廻り、巡った、オレンジ色の季節。 -3ページ目

断定することのリスク。

意見の多様性って言葉があるのかどーかわかんないけど、

さまざまな意見が飛び交うってのはとてもいいことだと思います。


だって、そーゆー状況にでもならなければ深く考える機会もないわけで、

深く考える機会がないってことは、物事を表面的にしか判断していないってことで、

それでは他人に説明することも納得させることもできないわけです。


ってのが僕の考えでありまして、

他人の意見や考えを全否定して断定するってことは、とてもリスクが高いと思うのです。


例えば、昨今の原発関連。

これに関しては僕もどーかとは思ってはいるけど、

未だに原発推進してる政治家を絶対に信用してはいけない。って言い切る人がいます。

そうやって言う人を批判するわけじゃないけど、僕はその考えに全面的に賛成することが出来ない。

結論云々じゃなくて、そこに至るプロセスに関しては。


僕の勝手な解釈の話ですけど、

原発事故が起こった → 原子力はまだ人の手に余る → 危険だから使わない → 原発推進する人は信用できない

って思考のプロセスだとしたら、その断定はあまりに危険ではないかと思います。

うまく表現できないけど、少しずつ抜けてる気がする。


もちろん僕だって、原子力は人の手に余る技術だと思ってますが、

それは原発事故が起きたから思ったわけじゃなく、

まだ未知な部分とかリスクとかが大きいって漠然と思ってるからだし、

危険だから使わないんじゃなくって、危険を承知でどう使うのがいいのかって考えるのが進歩だと思う。


だから、原発事故が起きたのになお、原発を推進する政治家なんて信用ならん!ってのは、

なんかちょっと違うと思う。

リスクとか考えずに利益だけを求めてるんだとしたら、そりゃ信用できないけど。

というわけで、信用できないって考えるためには、もうひとつの理由が必要だと思うのです。


そこで仮に、その政治家がものすごいもっともな意見を出したとする。

それを聞くか聞かないかって問題にもなってくる。


もしも、最初から信用できないって断定した人だったら、そんな意見には耳も貸さず、

ただ真っ向から否定するんだと思う。きっと。

けど、その政治家が出す意見も聞くことが大切だと思う。

できるなら中立の立場で。


今は原発の話で例えちゃったからなんとなく難しい話になっちゃったけど、

とにかく意見がいっぱいあるってことはとてもいいことだと思います。

集団の中だと、結局はひとつの意見だけが残って、他は淘汰されてしまうけど、

結論が出るまでの過程で、良いとこ取りの新しい考えが生まれるかもしれないし、

結果的には変わらない場合もあるだろーけど、気分は変わってくる。


3人寄れば文殊の知恵とはうまく言ったもんだ。

過去を巡る。

先日、1年振りくらいにつくばに行きました。

行ったとは言うものの、車でふらーっと通り過ぎただけで、

つくばの地に立ったわけではありませんでした。


そしたら、新しい道ができててびっくりしたり、

あんなとこにお店があったっけ?ってびっくりしたりしました。

まだまだいろいろ変わっていく街なんだろーなーと思いました。


けど、僕も卒業してもう2年が経ち、社会人3年生となりまして、

修士に進んだ同期たちも順調にいけば卒業してて、

博士に進む人がいるのかどーかは知らないけど、

きっともうつくばには、知ってる人がすごい減ってて、

だんだん縁のない土地になっていってしまうのかと思うと、寂しくなりました。


仕事を始めてもうあっという間に2年が過ぎたけれど、

大学生の2年間なんてもっとずっと長かった気がして仕方がありません。

もっとずっといろんなことがあったし、いろんなこと考えさせられてた。

1週間がこんなに短いなんて思いもしなかったんだろーし。



そんな感じで感傷的になったつくばぶらり旅でした。

「今」と「過去」が違うものなんだって改めて思い知らされて、

「過去」には戻りたくても戻れないんだとも考えさせられて、

あんな思い出もいつかは記憶の彼方に消えてしまうんだろーなー。


