじめな人は、「自分の中の問題点を一つ一つ見つけ、そこを解決する事に執着する。「一つのことに執着する」ということは、「全体を見渡すバランス感覚が鈍る」という事だ。その二つを同時にこなすなんて事は不可能だ。まじめであればまじめであるほど、この傾向は強まる。一つの事に執着し、ものすごく頑張る。その結果、全体が見渡せない=今一番大切な事が見えない事になるのだ。
「自己嫌悪」と「バランス感覚の欠如」。
この二つは今の社会を生きていく中で大変な弊害だ。
時代の成功者の中に、「毎日自己嫌悪になりながらがんばっている人」や「バランス感覚が悪いながら不器用に頑張っている人」は想像できない。ホリエモンや村上さん(二人とも逮捕されちゃったけど)松坂大輔や松井やイチロー、井川や荒川や安藤や浅田や末續にそんなイメージはない。駒苫だってそうだ。
「あの人達は結果が出てるからいいんだよ」「結果が出てなければ頑張るしかないじゃない」そう人は言う。
逆だ。「頑張ってだけいるから結果が出ないんだ。
結果を出すためには、何が課題なのかを冷静に考え、その課題はなぜ克服できないのかを考える必要がある。原因がわかれば、結果は自ずとついてくる。目的があれば、その目的のために何をすればいいかを考え、その筋道がわかれば結果が見えてくる。
例えばスポーツのように、その目的達成のための筋道の中に「筋肉増強」といった「がんばらなければいけない課目」が含まれる場合には、もちろん頑張る事も必要だ。しかしそれは「頑張る事が美しい」からではなく「目的達成のために頑張る事が必要だからがんばるのだ。
いじめの問題もこのことが大きく影響していると思う。
「まじめな人間」はストレスがたまりやすい。「いい人間」と「悪い人間」の基準点を作ってしまっているため、「自分がダメな人間である」と思う度にストレスが溜まっていく。そしてそのストレスはどこかで吐き出さなければならない。いじめの、いじめる側の原因の大きな部分はそこにあるんじゃないかと僕は思っている。
「頑張っていればいい時代」は終わった。僕達は「結果を出さなければいけない時代」に生きている。結果を出すために、「まじめなこと」は「必要不可欠な事」じゃない。自己肯定と目的達成への楽観的な見込み、そしてそれを実現しようとする力、そこに現代を生きるキーワードがあるんじゃないかと思う。
あ、年明けちゃった。
「クリスマスのイブイブチャランケライブ」
2006年12月23日(土) 19:00~
場所;チャランケ(北海道小樽市稲穂2-13-17)
℡0134-27-6601
槇文彦、金子綾香ボブ・木本のエンジョイントライブ
チャージ1000円(1ドリンクサービス)
初のソロ・ライブです(ソロじゃなくて金子とのジョイントだけど)
約2時間、ぶっ通しです。来て下さいー!!
来て頂ける方には、詳しく場所をお教えします!
makinium@par.odn.ne.jpまでメールを下さい!!
2006年12月23日(土) 19:00~
場所;チャランケ(北海道小樽市稲穂2-13-17)
℡0134-27-6601
槇文彦、金子綾香ボブ・木本のエンジョイントライブ
チャージ1000円(1ドリンクサービス)
初のソロ・ライブです(ソロじゃなくて金子とのジョイントだけど)
約2時間、ぶっ通しです。来て下さいー!!
来て頂ける方には、詳しく場所をお教えします!
makinium@par.odn.ne.jpまでメールを下さい!!
12月9日のset listです。
言葉<吉田拓郎>
飾りじゃないのよ涙は<井上陽水>
白い恋人達<桑田佳祐>
終わりなき旅<Mr.children>
僕の人生の今は何章目ぐらいだろう<吉田拓郎>
歌うたいのバラッド<斉藤和義>
今回は、お客様の知ってそうな曲を多めにチョイスしました。
「飾りじゃないのよ~」が割と評判よかったらしい・・・。
言葉<吉田拓郎>
飾りじゃないのよ涙は<井上陽水>
白い恋人達<桑田佳祐>
終わりなき旅<Mr.children>
僕の人生の今は何章目ぐらいだろう<吉田拓郎>
歌うたいのバラッド<斉藤和義>
今回は、お客様の知ってそうな曲を多めにチョイスしました。
「飾りじゃないのよ~」が割と評判よかったらしい・・・。