さて、どうでしょう?
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すぐそこ
高校一年の夏。高校受験に向けて苦手だった英語の勉強を見てくれた先生――近所のマンションで英語教室を開いていた女性翻訳家の横須賀の別宅に呼ばれたときのこと。その英語の先生の旦那さんが夜も更けた頃、先生のリクエストでぼくに話して聞かせてくれた怖い話なのだが……あいにく細かなディティールや基本的な話の筋も今ひとつおぼろげである。インターネットで類似する話はないかと調べてみたが、そのような話は見つからなかった。覚えているいくつかのキーワードを元に、その話を再現してみようと思う。
ある山道で道に迷った男の話である。

こういうことは、初めてではない。出発前の準備は万端だった。山を甘く見たらどんな危険なことになるのか、よく心得ているつもりだ。いや、そこにこそ慣れから来る油断があったのかもしれない。
どうやら私は道に迷ってしまったようだ。

もうどのくらい歩いただろうか? いや、もしかしたら、それほど歩いていないのかもしれない。また霧が深くなってきたようだ。しかし、こう暗くては、それすらもよくわからない。
どうする。しばらく休むか……
予定通りのコースを歩いていれば、とっくに目的地の山小屋に着いて、暖をとりながら温かいコーヒーを飲んでいるはずだった。
知人から「今度、家族でキャンプに行くから、アウトドアグッズを取り扱っているいい店を案内して欲しい」と頼まれたとき、こうなるんじゃないかと思った。案の定、私は衝動買いをしてしまった。
真新しいカーキ色のザック。
それを部屋で眺めていたら早速使わずにはいられなくなった。私は買ったばかりのカーキ色のザックを背負い、週末、一泊二日の予定で一人で山へ出かけた。
目的地の山小屋までもうすぐというところで、地図には載っていない道を見つけた。案内もない。私が地図を眺めながら、その道のことを調べていると、ちょうどそこへ、ひとりの男が地図に載っていない道から現れた。
「あのー、すいません。この道はどこに繋がってるんですか?地図には載っていないようなんですが……」
「あー、この先を二十分くらい行ったところに見晴らしのいい高台があってさ。そりゃあもう、この山じゃ一番の絶景ポイントさ。案内がないのはさ。不慣れな登山者が入ると転落事故なんかあったりするもんだから」
「へぇ、そうなんですか。何分この山は初めてなもので……その高台は、そんなに眺めがいいんですか?」
男はまるで私のことを品定めするかのような目でじろじろと見ながら『なるほど、素人じゃなさそうだ。こいつになら大丈夫か』という顔をした。あのときの私には、そういうふうに見えた。「行くのなら急いだほうがいいなぁ。もうじき暗くなる。このあたりはお日様が向こうの山に隠れちまうと、あっという間に暗くなるからよ。酷い時には霧も出る。行くのなら急いだほうがいいねぇ」
この土地の人間なのだろうか?いや、そうではないだろう。長年使い古した感じの紺色のザックが印象的だ。あのデザインは一昔も二昔も前のものだろう。服装もどこか時代錯誤を感じる。少し風変わりというか、かたくなにある年代のセンスを守っているかのような……いや、それも違う気がする。
男は私より十歳かそれ以上年上に見える。妙に人懐っこいが、それでいて『決して他人に気を許さない』というような用心深さ、抜け目のなさがうかがえる。簡単に言えば、嫌なやつということだ。
「二十分くらい……往復で四十分、いや、少し急いで三十五分くらいで移動できれば五分くらいは景色を眺めることができるか」
「あー、あんたならきっとうまくやるさ、この向こうの小屋に泊まるんだろう?」
男は、一歩前に踏み出し、私を下から見上げるような、いやな目つきで言った。
「あー、すぐさ。すぐそこ。すぐそこだよ」
「すぐそこ……ですかぁ、そうですね。すぐそこなら、いってみようかな」
「でもくれぐれも気をつけな。あんまり景色に見蕩れて、引き返すのが遅くなると面倒だぞ。まぁ、すぐそこだから、心配はないけどな。じゃぁ、お先に」そう言って男は、私が向かおうとしていた道、小屋のある道へと消えていった。
なだらかな下りの道、道幅はやや細く、あまり使われていないようだ。少し行くと、道はやや険しくなる。足元に気をとられているうちに、突然ぽっかりと見晴らしのいい場所に出る。『トンネルを抜けたら、そこは絶景だった』と言ったほうがわかりやすいかもしれない。そこからはあたり一面がパノラマのように見渡せる。私は思わず、声に出した。

