「アビゲイル」

身代金目的の誘拐犯グループが標的にした12歳の少女バレリーナは、実は身の毛もよだつヴァンパイアだった!!!というお話。
冒頭、白いチュチュにポアントを履いて「白鳥の湖」を踊り始める少女アビゲイル。だが舞台でスポットライトを浴びるものの観客はだれもいないし、リハーサルなら必ずいるはずの指導者やスタッフもなし。この少女はなぜたったひとり舞台で踊っているの? とまず疑問がわいた。
舞台を終えて迎えの車に乗りこみ帰宅先の豪邸に着いた時、アビゲイルは誘拐犯たちに襲われる。彼らはそれぞれのスキルを生かしたプロ集団だが、お互いのことは何も知らない。指示役が計画を立て、少女の父親から5000万ドルの身代金を得ようと企んでいるのだ。
アビゲイルを自室に閉じ込めて一晩監視すれば、身代金は必ず手に入るはず。あとはチョロにものだとばかり、誘拐犯たちは豪邸で飲んだりしゃべったりケンカしたり、好き勝手を始める。
6人の誘拐犯たちのキャラもたって、力関係やら好き嫌いやら人間関係が描かれる。このあたりホラー的要素はないが、後にとんでもないことが引き起こされる予兆のようなものも…
アビゲイルは監視役の女性に心を許すふりをし、か弱い少女を演じるが化けの皮が剥がれるのは時間の問題。誘拐犯たちは、逆に自分たちがこのおぞましい屋敷に閉じ込められたことを知ることになる。
彼女が一気に本性を現した後は、もう怒涛のような展開が。ホラー映画のお決まりだが、ひとりまたひとりと誘拐犯はアビゲイルの餌食になっていく。
白いチュチュが真っ赤な血に染まり、襲いながらも(無意味に)バレエのステップやターンを入れるなどなかなか凝っている。BGMには「白鳥の湖」が頻繁に流れていて、真面目なバレエファンには怒られそうだが、ちょっと笑ってしまった。
もう少し心理的な怖さがあればよかったと思うが、とにかく超ド級のスプラッターでこれでもか、とバイオレンスが繰り返される。
何といっても天才子役のアリーシャ・ウィアーのひとり勝ちのような映画で、大人たちは出番の割に印象は薄い。
子役は演技力重視で選ばれたようで(それでいいのだが)、バレエは未経験者。映画のために特訓したそうだが、実際の踊りのシーンは少なめだった。





 

「箱男」

50代以降の文学好きの人なら、安部公房の名前に懐かしさを感じるかもしれない。
私も70、80年代の頃にはよく小説を読んだし、安部公房スタジオの演劇も観に行ったことがある。非常に稀有な才能の作家で、ノーベル賞も近いと言われていたのだ。
シュールで難解だがなぜか惹かれるものがあって、解るとか解らない以前に読みたくなる圧倒的な力のある作家だった。93年に68歳で亡くなっている。
もう30年も経ってしまったし、正直没後はあまり思い出すこともなく、作品を読み返すこともなかったのだが…
「箱男」が石井岳龍(改名前は石井聰亙)監督によって映画化されたと聞いて驚いた。しかも27年前にクランクイン直前で突然制作中止となり、紆余曲折を経て同じ主要キャストで再度映画化にチャレンジしたと知り、これはもうどうしても観なくてはと思ったのだ。
カメラマンの「わたし」(永瀬正敏)は、街で見かけた「箱男」に心奪われてしまう。段ボール箱を頭から腰まですっぽりかぶり、街を彷徨いつつ覗き穴から外を眺めてはノートに妄想を記す。自分も同じように段ボールをかぶってのぞき窓を開けてみるが、本物の箱男になるのは容易ではない。わたしをつけ狙い箱男の存在を乗っ取ろうとする偽医者(浅野忠信)や、わたしを誘惑する謎の女などが現れる。
非常にシュールな物語で、映画化するのはかなり難しいと思われた。だが石井監督は安部公房が亡くなる前、実際に会って映画化の許可を取っていたというから並々ならぬ熱意を感じる。
物語は合理的な展開とは言い難いが、それなりにスリリングで目が離せなくなる。昭和のノスタルジックさを令和に置き換えてもぜんぜん「いける」。
他人に見られずに他人を観察する、などという行為はまさしくSNSそのものだし、現代でも十分通用するテーマだ。むしろ現代の方がマッチするかもしれない。
「見る」か「見られる」かも問われ、観客も当事者となるラストがユニーク。




