
いつも行ってる六本木ヒルズのTOHOシネマズでしたけど、夜12:30スタートだったせいか、席は半分くらいしか埋まっていませんでした。
とても面白く、エキサイティングで、でもとても難しく、見終わった後にこれだけ語り合える映画も珍しいと思いました。
ストーリーは世界最大のSNSである"Facebook"の誕生の裏側ストーリーを描いています。
ざっとしたストーリーはこんなカンジ。
2003年、ハーバード大学に通う19歳の学生マーク・ザッカーバーグは、親友のエドゥアルド・サヴェリンとともにある計画を立てる。
それは、大学内で友達を増やすため、大学内の出来事を自由に語りあえるサイトを作ろうというもの。
二人で始めたこの小さな計画は、瞬く間に大学生たちの間に広がり、ナップスター創設者のショーン・パーカーとの出会いを経て、ついには社会現象を巻き起こすほどの巨大サイトへと一気に成長を遂げる。
一躍時代の寵児となった彼らは、若くして億万長者へと成り上がっていくのだが、その裏ではカネ、女、そして裏切りの渦に巻き込まれ、最初の理想とは大きくかけ離れた場所にいる自分たちに愕然とする。
日本を含む世界の登録者数が5億人を突破したと発表した“Facebook”。
数年以内には、登録者数が10億人に到達する可能性があるとも言われている。いまなお急成長を遂げている巨大帝国の裏側と真実に迫る話題作。
アカデミー賞候補にも挙げられている大ヒット作品で、ジブン自身もFacebookもmixiもやっているので、興味シンシンで見に行きました。
タクサンのヒトが指摘しているとおり、Facebookは実名登録で、その名のとおり、ジブンの写真を公開することがキホンになっているところがmixiなんかと大きく異なることです。
それに個人プロフィールのトップには学歴や勤務先が大きく表示されているところも違和感のあるところです。
その点については、この映画で良くわかりました。
ハーヴァード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグが作ったFacebookは、最初にハーヴァードの学内専用SNS(Social Networking Service)として作られたのです。
日本でいえば東大の学生専用サイトみたいなモノ。
彼らはその特権を活かして、在学中、卒業後に役に立つ人脈を作りたいという意図で作られたものなのだそうです。
だから最初に学歴。
確かにFacebookで自動的に紹介されるヒト達は大学卒のヒトが多いような気がします。
逆に、大卒でないヒト、大卒でもあまりそれをアピールしたくないヒトはほとんどがこの欄はブランクにしています。
このへんの実名登録と学歴重視のコンセプトについては、このblogがよくまとめてくれています。
2010.10.24 はてなblog 「映画「ソーシャル・ネットワーク」を見る前に予習をおすすめするものたち」
このblogを書いているヒトは慶應義塾SFCに在学中の大学生。
まー、アタマの良さが文面からも伝わってきます。
さっきのストーリーもこのblogからコピペさせてもらったものです。
出典はよくわからないけど、よくまとまっています。
この映画で、もうひとつ目をひくのは、有名大学の一部にあるという「クラブ」の存在。
正しくはFraternity(フラタニティ=Wiki)といいます。
クラブといっても日本のサークルとはちょっと違います。
このへんはこっちのblogがとても詳しいかも。
2010.6.8 macska dot org 「Facebookの普及に見る米国の社会階層性と、『米国=実名文化論』の間違い」
ちょっと長いけどあえてコピペ。
米国映画を観ているとたまに出てくると思うが、米国の大学ではフラタニティ(男性)・ソロリティ(女性)と呼ばれる社交クラブが多数存在しており、大学の枠を超えて全国的な繋がりを持っている。
クラブの普段の活動は、個々のクラブによって多少の違いはあるにせよ、九割型パーティと宴会で、残りがその他の触れ合いやたまに社会貢献みたいなものが含まれる。
学生はこうしたクラブに加入することで、「兄弟」と呼び合う仲間を得て、パーティに呼ばれて恋人と出会ったり、卒業後の就職や仕事で頼りになる人脈を手に入れたりする。
ところがハーヴァード大学ともなると、普通の大学にあるフラタニティだけでなく、さらに排他的な社交クラブも多数存在していて、本人の資質だけでなく家柄や財産などによっても選別されることになる。
普通の大学よりも、より将来に向けた——あるいは在学中にはじめるビジネスの——人脈作りという傾向が強いのだ。
とはいえ、現実にそうしたクラブの内部で行われることは、将来の地位を約束されている男性がそれを目当てに集まる女性の出会いイベントという意味あいはあるものの、一般の大学におけるフラタニティのそれとあまり変わらない(らしい、行ったことないけど)。
その後のFacebookの拡大も、排他性と特権性をうまく利用したものだった。
ハーヴァード大学の会員数が飽和状態に達したFacebookは、まず同じボストン近辺の他のエリート校に対象を広げ、次にそれよりややレベルが下がる大学、そして普通の大学一般、高校、最後に所属に関係なく誰でも参加できるようにした。
こうすることで、当初はハーヴァードや他のトップクラスのエリート校だけという排他性と特権性によって参加者を集め、次にそれより少し下の階層の人たちに「エリートと同じところに並べる」という優越感を与えながら、段階的にユーザ数を増やしていったのだ。
つまり、Facebookは人々に米国的な「社会的上昇の物語」を疑似体験させることを通して、実名登録制への抵抗を意識させずに、順次拡大していった。
映画では、このクラブについても描かれています。
エリートに群がる女子大生やその彼女たちが下着姿で踊りまくっているクラブのパーティ、そしてクラブに入るために必死な新入生たち。

この写真はこのAmebablogからお借りしました。このblogはコロラドの臨床心理士の女性が書かれていますが、U.S.のクラブの実態をよく伝えておられます。
2010.8.24 Ameba あねごカウンセラー・なつ美のマインドフルな生活「アメリカ大学の社交クラブの実態。」
大学のペーティ・サークルや医師とのお見合いパーティなんかを、100倍くらいえげつなくしたものでしょうか。
つまり、Facebookとは、こういった特権的な恵まれたヒト達の「クラブ」をネット上に展開していったものなのでしょう。
それはとても正視できないほど醜悪な特権意識だけど、反面本音ではそれに憧れる大多数の人たち。
Facebookが世界No.1 SNSになることができたのも、実はその上昇志向の本音にうまくフィットしたものだからなような気がします。
映画では創設者のマーク・ザッカーバーグはとてもイヤなヤツに描かれています。
でもそれは、20代前半で世界最年少の億万長者になった彼に対する、そして有名大学のエリート達の戦いに対する「やっかみ」と「羨望」がそう思わせるのかもしれないと思いました。
そういう目で見ると映画のラストシーンはなかなか考えさせられましたね。
この映画を観た方の感想をもっと知りたくなりました。
でもインターネットやSNSといったものがそもそもわかっていないヒトには、とてもタイクツな映画かもしれません。
その意味で、「ソーシャル・ネットワーク」はDigital Divide(情報格差=Wiki)についての「踏み絵」的映画なのかもしれません。
この映画のプロデューサーは、Aaron Benjamin Sorkin(アーロン・ソーキン=Wiki)。
ワタクシがダイスキなU.S.の政治ドラマ「ザ・ホワイトハウス=Wiki」を作ったヒット・プロデューサーです。
このドラマは4年連続エミー賞受賞の大ヒットドラマでしたけど、今回の「ソーシャル・ネットワーク」も彼の代表作のひとつになるのでしょう。
「だからこんなにセリフが理屈っぽいんだー」と思わず納得しちゃいました^^;