「すげぇえなぁ。こいつは……」
何枚か写真を撮る。こんな壮大な景色はめったに見られない。念入りに、何度もファインダーを覗き、シャッターを切る。思わず、ヤッホーと叫びたくなる気持ちを抑えられたのは、先ほどすれ違った男に、声を聞かれるかもしれないと思ったからである。先に寛いでいるあの男がニヤニヤしながら「どうです。絶景でしょう。思わず、『ヤッホー!』って叫びたくなるでしょう?」と言っている姿が、どうにもおぞましかった。ふと、時計をみると、予定の時間を大幅にすぎていることに気付く。「しまった、思わず長居をしてしまった。急いで引き返さないと、暗くなったら面倒だ」
またしても、忌々しいあの男の顔が頭に浮かぶ。卑しく私を蔑むような目。あの男……いや、おかしいな、そんなんじゃなかった。あの男の印象は、そこまで酷くなかったはずなのに。どうして私の中であの男のイメージがどんどん酷くなっていくんだ。一瞬、歩く速度を緩め、後ろを振り返る。そこには薄暗い闇が、まるで私を追いかけてくるように迫ってきていた。あの男の話のように、日が向こうの山に隠れた瞬間、突然あたりの景色が変わってしまった。多少の険しさはあったものの、こんなに歩きにくい道だったろうか?
「まずいぞ。モヤがでてきた。周りが良く見えない」

でも大丈夫だ。あの分かれ道から見晴らしのいい場所までは、たしか一本道だったはず。なにも心配することはない。足元だけ気をつけておけば……
私はできるだけ足元に気をつけながら、先を急いだ。しかし、いくら歩いてもあの分かれ道にたどり着かない。険しい道をすぎて、なだらかなところに出たまでは良いが、おかしい。もしかして、足元を気にするばかりに、分岐点を行過ぎてしまったのだろうか?
「あと、五分歩いて、あの場所に戻れなかったら、引き返すか」一度立ち止まり、あたりを注意深く見渡す。霧は少し晴れてきたようだが、周りはすっかり暗くなって良く見えない。畜生、余計な寄り道さえしなければ……私の怒りの矛先は、余計な進言をしたあの男に向けられた。あいつさえ、あいつさえいなければ……
「あいつ?」ふと立ち止まり考えた。
「あいつ。あの男は、どんな格好していたっけ? どんな人相? 中年で、いやらしい笑いをする……でもおかしいな。ついさっき会ったばかりだとというのに、まるであの男のことが思い出せない。
そんなことを呟いているうちに、いつの間にか歩き出していた。それから、どのくらいの時間が経過したのかわからない。
「あっ、そうだ、五分経ったら、引き返そうって……まずいな。どのくらい歩いたのかもわからなくなった」
さっき時計を見たのかさえ思い出せない。私は、まるで十秒前のことを覚えていられないような、そんな状態に陥ってしまっていた。何分かに一度冷静になる。しかし、かえってそれが恐ろしかった。
「まさか、あの霧か?あの霧が出てくるたびに、意識が朦朧として……畜生、一体何だって言うんだ!」男は自暴自棄になり、そして賭けに出た。「意識がまともなうちに、一気に走りきろう。そうすれば、この迷路から抜け出せるかもしれない」
男は無我夢中で走り出した。途中何度もバランスを崩し、道からそれそうになりながらも、驚異的な精神力、そしてありったけの体力を使い男は漆黒の闇の中を駆け抜けた。

次の瞬間、突然男の前に道が拓ける。
「やった、やったぞ!」
歓喜の叫び声をあげながら、男は拓けた空間に向かって走り抜けようとした。
「あぁぁぁぁあああああ」
間一髪のところで、男は踏みとどまった。いや、男の気持ちはすっかり駆け抜けていたのだが、体はもう限界に来ていたのか、一瞬男の足がもつれ、体勢を立て直そうとしたその瞬間、男の目の前にぽっかりと口をあけた空間、さっきの見晴らしのいい場所から、まさに飛び降りそうになっていたのである。
「あっ、あっ、危なかった、あっ、危なかったぞ、ハァー、ハァー、ハァー」
男の息が上がる。そして、同時に笑いがこみ上げる。助かった。自分は助かったんだ。
「はっはっはっは、はっはっはっは……」
「どうしたんです。ほら、すぐそこ、すぐそこですよ」不意に男の後ろから声がする。
「ほら、ほら、もう、すぐ、そこなのに、ほら、すぐそこ、そこですよ」
あの道ですれ違った。あの男、あの男……
「来るな、やめろ、やめろーーーー!」
一瞬の狂気の後、まるで何事もなかったかのように静寂があたりを包む……
いくつもの朝を向かえ、いくつもの夜を越えて……
「どうしました?なにかお困りですか?」
「いえ、この道、地図に載ってなかったものですから、どこに出るのかなぁって」
「あ、この先にとても景色が良く見える場所があるんです。そりゃ、カメラを持っているなら、是非、行ったほうが良いです、なに、ほんの二十分ほどです。ただ、注意が必要です。あまり、長居をすると、このあたりは急に暗くなりますからね。霧も出てくる。くれぐれも、気をつけてください」
「二十分くらいなんですか?」
「えー、すぐそこ、すぐそこですよ」
そう言うと、その男は山小屋の方の道に去っていった。歳はわりと若い。カーキ色のザックは、少し汚れはしているが、それほど使った感じはない。買ったばかりなのだろう。
「すぐそこ……すぐそこですよ……」と、こんな話だったと思う。
でも、ぼくがどうしても思い出せないことがある。
それは、この話を聞かせてくれた、旦那さんの人相である。
おわり
短編集『週末、公園のベンチにて』より