 

「大いなる不在」

最近は見ごたえのある日本映画が多く、それはうれしいかぎりだがせっかく内容がよくてもほとんど注目されず、多くの人が知らない間に公開が終わってしまう、そんな残念なことがしばしばあるのも事実だ。

この「大いなる不在」もその一本だ。インディペンデントの作品だからといって、ひとりよがりな芸術性をチラつかせるわけでもなく、きちんとエンタメ性も踏まえた心に残る一本だ。
俳優をしている卓は、幼い頃に自分と母親を捨てて家を出た父親が警察に捕まったという連絡を受け、久々に父と対面することに。久々に会った父は認知症になっていて別人のように変わっていた。そして再婚したはずの妻もどこかに消えていた。
まったく事情がわからない卓は、残された家で父のそれまでの人生を探り始める…
と、最初は何やらサスペンスタッチの始まり方だが、謎解きがテーマではない。
俳優陣の演技が素晴らしく、森山未來が演じる卓は父親の謎を追ううちに、あちこち壁にぶつかってその度に翻弄される姿を、細やかな表情で表している。
何といっても圧巻なのは82歳の藤竜也が演じる父親。卓が会うたびにまったく別の顔を見せるという難役を、リアルに見せていた。
それなりの地位と知性があった人が認知症を発症する姿は、見ていて本当に心が苦しくなる。藤は、いわゆるボケ老人的な型にはまった演技はしないが、それだけにかえって説得力があり、自分自身がわからなくなっていく焦りや恐怖も見事に演じていた。
もうひとつの主役は「手紙」だ。父親が綴った手紙、主に昔のラブレターだがこの文章が実に文学的で味わい深いのだ。まだ「手紙文化」を知っている中年以降の人間にはしびれる内容。残された大量の手紙や日記、メモもさぞ読みごたえがあっただろう。まだ正気だった頃の父親を理解する唯一の手だてだ。
映画は何ともやるせない最後を迎えるが、これが現実なのだしきれいごとにしないのにも意味がある。
近浦啓監督と藤竜也は相性がいいのかこれが3本目の起用だそうだが、「できればもう1本呼んでほしい」、という彼の願いが叶うことを祈る。



 

「めくらやなぎと眠る女」

村上春樹の原作小説を、フランスの監督が映画化、といってもアニメではあるが。
表題作のほか、短編小説6編を再構築してできたハルキワールド。
監督はかなり村上春樹に傾倒しているガチなハルキストだそうだ。なので村上作品のエッセンスの凝縮であり、細部にまでこだわりぬいている。
ミステリアスな雰囲気や、オチがあるようでないような微妙さなど、小説のファンならよくわかる世界観だ。
監督は当初から日本語で作ることを希望していたようで(オリジナルは英語)、深田晃司監督の演出による日本語版が断然おすすめだ。これは日本での劇場公開に合わせて制作されたもの。声優は使わず磯村勇斗、古舘寛治、塚本晋也らによる吹き替えが映画の雰囲気をよく表している。また音楽の使い方や音響も素晴らしい。
日本のアニメに親しんでいると、どうにも人物の表情が乏しく感じられてしまうのだが、外国人から見ると日本人の顔や表情はこんな感じなのかな、とも思った。
しかし驚いたのは、日本の風景や建物、住居や職場の内部、日用品に至るまでまったく違和感なくアニメで再現してくれたことだ。
桜とススキが同時に咲いていておかしいと指摘する人がいたが、それは間違いというより村上作品ならあり得るかもしれない、と思わせてしまう説得力だ。
電車の中での風景など、無関係な人々がうっすら透明になって表されているなど、現代日本を象徴しているようでどきっとさせられるところも。
複数のキャラクターと物語が絡み合う世界だが、2011年の地震と津波という大きな出来事が、登場人物たちをいかに目覚めさせたか、人生を見つめ直したかに言及している。シニカルでファンタジックな世界が堪能できる。

なお、ベースになった小説は
「かえるくん、東京を救う」「バースデイ・ガール」「かいつぶり」「めじまき鳥と火曜日の女たち」「UFOが釧路に降りる」「めくらやなぎと、眠る女」


 

