
「愛はステロイド」
観る人を選ぶかもしれないがとにかく強烈な映画だ。私はけっこうハマった。
一言で表せば、クィア版「テルマ&ルイーズ」か。
でもこちらの女性2人は友情ではなく愛情。恋に落ちたら最後、地獄までいっしょ、という感じ。
田舎町のトレーニングジムの雇われ店長のヒロイン、ルーは偶然出会ったボディビルダー、ジャッキーにひと目惚れ。
ジムの経営だけでなく、家族の関係でも様々な悩みを抱えるルーだが、ジャッキーとの出会いがすべてを変えた。
ラスベガスでのボディビル・コンテストに出場するというジャッキーだが、ルーのトラブルにうっかり深入りしたためにトンデモない展開に。ジャッキーの暴力性が開花してしまうと、もう歯止めがきかない。
ルーはそんなジャッキーに振り回されっぱなしだが、本人はそれが悲劇だとは少しも思っていない。
ジャッキー(ステロイド中毒)が一度やらかしてから、怒涛のような展開に至ってもう血まみれ。一気に終盤へとなだれこんでいくスピード感がすごい。
悪の枢軸みたいな父親との対決や、DV被害に遭っているのに無自覚な姉、といったウェットな家族問題を描きながらも、ドライな空気が吹きまくる映像が実にクール。
欲望、憎悪、バイオレンスがいっしょくたになり、どこかユーモラスでもあるこの作品に目が離せなくなってしまった。
「私たちが光と想うすべて」
インドの女性監督、パヤル・カパーリヤーによるヒューマンドラマ。カンヌ映画祭でインド初のグランプリを受賞した。
タイトルからも想像できるように、歌って踊ってアクション満載のインド映画とは異なり、おそらくヨーロッパ映画の洗礼を受けたと思われる、静かだが奥行きのある作風に仕上がっている。
ムンバイで看護師として働くプラバは、親が決めた相手と結婚したものの夫はドイツに働きに行ったきり何年も会えておらず、最近は連絡も途絶えがちに。仕事は楽ではないし生活も豊かとは言えず、ルームメイトのアヌといっしょに暮らしている。同僚のアヌはまだ若く、親に内緒で異教徒の恋人と密かに付き合っているようだ。
インド社会に連綿と続く階級制度、男女差別、経済格差、古い因習といったことに押しつぶされそうになりながらも、彼女たちは社会の隅で懸命に生きている。
映画はムンバイの喧騒の中、ドキュメンタリータッチでの始まり方を見せながら、次第に降りしきる雨や空気の湿り気を感じさせることで、彼女たちの息苦しさを詩的に物語っていく。
2人と同じ職場の女性が、長年住み慣れた家を追い出されて田舎の村に帰ることに。プラバとアヌは彼女に付きそうため、鄙びた海辺の村に同行する。
街から出ることによって空気感や情景が一気に変わる。どこにでもあるような海岸だがそこにただ居るだけで、3人の心に少しずつ変化が訪れたのだ。
終盤に、プラバの夢とも幻想ともつかない寓話的なシーンがあるのだが、これをすんなり受け入れられるかどうかが、この映画の印象に大きく関わってくると、個人的には思ったりした。
私はとても好きな映画だし、今後にも期待したい監督だ。
「国宝」
私はこの映画を6月に観て、すぐに吉田修一の原作本を読み、7月 に2回目を鑑賞した。そして雑誌「シナリオ9月号」に掲載された映画のシナリオも読んだ。何なら今度は歌舞伎パートの理解を深めるため、3度目を鑑賞してもいいとさえ思っている。
つまり多くの人と同じように、私もこの映画に完全にハマったクチだ。
もうすぐ公開3ヶ月目を迎えようとしているというのに、いまだ満席続きという超特大ヒットとなったことは大変うれしいことだ。まちがいなく2025年を代表する邦画となるだろう。アニメでなく実写映画でこれだけ動員したというのが喜ばしい。
この映画に関してはもうさんざんあちこちで書かれているので、あらすじ的なことは省略する。
1回目を観た時は、吉沢亮と横浜流星の対比的なことばかり目についたので、「さらばわが愛/覇王別姫」みたいな映画だなという印象だった。もちろん文化的な背景などまったく異なるが、女形や友情(愛情)と葛藤などというテーマが似通っていたし、レスリー・チャンの女形も目をひく美しさだった。
しかし「国宝」は血と芸、がテーマだろう。歌舞伎役者の血を引かない喜久雄が、芸だけで(だけとは限らないが)頂点までのし上がっていくのだが、その境地に至るには悪魔に魂を売らないと到達できない「哀しみ」のようなものも伝わってくる。