けど、どれだけ時間が経ったとしても、

僕らがつくばで4年間生活したって事実は消えなくて、

たとえつくばになんの痕跡も残って無くても、

誰にも「過去」を消したり変えたりすることはできないんだから、

どーせなら楽しい思い出を持って生きたいものです。

価値のあるもの。

時間がない。
いろんな場面で時間がない。
けど、たまーに時間が余る。
そんな葛藤を抱える今日この頃です。

仕事では時間が全然足りません。
ここ最近残業をしないように頑張ってて、朝から必死に仕事を進めるのですが、
あっという間に昼が過ぎ、気付けば15時、あれよあれよと17時が過ぎ、
上司から帰れ帰れーとの声が飛ぶ平日です。

今月の飲みが2つくらい予定が決まらないです。
日時だけは決まったものの、場所が決まらず、はや1週間。
どっか探そうと思いつつも、なにかとやらなきゃいけないことがあったり眠かったりで、
夜中にあれこれ探すこともできない日々です。

デートのとき、時間が余ってしまいました。
映画のチケットを買い、ごはんを食べて、さぁどーしよう?と思ったら、
見る予定の映画の時間まで1時間。
どーしたらいいかわかんなくて、とてもとても暇でした。
映画もレイトショーだったから、その時間眠いし。


時間にはどーがんばっても逆らえない僕らですが、
限りある時間をいかに利用するかは僕ら次第。
あの余った時間を他のことに使えたらどんなにいいかと考えはするけれども、
そんなことは今の僕らに出来ることではないので、
なんとか有効に使えるようにするのが、今の僕らに出来ること。

人が想像できることは必ず現実になるって言うけれど、
時間にあれこれ干渉できるようになったらつまんないので、
できれば遠慮しておきたいものです。
有限だからこそ、価値があるものだと思うからです。

どーしよーもないあれこれ。

どっかの国会では内閣不信任案ってのが提出されそうだって話が出てて、

どっかのwebのニュースに対するコメントで、

「これに賛成しなかったら次の選挙では当選しないよね」

って書かれてるコメントがあったのです。


日本って国は「国民主権」って決まりがあるみたいだけど、

僕にはそれが良くわかんない。


かの有名な電脳百科事典には、

国民主権(こくみんしゅけん、 : popular sovereignty : Volkssouveränität)は、国民政治 権力の源(拠り所)・責任主体であり、政府国民 の意思により設立され運営される機関であるとする思想のこと。

って書かれてたけど、

国民にできる政治への介入は選挙権を行使した投票くらいな気がして仕方がない。

しかもその選挙と言う場は、国民が用意するものではなく、政治家に用意された場であるので、

国民が能動的に行動を起こすのは限りなく難しくて、

どーしても受動的にならざるを得ない。


国民の権利は、政治家っていうごく限られた一部の人が作った枠組みの中でしか発揮できないもので、

その限られた一部の人を選ぶのが国民だって言うけど、

それすら過去の限られた一部の日によって作られた枠組みの中で発揮される権利であって、

僕にはどーしても素直に納得することが出来ないのです。


だからと言ってこの仕組みをどーにかしよーとしても、

議員さんって言う限られた人たちの中でもさらに一部の人にしかできないよーなことであり、

そーゆー人がわざわざそんなことして自分の立場とか利益を壊すようなマネはしないだろーし、

難しいことなんだろーなーと思う今日この頃です。



似たようなことは一般民間企業にも通じることがあるかもしれない。


トップの人とか、それに近い人は、自分の立場とか利益を危うくするようなことはわざわざしない。

だからこそ社員全員が納得して満足するなんてことはなかなか無い。

それができてるんなら、それはすごいことで、

僕はそんな企業に行ってみたいと思っています。

歳の差。

こないだ、20歳女の子と喋ってたら、

「さんじゅーくどの!とろけそーなひ!」

でかつてポカリのCMにも使われた曲を知らないとのことでした。

ショックでした。

4歳差って、そこまで違うもんなのかと、落胆しました。