「コンセント/ 同意」

フランス映画。こちらは「メイ・ディセンバー」とは反対に、50歳の男性と14歳の少女の物語だ。
映画の元になった原作ノンフィクションは同じく「同意」という題名で、有名作家(小児性愛者と公言している)と13歳の時に出会い、14歳から関係を持ったことを、30年の時を経て「告発」したのだ。その衝撃の実話はフランス中で話題になり、映画化されたのが本作。
この作家ガブリエル・マツネフは東南アジアにも買春に行くほどの生粋の小児性愛者で、そのことを小説の題材にしている。当然この映画(原作)のヴァネッサも、小説のモデルのひとりなのだ。
ヴァネッサは文学好きの少女で、有名なマツネフと知り合えただけで天にものぼる気分。手紙でのやりとりにすっかり心を奪われ、やがて彼の家にひんぱんに出入りするようになる。美辞麗句で飾られたラブレターや詩を贈られて、14歳の文学少女はそれが唯一無二の愛だと信じてしまう。
50歳の作家が14歳の少女を手なづけることなどいとも簡単(これがまさにグルーミングというやつだ)。自ら「同意」の上、身体を許し身も心もマツネフに溺れていくヴァネッサ。シングルマザーの母親との確執もあって、家を出て彼と暮らしたいと言い出す。
30年前とはいえこれは立派な犯罪行為ではあるが、ヴァネッサはこのいびつな関係を純粋な愛と信じて疑わない。関係はどんどんエスカレートしていき性加害は止むことなく続いていく。交際は1年半続いたが、それはやがて彼女の人生に深く暗い影を落としていくのだった…
私自身、この映画の中でもっとも驚いたのは二人の関係もだが、マツネフをもてはやし礼賛する風潮のフランス文壇だ。既存の倫理観や道徳を無視する時代の寵児的な扱いだが、文学的才能以前に性犯罪者ではないか。まったく理解できない。
この作家ガブリエル・マツネフは現在88歳で存命のようだが、もともとマニアックな作家で発行部数も多くはなかったようだ。作品は日本語どころか英語にも翻訳されていない(ヴァネッサが書いた「同意」は日本語訳も出版されている)。
なお、ヒロインのヴァネッサを演じたキム・イジュランは、幼く見えるが撮影当時20歳を過ぎていた。

「メイ・ディセンバー ゆれる真実」

ジュリアン・ムーアとナタリー・ポートマンという二大女優の共演にもかかわらず、日本ではほとんど話題にならずに公開がほぼ終了してしまった(これからの地域もあるけれど)。
というのもこの映画の元ネタになった事件が、全米では大スキャンダルだったのに日本ではあまり報道されなかったから、かもしれない。同時期に起きた「ジョンベネちゃん殺人事件」の方が日本ではずっと有名だ。

メイ・ディセンバーとは年齢の離れたカップルのことを言う。

36歳の既婚女性が13歳の少年と恋に落ちて関係を持ち、しかしそれは犯罪(児童強姦罪)なので女性は逮捕される。服役中に彼女は彼の子を獄中出産し、出所後に結婚。
というスキャンダラスな出来事の20年後。

この物語を映画化するということで、ヒロインを演じる女優役のエリザベス(ナタリー・ポートマン)が、モデルになった実際の女性グレイシー(ジュリアン・ムーア)に取材を兼ねて訪ねる、という設定だ。
事実をそのまま映画化しないでひねりを加えているところが、トッド・ヘインズ監督らしい。特にナタリー・ポートマンは難しい役どころだが、取材していくうちにどんどんのめり込んで、グレイシーと一体化しようとする様子が描かれている。
鏡のシーンなど、演技者と当事者の駆け引きめいた場面は非常にスリリングだった。
グレイシーと23歳年下の夫ジョーは、年齢差以外は普通の夫婦に見えなくもないが、やはりどこかいびつな関係を匂わせていた。
「私のこと誘惑したくせに」だなんて、36歳が13歳の少年に本気でそんなことを思ったのか。
グレイシーの精神的な不安定さや幼児性は以前からなのか、必死で耐えようとしている年下のジョーがあわれにも感じる。あの頃は純粋な愛だと信じて(信じこまされて)いたことが、時が経って振り返ると少し違うのではないかと、ジョーは疑問に感じ始めたのかもしれない。
しかしシリアスになりすぎず、この監督らしいシニカルさ、乾いたユーモアがそこここに漂う作品だった。


ところで実際の二人は、映画の設定のようにペットショップのバイトで知り合ったのではなく、36歳の女性教師と13歳の教え子だ。教師は既婚ですでに4人の子どもがいたというから驚きだ。もちろんどんな立場であっても愛は生まれるだろうが、ろくに社会経験もない13歳と「合意の上」と主張するのはやはり無理がある。
彼女の出所後に結婚し、さらに子どもももうけた二人だが結婚13年で離婚。
その2年後に彼女はガンにより58歳で亡くなっている。

