「ジェイ・ケリー」
映画スターとして活躍するジェイ・ケリー(ジョージ・クルーニー)は、彼を親身になって支えるマネージャーとともに急遽ヨーロッパに旅行することに。行く先々でいろいろな事態が発生して珍道中となるが、2人はこれまでの人生や関わってきた人たちとの関係、築いてきた功績について考える…
といった内容だが、とにかくジョージ・クルーニーがハマり役で、どうしたって本人そのものに見えてしまう。
クルーニー自身は「この主人公と自分はまったく違う」と主張しているようだが、否定すればするほど重なって見える。
まるで自虐ネタ? というようなユーモアもたっぷりで、軽い気持ちで楽しめた。
けっこうな大物俳優たちが、あまり大きくない役で次々に登場したりして、観ていて飽きない。
どこへ行っても何をしても人の目があって、「スターって大変ねぇ」と感じるが、その代わりに贅沢三昧、守りを固める裏方も万全だ。
昔の同級生と数十年ぶりに再会したくだりは苦々しいものがあったが、これもカネとコネの力で何なくクリア。
もし彼が落ち目になれば、すべてが狂い始めるのだろうが、ジェイ・ケリーは相変わらず人気者だ。
よくあるアーティストの苦悩とか、内省的な場面はほとんど描かれず(それが悪いというのではない)、ジェイ・ケリーはけっこう脳天気だ。
だからこそジョージ・クルーニーにぴったり、というのも観客側の勝手な想像で、彼自身は発言の通り、まったく違うのかもしれないが。
そんなことを感じさせる映画だった。
ネトフリでの配信ではなく劇場で鑑賞。
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「フランケンシュタイン」
ギレルモ・デル・トロ監督が長年の間、映画化を熱望していた「フランケンシュタイン」。ネトフリでの配信だが、私は劇場で鑑賞した。正解だった。
非常に手をかけて凝った、そして予算も使ったであろう壮大な美術やセット。また光と影を駆使した映像を、劇場のスクリーンで味わうことができたからだ。さすが、と思わせるこだわりの美学を堪能できる。
フランケンシュタイン、とはあの怪物のことではなく、それを創った博士の名である。いわゆるマッド・サイエンティストだ。何人分もの人体をつなぎ合わせて怪物を創り出すなんて、それ自体が狂気の沙汰だ。奇妙な実験室の凝りに凝ったセットや、モンスターの誕生などは、気色悪いが目が離せなくなってしまう。
だが映画は博士(オスカー・アイザックが熱演! )の異常性だけでなく、父と子、兄弟愛といった人間に関するあらゆるテーマが複雑に絡み合っている。
そして怪物が誕生してからは、生まれてきてしまった怪物の悲哀が一気に映画のトーンを変える。あのような特殊メイクを施してもなお、悲しみや苦悩を十二分に表現した怪物役のジェイコブ・エロディが凄い。
ミア・ゴスは当時の絵画から抜け出たようなヴィジュアルを再現し、彼女もまた出番は多くはないが印象的な存在。彼女と怪物の交流シーンはもう少し長くてもよかったと思うのだが、149分でも語り尽くせない重厚な物語なのだ。
メアリー・シェリーの原作とは異なる部分もあるようだが、完全にデル・トロの世界を体現したこの作品はかなりの見応えがあった。
「スピリットワールド」
ちょっと変わった趣の映画だったが、じんわりと心に響いた。
竹野内豊とカトリーヌ・ドヌーヴの共演、というのが観るまではどうにもしっくりこなくてミスキャストじゃないか、と危惧したのだがまったくそんなことはなかった。
舞台は日本で、キャストもドヌーヴ以外はすべて日本人なのに、どこか邦画っぽくないのは監督がシンガポール出身の人だからだろうか。
ハヤト(竹野内)は父ユウゾウ(堺正章)が亡くなった知らせを受け、実家のある高崎に向かう。遺品整理をするうちに、父がファンだった歌手クレア(ドヌーヴ)の来日コンサートのチケットを見つける。父の代わりに公演に行くハヤトだが、その翌日にクレアが日本で急死したことを知る。
