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文化系寄り道倶楽部

アラフォーで2児のパパであり、80年代の音楽をこよなく愛し、ガンプラを愛で、パソコンをいじくり倒し、台所を妻から奪い取り、キングの小説におびえ、究極超人あ~るで笑いころげ、夜な夜なUST配信をしている

収録曲全11曲の2曲目『素材』

8/8だけど 3/3-3/3-2/3 と実質変拍子

アコースティックギターから入り、印象的なベースラインは重厚で打楽器的な要素を含む
相変わらず何を鳴らしているのかわからないリズムを刻む何かをこすりつけたような音の数々


楽曲後半 フェイクヴォーカルと多重録音されたコーラス。そのフェイクヴォーカルに絡むようなギターソロ

調子は一本だが、曲が展開していくごとに耳に残る音が変わるため色鮮やかな印象がある



で、歌詞なのだが、一見まったく意味不明


タイトルである『素材』というワードがサビで使われておりこの『素材』がそもそも何なのかを紐解く必要がある・・・が、材料が少ない

歌詞はこうだ

夜が明ける前に
もうすこし寝ておこう
遠くに聴く汽笛の音

冬が終わる頃に
植え替えましょうワレモコウ
霜焼けのかゆみを踏みつけて

もうすこし寝かせて
いささかあったかい素材

微熱がさがるころに
手紙がとどくでしょう
知らない星に名前をつけて

去るひとには終わりでも
とどまるひとは始めなければ

あのひとは待てど暮らせど

宵越しの片思い
いささかあったかい素材

いささかあったかい素材
遠くに聴く汽笛の音


注目すべきワードは

『汽笛』『ワレモコウ』『手紙』

まず『汽笛』だが、汽笛そのものには意味はなく、遠くで鳴る汽笛が聞こえる環境=すなわち静寂、或いは周りに遮るものが何もないような一人ぼっち感=孤独を表現していると推測

曲頭と終わりに『遠くに聴く汽笛の音』を使っているということは 孤独な状態を強調しているのではないだろうか?


次に『ワレモコウ』であるが歌詞のとおり冬に枯れ、根だけ冬眠し、春に芽を出すらしい
冬という季節を表す表現なのか・・・しかし「冬が終わる前に」と使っているだけに、それだけではないのかもしれない


ワレモコウ=吾亦紅 と書くまたは 吾木香とも書く
赤なのか黒なのか茶色なのかわからない色の花を咲かす植物であり、そういうことを踏まえて考えるのも面白いのだが、ここはカタカナで表記してあることに注目してあえて名前の由来(花自身が「われもまた、くれない」と言ったとか言わないとか)などは無視しようと思う

ワレモコウの独特な赤とも黒ともいえぬ花の色は片思いに苦しむ心を詠んだ和歌などに使われることがある。となれば、ここは片思いの象徴として解釈しよう


次に『手紙』であるがこれがとても厄介だ
これはかなり飛躍した解釈なのだけど、別れの言葉を綴った手紙ではないかと思う
なぜそう思か

微熱がさがるころ・・・というのはやはり『恋の熱が冷める頃』であり
知らない星に名前をつけて・・・とはそんな心境、つまり夜に一人で夜空を見上げて知らない星に名前を付けるシチュエーションって さみしいに決まってる! みたいな・・・

う~ん、どうでしょう?

ただし、そう仮定すると


去るひとには終わりでも
とどまるひとは始めなければ

とは、つまり去っていく恋人とそれを見送る自分=とどまるひと
残されたひとは 去っていくのではないから 自分で何かを始めないと いつまでも次に進めないということではないだろうか?

さて、単純に去って行った恋人への片思いの歌 という解釈では今一つ腑に落ちない部分がある

つまりそうだとして、やはり『素材』が何かは今一つ解明できない

で、もう一度歌詞を眺めると大事なことを見落としていたことに気付く『素材』ではなく
『いささかあったかい素材』だということ

つまり『素材』だけではこの歌詞は解読できないのではないかという仮説

いささかあったかい素材=いささかあったかい+素材

ものすごく熱くもなく冷たくもない、いささかあったかいとはつまりひと肌か?