「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」

全寮制の学校で、クリスマス休暇に家に帰れず居残り組の生徒と、監督の教師、食堂の料理人が繰り広げるドラマ。
1970年という時代設定なのに、まったく古さを感じさせない。スクールカーストでいじめられがちなアンガスは、一見ひょうひょうとしているが実は傷つきやすい。複雑な家庭環境のため、クリスマスも居残りだ。他の居残り組がスキーに出かけた時も、ひとりだけ両親と連絡が取れず寮に置いてけぼり、という運の悪さ。
監督として居残った教師のポールは、生徒から嫌われている変わり者で独身の中年。
料理人のメアリーはベトナム戦争で息子を亡くしている。
そんな孤独な3人がたまたまいっしょにクリスマスを過ごすことに。2週間の休暇の間に反発しながらも、次第に心を通わせるようになっていく…
人物描写がとても丁寧で細かい。アンガスは悪い子ではないのに友だちが少ない。複雑な性格だから他人、特に同世代からは理解されにくいのだ。こういう子は苦労するな、と彼と似たような気質を持つ人間にはよくわかるのだが。
偏屈な教師も、ポール・ジアマッティの渋い演技が炸裂し味わいを見せる。ただの頑固おやじではなくちゃんと解っている人なのだ。特にアンガスの実の父親とのエピソードでは泣かせる。
そして何といっても今回デビューのアンガス役、ドミニク・セッサ(オーディション時には高校生だったそうだ)が将来楽しみな存在感を見せた。クセの強い難しい役どころにもかかわらず、どこか放っておけない繊細なキャラを見事に演じた。
全体に重くなりがちなテーマに軽みを持たせ、ユーモアのセンスも盛り込んで、いい意味での70年代テイストが彩りを与えていた。ほっこりするけど、ちょっとほろ苦い、個人的にはとても好きな作品だ。

 

「クワイエット・プレイス Day1」

音をたてる物すべてに反応して襲いかかる謎の怪物が、ある家族を襲撃する471日前。「奴ら」が初めてやってきたその日を描くシリーズ第3弾。
個人的にはこの3作目は予想をいい方に裏切ってくれたので、3作のうちでいちばん好きな作品になった。
今回はエミリー・ブラントのお母さんやいつものファミリーは登場しないし、舞台は騒音であふれるニューヨークだ。
ルピタ・ニョンゴ演じるヒロインは、末期ガンでホスピスで暮らしている。たまたまみんなで外出したマンハッタンで、例の侵略者が突然現れて攻撃を開始し、街中がパニックになってしまう。
余命いくばくもないヒロインのサバイバル劇、という発想がとても面白い。
ホスピスで希望の見えない日々を送っていた彼女が、大パニックに直面したことで逆に生きる意味を考える。彼女の心の動きを映画は丁寧に追っている。
どうしても最後にやりたいこと、をするために彼女は、助かりたい群衆とは逆の方向へ急ぐ。
その間に短い時間ではあるが、様々な人に出会い助け合ってはまた別れていく。パニック映画ではあるが、なかなか叙情的でもある。そこが前2作と異なるところか。
逃げ回っている最中に、たまたまイギリスから来ていた男性と知り合い、お互い助け合ううちに親交を深める。
でもありきたりの男女ロマンスには発展せず、もっと根源的な人間愛に徹しているところに好感が持てた。
そしてまた、もうひとり(1匹)隠れた共演者として、猫が大活躍したのも猫好きにはうれしい。前作では、いつ何時泣き声をあげるかわからない赤ちゃんがひとつのネックになったが、今回は猫。だがこの猫は(介助猫か?)とてもお利口で、鳴き声ひとつあげない。1回ぐらい猫が鳴いてヒヤリとさせられるベタな展開があってもいいのに、と思ったが、おとなしくヒロインに寄り添っていた。
ラストもまた十分に感動的で、次へのつながりも納得できた。「奴ら」の謎はまだ解明されていないので、続きがありそうだ。

ところでヒロインがどうしても行きたかった「パッツィーズ」のピザは本当に美味しいのだ。マンハッタンだけでも数軒あるが、私も以前NYに行った時に、在住していた友人から勧められて食べに行ったことがある。ピザはもちろんだが、デザートのケーキもとても美味だった。