回想2011年。手が悴む
今年は、もう振り返りたくないというのが本音かもしれない。
でも、世間が言うように、忘れてはいけない年だと思うよ。
ただ、コミュニティマナーにそって、この記述を書く気はない。
僕は、オルタナティブであるべきだという
アイデンティティを自覚させられた。
というより、
見ていた風景が、
ロストジェネレーションと呼ばれる僕らに、
そうさせるからもしれない。
ここは、世代論で構わない。
僕は、常に、選択を、見つけたい。
それを、いまも、強く思う。
カードが欲しい。
できれば、多くの表現体として。
誰もやっていないことが重要で、
他人が見た風景には興味がない。
とりあえず、誰かが通った道には興味が無く、
少しだけ、羨ましく、覗くかもしれないけど、
後を追いすがる気は、ない。
それ自体にも、意味がないのは知っている。
誰かは、誰かであり、その道は、その人のもだから、
とやかく、言いたくはない。
とやかく、言われたくないだろうし。
そうやって、僕は、周りを、見てきた。
だから、オルタナティブなのだろうと。
だから、今も、雑木が美しく敷き詰める目の前の森を
冷酷に鬱蒼と茂る野を、
自分の道として、切り開いてみたい。
今年、僕は、落ち着かなかった。
落ち着きがなかった。
いつも通りに。
それ以上に。
3.11は、色んな感情を剥き出しにさせた。
でも、僕は、何もできなかった。
感情に寄り添うしかなかった。
その後、僕は、困惑した。
長く在った情念と、その戸惑いに、軋んだ。
僕は、そのことを、早く忘れたいと思うけど、
今は、その春の疼きを、自由に、隠す。
見つけると、不自由になる。
ただ、感情に寄り添うしかなかった。
そして、今。
僕は、人間を見ている。
僕は、人間を見ている。
それは、関係への問い。
酷く哀しく感じることもあれば、
バカバカしいほど、苛立ちを覚えたりする。
悲しみのなかに、愛を見つけることもできるけれど、
そんなものは、幻想だと思う。
人は、人と、出会うとき、離れるとき、人間が、見える。
意味は、僕の中で、僅かに残るだけ。
好意は、拭い去られて、悪意は、ヒトの心を刻む。
引用。
あらゆるものは通りすぎる。
誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。
テネシー・ウイリアムスがこう書いている。
過去と現在についてはこのとおり。
未来については「おそらく」である、と。
しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、
そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。
僕たちがはっきりと知覚できるものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、
それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。
以上。
叙情のように笑う。
でも、世間が言うように、忘れてはいけない年だと思うよ。
ただ、コミュニティマナーにそって、この記述を書く気はない。
僕は、オルタナティブであるべきだという
アイデンティティを自覚させられた。
というより、
見ていた風景が、
ロストジェネレーションと呼ばれる僕らに、
そうさせるからもしれない。
ここは、世代論で構わない。
僕は、常に、選択を、見つけたい。
それを、いまも、強く思う。
カードが欲しい。
できれば、多くの表現体として。
誰もやっていないことが重要で、
他人が見た風景には興味がない。
とりあえず、誰かが通った道には興味が無く、
少しだけ、羨ましく、覗くかもしれないけど、
後を追いすがる気は、ない。
それ自体にも、意味がないのは知っている。
誰かは、誰かであり、その道は、その人のもだから、
とやかく、言いたくはない。
とやかく、言われたくないだろうし。
そうやって、僕は、周りを、見てきた。
だから、オルタナティブなのだろうと。
だから、今も、雑木が美しく敷き詰める目の前の森を
冷酷に鬱蒼と茂る野を、
自分の道として、切り開いてみたい。
今年、僕は、落ち着かなかった。
落ち着きがなかった。
いつも通りに。
それ以上に。
3.11は、色んな感情を剥き出しにさせた。
でも、僕は、何もできなかった。
感情に寄り添うしかなかった。
その後、僕は、困惑した。
長く在った情念と、その戸惑いに、軋んだ。
僕は、そのことを、早く忘れたいと思うけど、
今は、その春の疼きを、自由に、隠す。
見つけると、不自由になる。
ただ、感情に寄り添うしかなかった。
そして、今。
僕は、人間を見ている。
僕は、人間を見ている。
それは、関係への問い。
酷く哀しく感じることもあれば、
バカバカしいほど、苛立ちを覚えたりする。
悲しみのなかに、愛を見つけることもできるけれど、
そんなものは、幻想だと思う。
人は、人と、出会うとき、離れるとき、人間が、見える。
意味は、僕の中で、僅かに残るだけ。
好意は、拭い去られて、悪意は、ヒトの心を刻む。
引用。
あらゆるものは通りすぎる。
誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。
テネシー・ウイリアムスがこう書いている。
過去と現在についてはこのとおり。
未来については「おそらく」である、と。
しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、
そこにあるものもやはり不確かな「おそらく」でしかないように思える。
僕たちがはっきりと知覚できるものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、
それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。
以上。
叙情のように笑う。