いささかあったかい素材=ひと肌として歌詞に代入すると  いささかすっきりした気分


しかし謎はまだある


霜焼けのかゆみ という言葉と 踏みつけて がどうしても浮いてしまう

霜焼けのかゆみとは ひと肌との相性はいい

しかしなぜ 踏みつけて なのか・・・


そのくらいの謎があった方が楽しいのである(無責任w)


以上 めけめけ的歌詞の解釈でした

これってぜんぜん的外れかもしれないから ちょっとした読み物程度だと思ってください
そして、僕と同じように山作戰の歌詞の世界を楽しんでくださいねー




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プログレというか プロぐれる というか・・・そんな音楽です(説明になってないw)
昨日めでたく45歳の誕生日を迎えました


いやー、めでたいw めでたいw


僕には妻がいて、しっかり者ではにかみやの娘と うっかり者でワンパクな息子がいる

実の両親は健在で、弟と妹はまぁ、どうにか社会に出てやっている

妻のお父様は出会った時にはすでに亡くなられていたけど、お母様、ご兄弟はともに元気


悩みはある

この歳相応の悩みは、人並みにあるし、めんどくさくなってお酒でごまかすくらいのことはする

浮気はしない
多分しないと思う
しないんじゃないかな
っていうか、相手をしてくれる人なんかいないw


でも恋くらいはしてもいいかなと思う
ただし、今の僕はなんでもかんでも創作のネタにしてしまう傾向があるので、それこそ故意に恋をしたつもりで、恋に恋をしたのだとしたら、ミイラ取りがゾンビになったみたいな話で面白い

いや、面白くないか


僕には精神的後継者はいない
たとえば縦関係がしっかりした社会=そういう会社なんかに努めていたら、忠実な部下の一人や二人いてもおかしくないだろうし、師と仰ぐ先輩も健在なはずだけど、あいにくとそういう機会はいまのところない


子供たちにそういう精神的な後継者にもなってほしいという気持ちはあるけど、普通の親子というのはなかなかに難しい


さて、これからの一年、次に歳をとったときにはいくつの悩みが解決し、いくつの新たな悩みが増えるのか・・・髪は何本減るのか、シミはどのくらい増えるのか

歳を取ること――老いの恐怖というものは確かにある
でも、昔思っていたほど、中年というのはわるくない
人生の道のりの真ん中あたりに立って、振り返れば懐かしい記憶があり、前を向けば不安な未来が半分、希望の未来が半分。過去に触れられないほどに多くのものを失っていないし、手の届く未来とそうでない未来の区別もある程度ついているけど、それでもまだ未知なる可能性が残されている

それって、結構幸せってことだよね


たぶん、きっと、そうなんだと僕は思う

ここまで生き残った自分 えらい!
そして僕と出会ってくれたたくさんの人たち、たくさんの命に感謝
別れて行った魂にも感謝
アメブロを始めてから、いろんなジャンルのことを取り上げてきました

自分自身が創作活動に没頭するようになるとは、その頃はまったく考えていなかったし、ツイッターやフェイスブックの登場でこうもソーシャルネットワークに深くかかわるようになるとは思いもしなかった。

そうえいば、僕は、そういうことにはどちらかといえば否定的だった気がする


ずいぶん昔の話になる

そういうことに興味を持ちだしたころ・・・ヤフーのサッカーの掲示板にいろいろと書き込んでいた時期があった。でも、あまりにも極端な論調にどうにもついていけずにすぐにやめた。2チャンネルもながめることはあっても、書き込むことはなかったし、なるべく関わらないようにしていたくらいだった

某ゲーム会社が運営していたSNSに仕事がらみで登録したときに転機が訪れる

それは、まぁ、偶然の産物であったかもしれないし、確率的には必然と言っても過言ではない

僕はたとえば80年代の音楽にはわりと詳しかったし、音楽を通じて仲間ができた
ゲームもそこそこやってたし、サッカーも好きだった
いろんなジャンルの人とコミュニケーションをとり、そして諸般の事情でアメブロに引っ越し


