断定することのリスク。
意見の多様性って言葉があるのかどーかわかんないけど、
さまざまな意見が飛び交うってのはとてもいいことだと思います。
だって、そーゆー状況にでもならなければ深く考える機会もないわけで、
深く考える機会がないってことは、物事を表面的にしか判断していないってことで、
それでは他人に説明することも納得させることもできないわけです。
ってのが僕の考えでありまして、
他人の意見や考えを全否定して断定するってことは、とてもリスクが高いと思うのです。
例えば、昨今の原発関連。
これに関しては僕もどーかとは思ってはいるけど、
未だに原発推進してる政治家を絶対に信用してはいけない。って言い切る人がいます。
そうやって言う人を批判するわけじゃないけど、僕はその考えに全面的に賛成することが出来ない。
結論云々じゃなくて、そこに至るプロセスに関しては。
僕の勝手な解釈の話ですけど、
原発事故が起こった → 原子力はまだ人の手に余る → 危険だから使わない → 原発推進する人は信用できない
って思考のプロセスだとしたら、その断定はあまりに危険ではないかと思います。
うまく表現できないけど、少しずつ抜けてる気がする。
もちろん僕だって、原子力は人の手に余る技術だと思ってますが、
それは原発事故が起きたから思ったわけじゃなく、
まだ未知な部分とかリスクとかが大きいって漠然と思ってるからだし、
危険だから使わないんじゃなくって、危険を承知でどう使うのがいいのかって考えるのが進歩だと思う。
だから、原発事故が起きたのになお、原発を推進する政治家なんて信用ならん!ってのは、
なんかちょっと違うと思う。
リスクとか考えずに利益だけを求めてるんだとしたら、そりゃ信用できないけど。
というわけで、信用できないって考えるためには、もうひとつの理由が必要だと思うのです。
そこで仮に、その政治家がものすごいもっともな意見を出したとする。
それを聞くか聞かないかって問題にもなってくる。
もしも、最初から信用できないって断定した人だったら、そんな意見には耳も貸さず、
ただ真っ向から否定するんだと思う。きっと。
けど、その政治家が出す意見も聞くことが大切だと思う。
できるなら中立の立場で。
今は原発の話で例えちゃったからなんとなく難しい話になっちゃったけど、
とにかく意見がいっぱいあるってことはとてもいいことだと思います。
集団の中だと、結局はひとつの意見だけが残って、他は淘汰されてしまうけど、
結論が出るまでの過程で、良いとこ取りの新しい考えが生まれるかもしれないし、
結果的には変わらない場合もあるだろーけど、気分は変わってくる。
3人寄れば文殊の知恵とはうまく言ったもんだ。