自分で物語を書くようになると、友人同士や家族の会話、テレビのニュースなど、すべての現実で心に引っかかるものは、頭の中にメモをとるようになる。
先日も
「好きなようにやればいいじゃん」と、「好きなようにやるしかない」は雲泥の差がある。
という会話には心に引っかかるものがあり、このフレーズは使えると、思うようになる。
そうなってきてはじめて、これまで自分が読んだ小説、特にスティーブン・キングの作品には、おそらくそうだろうと思われる節が多々ある
たとえば、主人公の新聞記者が奇怪な事件を追ううちに吸血鬼に出会う話がある。
田舎の空港からある日突然人が消える。
そのルートをたどっていき、ついに、その惨殺された現場に「追いつく」
気分が悪くなった主人公がトイレに駆け込むと・・・
鏡に映った背後の便器にありえない光景が・・・
なんと血の小便だけが、放物線を描いて、便器に流れていくではないか!
「吸血鬼は鏡には映らない」
この古典的な御約束事に「では排泄物はどうか?」
という発想の転換
そしておそらくは、主人公自体が、洗面所の鏡に写る背後の便器
そして、血尿を実際に目の当たりにしたことがあるのではないだろうか?
切り取られた現実を、巧みに操り虚構の世界を紡ぎ出す作業
実はネットワークが発達した社会では、まさしく「切り取られた現実」と「紡ぎだされた嘘」に満ち溢れていると思うのだけれど・・・
1年間ブログをやっていれば、自分の記憶とブログに書かれた内容に若干の「ズレ」が生じていることがある
詳細な事実にこだわらず、伝わりやすい部分だけを抜き出し、つなぎ合わせて書いているうちに、本当は、どうだったか?ということがあやふやになってることありませんか?
時間軸なんて、他人に話をするときには優先順位は低い話
そこに誰が居たかなんて、余計な登場人物を新規に登場させるよりかは、家族で使いまわしちゃう
或いはその逆で、友達のことと言いながら、もっともっと身近な人、或いは遠い人、或いはあなた自身?
でも大事なことは「伝えること」であって、「事実や真実」ではない
ブロガーというものが、経済活動と無縁である状況にあっては、みんな作家のようなものではないでしょうか?
自分は常にベクトルを円を描くように前方向に回して、自分の立ち位置がどちらかの方向に傾かないように心がけている・・・うーん、そんな気負ったものではなく、性分なのだろうと思います。
大事なことは、寂しい気持ち、うれしい気持ち、悲しい気持ち、楽しい気持ちを過少<等身大<誇張の範囲で伝えることなのかなぁ?
なのか?
そうなのか?