趣味に関するあれこれを、不定期にアップして、文章をいろいろ書いているうちに、いつの間にか物語を書くようになった


うん。ここまでは順序だっているし、特に注釈の必要はないと思う

それがどういうわけだか、ツイッターからライブ配信、そしてフェイスブックへとなんだかわからないうちに周りの環境が激変した


ここにきて冷静に振り返る

僕はツイッターもUSTもよく知らずに手を出した
今までメジャーアーチス以外のライブは知り合いのバンド仲間のお付き合いでしか行ったことがないのにいつの間にか、ヴァーチャルな世界からリアルな世界に・・・僕の手の届くところで彼らが演奏し、お酒を飲みかわし、いろんな話をして友達になった


こうすれば僕みたいにSNSを使いこなせるよ!

なんてことは言えない

結局僕は、そういうものを知らなかったからこそ、すんなり流れに乗れたのかもしれない
固定観念のない、まっさらな状態で、素で付き合うことができたからこその今がある気がしてならない

最近サッカーや野球について記事を書かないし、80年代に活躍したアーチストのこともすっかり書かなくなった
僕は好きだったものを知りすぎることによって、なんだか妙にかっこうをつけなきゃならないような錯覚に陥っていたのだと、最近思うようになってきた



世の中の事情通が 物事をつまらなくしている


僕の応援しているインディーズアーチストの言葉である
最初、その言葉は僕の中にすんなりとは落ちてこなかったのだけれど、彼との1年ほどの付き合いのなかで、だんだんと実感するようになってきた


人はもっと冒険をするべきなのだ

攻略本やwikiで下調べなどせずに、好きだと思うこと、面白いと思うことに素直になればいい

そしてその場にいる人に話しかければいい

そこで生まれた縁を大事にすることで、なんだかつまらなかったり、わからなかったことが、全然違うものに思えてくるかもしれない

その縁をより強固にするためにSNSを使えばいい



思えば僕は小説を書くことがすべてにおいて冒険だった
最初は間違いだらけで、今となっては恥ずかしい限りの内容だった
でも、歪だけどだんだん形になってきた
独学で詰まるところは見えている
音楽をやったときもそうだった
手詰まりになるまでは、僕は冒険を続けようと思う




短編集『休日、事務所のソファにて』

$文化系寄り道倶楽部


完結しました

収録作品はこの11の物語です

第1章 敗北論
敗北論~こぎつねと二人の男
パンツを被る男 1~4
エンディングノート 1~7

第2章 魔法少女
魔法少女シリーズ 春の目覚め
魔法少女シリーズ 夏の終わりの扇風機
魔法少女シリーズ 秋の空の立ち食いそば
魔法少女シリーズ 新しい顔 1~5
魔法少女シリーズ 冬の朝のデジャブ

第3章 休日、事務所のソファにて
未来を映す鏡
億万長者になれるセミナー 1~8
過去を映す鏡 1~4


僕のおすすめは、『パンツを被る男』と『魔法少女シリーズ 夏の終わりの扇風機』です

『パンツを被る男』は、実際にパンツを被ったときに思いついた話・・・いや、まるきり嘘ではないのですが、実在の人物(僕の大切な友人)をモデルに、自分の実体験と、押尾守監督作品のような夢と現実のあやふやな描写が特徴的な作品です。

主人公は売れないシナリオライター。かつては仕事も順調だったが、すっかり行き詰まり古い知り合いを頼りに仕事を紹介してもらっていた。ある日、街で懐かしい人の姿を見かける。それは死んだはずの主人公の恩人であった。何かに引きつけられるようにその後ろ姿を追いかけるうちに、ある店にたどり着く。その店で主人公は不思議な体験をすることになる。パンツをかぶる店。



『魔法少女シリーズ 夏の終わりの扇風機』は、扇風機を片付ける時、ああ、夏も終わりだなぁと感じるという話がヒントになって書き始めました。

夏の終わりと男女の関係の終焉。しかしそれは恐ろしい連続殺人鬼の物語。

男女の静かな会話のやり取りから一転して狂気の物語に変貌し、魔法少女が過ぎ去ったあとに、すべては燃え落ち跡形も残らない。


他にも楽しいお話が満載です。
良かったらぜひ読んでやってください。