やはり国宝である田中泯扮する万菊(老いさばらえてもなお妖気漂う)と、最後にやりとりするシーンはせつない。芸に身を捧げるとは、人間を超越した存在になることなのか。
喜久雄の50年にわたる人生を3時間で語るにはあまりにも尺が足りなくて、後半はかなり駆け足だった。ナレーションも特にないので説明が少ない部分もあり、これは原作を読まなければと観ながら思っていた。
小説は予想通りの面白さで、上質のエンタメ作品をたっぷり読んだ満足感に浸り、そして読後は原作から切り捨てられた重要人物や大事なシーンがいくつもあったことを、大変惜しいと感じた。
特に喜久雄の周辺人物が原作ではかなり深く濃く描かれているのだが、女性陣にしても映画では輪郭がうすく少々物足りない。
李監督や脚本家も、それらのことにはとても悩んだらしい。それなら第一部、第二部に分けて上映してもよかったのに、とさえ思う(まあ、予算の問題もあるだろうが)。
実際は4時間以上撮影したらしいので、いつかディレクターズカット版として上映してほしいと個人的には強く望んでいる。特典映像としてパッケージのおまけに付けるのではなく、ちゃんと上映してほしい。きっとそれなりに動員するだろうから。
「アイム・スティル・ヒア」
1970年代、軍事政権下のブラジル。海辺の家で幸せに暮らしていたある一家。元国会議員の夫が、突然軍によって連行され、その後行方不明になってしまう。
妻のエウニセは自分も拘束され尋問を受けながらも、必死で夫の行方を探す。5人の子を育てながら。実にリアルで力強く、骨のある作品だ。
巨大な政治権力の下で、エウニセの力は微力なものだが、消息のない夫のために奔走する。物語の序盤で幸せなファミリーをたっぷり描いたことで、その後の悲劇がより際立ってくる。とはいえ涙は見せない。子どもたちは相変わらず快活だし、とにかく母が強い。
毅然として賢く、夫の不在時には自分が代わりにしっかりと家族を支えていこうとする。悲しみにくれてばかりいられない。否応なしに直面する金銭面のことも淡々とこなし、自分と家族の身の振り方を考え、時には思いきった決断もする。
夫の死の真相を探ることがこの映画の主題ではない。結局はうやむやにされてしまったこの出来事を、エウニセや子どもたちがどう受け止め、それをどう乗り越えていったかが描かれる。
映画はかなり長い時間経過を映し出していく。小さかった末っ子が作家になる一方、エウニセには老人特有の症状が出始める。あんなに聡明で気丈だった人が…とせつなくなるがそれが人間のさだめというものだろう。
人生の、人間の深いところ描き出し、心揺さぶられる作品だった。
個人的には海が好きなので、リオ・デ・ジャネイロの人々の海への思いのようなものもよく伝わってきた。
「入国審査」
海外へ行く時、だれでもイミグレで多少は緊張するものだ。飛行機に乗ってはるばるやって来たのに、万が一でも入国審査官が通してくれなければ絶対に入国できないからだ。
あれこれ質問された上に「別室へ」などと言われたら、何の後ろ暗いことがなかったとしても、もうお終いじゃないかと思ってしまう。
私は最後にニューヨークの入管を利用したのはトランプ政権の前だが、昨今のアメリカ入国はかなり厳しいチェックがあるようだ。
この映画のカップル(事実婚)は、スペインからアメリカへ移住するためビザを取得してやって来た。書類はきちんと準備してあるのに、なぜか別室へ呼ばれてしまう。
ニューヨークから乗り継ぎでマイアミに行くのだが、時間がないと言ってもまったく耳を貸してくれない。連絡を取りたい人がいるから、と頼んでもスマホは一切禁止。
何時間待つかわからない待合室には、同じく呼ばれた人が数人。暗くどんよりとした空気が流れている。
審査官とのやりとりはまさにスリリングだ。ちょっとの矛盾点も容赦なく突いてくる。性善説に基づいたやりとりではないので、非常に嫌な感じの質問が続く。こんなことまでも? というような立ち入ったことも訊かれる。
まるで取り調べというような尋問が続くのだが、その中で意外な展開がある。ネタバレになるので詳しく書けないが、まるで小さく開いた穴が次第に広がって破れてしまうような、破綻とも言える展開が待っていた。
