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文化系寄り道倶楽部

アラフォーで2児のパパであり、80年代の音楽をこよなく愛し、ガンプラを愛で、パソコンをいじくり倒し、台所を妻から奪い取り、キングの小説におびえ、究極超人あ~るで笑いころげ、夜な夜なUST配信をしている

現在執筆中の新約・カチカチ山
当初、このブログで思いつきで書いたものが、なんだかすごいことになってきてます。

いや、別にすごいことって、誰かに評価されたとかそんなことではないのですが、当初思っていたヴォリュームをはるかに超える内容になってきてます。

何故、タヌキはおばあさんを殺害して、しかもおばあさんをおじいさんに食わせたのか?
何故、ウサギはおばあさんの敵をとるなど、引き受けたのか?
そして、一番の疑問

何故、タヌキはそんなに簡単にウサギにだまされて、火をつけられたり、火傷に塩を塗られたり、しまいには泥の船にまんまと乗せられるほど愚かなのか?

物語を読むに当たり、登場人物の「行動原理」というのは実に重要で、それが理解できれば、すんなりと物語に入れる、或いは、理解できなくても、興味をもてればいい。

タヌキがここまで全面的にウサギのいうことを信じたのには「何か理由」がなくてはならない
また、タヌキが、畑を荒らす→捕らえられる→おばあさんを殺害→おじいさんへの復讐としておばあさんを食べさせる といった行動をするのは「小さな罪からのエスカレート」というようには思えない
これは正気の沙汰ではない

では、どこで狂気が生まれたのか?

親しい人間を殺害し、食べさせるという行為は単なる狂気ではなく、
それは狂喜に至るものではなかろうか?


またウサギにまつわる逸話として月兎というものがある。
悪行をかさね、兎として転生した魂を、哀れに思った神が、兎に善行を行う機会を与える。
同じように猿と狐も善行を行う機械を与えられたのだが、猿は木から木の実を取り、狐は川から魚を採って来た。兎は狐と猿に薪を拾わせ、火をおこさせる。
狐と猿は何もしない兎を非難したが、兎は自分は木の実を取ることも魚を取ることもできないので、この身を焼いて捧げますと、自ら身体を火の中に投げ入れ、黒焦げになってしまった。
兎の身を犠牲にする行為を尊いものだとして、黒焦げの兎は月の影として永遠に奉られることとなった

いやー、これも狂気ですよね
草食動物は、食べられることで世の中に貢献しているのだという輪廻的な思想は受け入れられますが、弱者や無能なものはその身体を差し出して役に立てとでもいうのでしょうか?
物語としてはいささか、宗教観というか、そういう色が強すぎます。
むしろ、これを狂気として扱ったほうがわかりやすい

愛欲の究極的な表現として、愛するものの肉を食らうというものがありますが、逆に捧げるという行為もあるのでしょうか?
そのような狂気そして、ねじれた愛の行き着くところは狂喜なのでしょう


宣伝のようですがw
よかったら読んでくださいね
新約・カチカチ山
自分で物語を書くようになると、友人同士や家族の会話、テレビのニュースなど、すべての現実で心に引っかかるものは、頭の中にメモをとるようになる。

先日も

「好きなようにやればいいじゃん」と、「好きなようにやるしかない」は雲泥の差がある。

という会話には心に引っかかるものがあり、このフレーズは使えると、思うようになる。

そうなってきてはじめて、これまで自分が読んだ小説、特にスティーブン・キングの作品には、おそらくそうだろうと思われる節が多々ある

たとえば、主人公の新聞記者が奇怪な事件を追ううちに吸血鬼に出会う話がある。
田舎の空港からある日突然人が消える。

そのルートをたどっていき、ついに、その惨殺された現場に「追いつく」

気分が悪くなった主人公がトイレに駆け込むと・・・

鏡に映った背後の便器にありえない光景が・・・

なんと血の小便だけが、放物線を描いて、便器に流れていくではないか!

「吸血鬼は鏡には映らない」

この古典的な御約束事に「では排泄物はどうか?」

という発想の転換

そしておそらくは、主人公自体が、洗面所の鏡に写る背後の便器

そして、血尿を実際に目の当たりにしたことがあるのではないだろうか?

切り取られた現実を、巧みに操り虚構の世界を紡ぎ出す作業

実はネットワークが発達した社会では、まさしく「切り取られた現実」と「紡ぎだされた嘘」に満ち溢れていると思うのだけれど・・・

1年間ブログをやっていれば、自分の記憶とブログに書かれた内容に若干の「ズレ」が生じていることがある

詳細な事実にこだわらず、伝わりやすい部分だけを抜き出し、つなぎ合わせて書いているうちに、本当は、どうだったか?ということがあやふやになってることありませんか?

時間軸なんて、他人に話をするときには優先順位は低い話
そこに誰が居たかなんて、余計な登場人物を新規に登場させるよりかは、家族で使いまわしちゃう
或いはその逆で、友達のことと言いながら、もっともっと身近な人、或いは遠い人、或いはあなた自身?

でも大事なことは「伝えること」であって、「事実や真実」ではない
ブロガーというものが、経済活動と無縁である状況にあっては、みんな作家のようなものではないでしょうか?

自分は常にベクトルを円を描くように前方向に回して、自分の立ち位置がどちらかの方向に傾かないように心がけている・・・うーん、そんな気負ったものではなく、性分なのだろうと思います。

大事なことは、寂しい気持ち、うれしい気持ち、悲しい気持ち、楽しい気持ちを過少<等身大<誇張の範囲で伝えることなのかなぁ?

なのか?
そうなのか?
ヘヴィメタルというジャンルに対して懐疑的だった頃

アイアン・メイデンのこの曲は、度肝を抜かれた



これはメタルなのか?

正直そう思った

アイアン・メイデンというヘヴィ・メタルバンドはNew Wave Of British Heavy Metal=NWOBHMの旗手であることは間違いない

しかし、AC/DCといい、アイアン・メイデンといい、一般的な人が日本において「ヘビメタ」と称していたものとは一線を画していたと思う。

メイデンのサウンドの特徴はハードロックをより硬質にしたヘヴィメタルにパンクロックの要素を取り入れたことで、音楽性の幅を広げたことにある。
デビュー曲のランニング・フリーはまさにパンクとメタルの融合した曲だ。

AC/DCがタテノリのロックに固執し、もはやAC/DCサウンドというジャンルを確立したのに対し、メイデンは3作目においてリードヴォーカルをポール・ディアノからブルース・ディッキンソンに替えたことで、よりメロディアスでダイナミックなサウンドを志向していった。



Run To The Hillsはメタル界のまさに傑作であると思う。

さて、本題w

過日、メイデンのベストアルバム BEST OF THE BEASTをレンタルしてきたのだが、残念なことに、ワタシの大好きな曲が収録されていなかった。
それがこれです



この曲は前任のポール・ディアノでは決して生まれなかった曲でしょうね
初期のメイデンとブルース・ディッキンソン加入後のメイデンでファンが違うというのも納得がいくほどの違いです。

ワタシはどっちも好きw
ですがアルバム「パワースレイヴ」あたりがピークですかね

最後に初期の名作ポール・ディアノ在籍時の曲です 




これは演奏したことがありますが(ドラム)疲れますw