実はこのなりゆき、飛行機の中のシーンですでに透けて見えていたのだが(というか私が勝手に想像していた)、やはりという感じだった。
皮肉たっぷりのラストにも感心した。果たしてこの2人の今後は…
77分という大変短い尺だが、面白さが凝縮されていてとても見応えがあった。むしろこの2人の日常生活とか回想シーンなど入れずに、入国審査のワン・シチュエーションに絞った潔さに脱帽する。
ちなみに、万が一のために必要書類やeチケットの控えなど、紙で印刷して持っておく方がいいようだ。彼らのようなことになると、スマホは一切禁止なので。
「顔を捨てた男」
これは、裏「サブスタンス」とも言える映画ではないだろうか。
ルッキズム(外見至上主義)に対する強烈な皮肉だ。運の悪い男の話、で片づけていいものではない。
顔に極端な変形を持つエドワードは、俳優志望だがいつも自分に自信がなく、隣人で劇作家を目指しているイングリッドに気持ちを伝えられない。
自分の不運はすべてこの顔のせいと思いこんでいて、外見を劇的に変える過激な手術を受ける決意をする。
新しい顔を手に入れたエドワードは、人生が変わることを信じて生き直すことにした。が、その時目の前に現れたのは、過去の自分と同じような変形した顔を持つオズワルド。彼はそのルックスにもかかわらず、女性にモテるしリッチだし、カリスマ的な人気があり成功を収めていた。
エドワードはオズワルドの存在に振り回され、そこから大きく人生が狂い始める。
「結局、顔じゃなくて中身が重要」などと言うのは簡単だ。でも外見の要素は大きい。顔が変わればなりたい自分になれるはず、と思ってしまうのもわかる。
エドワードはあのままの顔の方がよかったのか、そうとも言いきれない。何とも皮肉な成り行きで新たな劣等感が生まれるところなど、主人公には過酷な展開だ。
ブラック・ユーモアの効いた不条理劇、ということで「サブスタンス」とはまた違った意味で興味を惹かれた。
なお、オズワルドを演じたアダム・ピアソンだが、彼はイギリスの俳優、プレゼンターであるが神経線維腫症で顔に変形があり、障害者の権利向上に取り組む活動家。この映画のアーロン・シンバーグ監督の作品には以前も出演したことがあり、彼がいなくてはこの映画の企画もなかったのかもしれない。
主演のセバスチャン・スタンは、前半の顔は特殊メイク。彼はこの作品と前後して「アプレンティス」という映画で若き日のドナルド・トランプを好演し、オスカー候補にもなっている。
「ルノワール」
「PLUN75」の監督を務めた、早川千枝の脚本&監督作品というので迷わず観に行った。
バブル景気真っ盛りの80年代後半。11歳の少女フキは、仕事で忙しい母と闘病中の父の心がすれ違うのを目の当たりにしながら、感性豊かにのびのびと暮らしていた。自分とは性格も環境もまったく異なる女子と仲良くしたり、大人の女性の告白を聞いたり、伝言ダイヤルにかけてみたり、と好奇心は尽きない。
フキが自分の気持ちを吐露する場面は多くはないが、彼女の行動を追っていくことで気持ちは十分に伝わってくる。もう小さな子どもできないが、まだ大人にはほど遠い年頃。でも大人のことも理解はできる。
11歳は、10歳とも12歳とも違う。表情や仕草、女子なので身体も、その時期ならではの表現を引き出した早川監督は素晴らしい。そして何よりフキを演じた、新人の鈴木唯を見出したことがいちばんの功績かもしれない。
フキにとって、父親が重病というのはかなり重大な出来事なはずだが、それをことさら大袈裟にせずまるで日常の一コマのようにとらえている。シリアスなはずなのに、時々笑ってしまうようなユーモアや軽みがこの映画の魅力。そしてフキの目に映った風景の抒情性はどこまでもせつない。
ネットのない時代、かなり危ういところまでいきかけたフキだが、それもこの時代ならでは。学校でYMOの曲を使ったダンスなど、特定の年代の人にはたまらないノスタルジーかもしれない。
脇を固める大人たちもいい。リリー・フランキーの父親の幽霊みたいな存在感は言わずもがなだが、石田ひかり演じる母親がいつもイライラして(分かるだけに)見ていてイタイ、と感じた人も多いだろう。
さして話題にもならず終了してしまうのかもしれないが、それは本当に惜しいと感じる。こういう映画のために、わたしはこのブログを書いているのだ。