ハヤトは父の遺言を実行するため、幼い頃家を出ていった母親(風吹ジュン)に会いに行くことに。が、その道中ユウゾウとクレアが背後に付きそっている(まだあの世に行かず魂がこの世にとどまっている)。もちろんその姿はハヤトにもだれにも見えていないのだが…
という一種のファンタジーなのである。ホラー感はないが、ユーモアはある。
ユウゾウとクレアのおしゃべりは、日本語とフランス語なのに会話が成立しているのは死後の世界ならでは、か。見ていて不自然さはない。
ハヤトはいろいろ問題を抱えているのだが、父の死と向き合い、母親とも再会するうちに少しずつ自分を取り戻そうとしていく。それを亡くなった2人が静かに見守る。この世からあの世へは、そうそうすんなり行けるものではないらしい。
竹野内豊は、仕事もプライベートもうまくいかない飲んだくれの中年男をマイペースで演じていた。マチャアキがまた味があって佇まいがいい。
驚きなのは80歳を超えているカトリーヌ・ドヌーヴだ。竹野内と2人のシーンなどはまるで、往年の仏映画のようなロマンチックな絵になっている。
驚異の美しさ。そしてどこでどんな役を演じても「わたしはドヌーヴ」といったドヌーヴ感がハンパないのであった。コンサートのシーンでは歌まで歌ったのだからすごい。
「アニタ 反逆の女神」
「ローリング・ストーンズの女」と言われたモデルで女優のアニタ・パレンバーグ。彼女の波乱万丈な人生のドキュメンタリー映画。
ストーンズの女と呼ばれるのは本人にとっては不本意かもしれないが、メンバー5人のうち3人と関係を持ったことを公言しているのだから、まあ、仕方がない。
結成当時リーダーだったブライアン・ジョーンズと恋仲になり、彼がドラッグに溺れすぎて関係が終わると(映画で共演したミック・ジャガーとも接近し)、次にキース・リチャーズとくっつき、結婚して3人の子をもうける(後に離婚)。
と、書くといかにも彼女が浮気性な感じだが、結局アニタはストーンズのミューズでありモテまくりだったわけだ。
たとえばクラプトンの「レイラ」のモデルになったパティ・ボイドとか、60年代にミック・ジャガーの恋人だったマリアンヌ・フェイスフル、といった華奢で可愛らしいスイートな(あくまでも見た目)女子とは明らかに異質なアニタ。複雑な生い立ちを背景に、ワイルドでロックなカッコいい姐さんというイメージで、それがまたミュージシャンたちを虜にしたのだろう。
今見てもまったく色褪せることのない60〜70年代のアニタのファッションは、その生き方とも相まって私たちを魅了する。
自由奔放で激しく生きた彼女だが、今とは世情が異なるあの時代、男権社会で抗い痛いほどの孤独を感じたアニタに心揺さぶられるものがあった。
映画は彼女が書いた回顧録を元に朗読と、関係者の証言、そしてかなりの量のホームビデオによって構成されている。リチャーズとの間の長男の全面的協力を得て、骨太で良質なドキュメンタリー映画となった。
朗読を担当したスカーレット・ヨハンソンの声と語り口がまたこの映画にぴったり。
「アフター・ザ・クエイク」
村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」に収録されている4つの物語を原作にした人間ドラマ。1995年から2025年にかけて4つの時代、それぞれ別の場所と人物で描かれ、つながっていく。
この映画、たぶん村上春樹ファン(もしくは読んだことのある人)しか観ないと思うので、あまり気にしなくていいのかもしれないが、映画に結論を求める向きにはお勧めできない。時間の無駄だからやめておいた方が…と個人的には思う。
ちっともわからなかった、と言う人がいるようだが、わかるわからないではなく、感じるものだ。結論なんかあってもなくてもいい。納得したければ自分で自由に考えればいいのだ。
原作を読めばわかるか、というと理解は深まるかもしれないが、わかるかどうかはその人次第だろう。私自身、原作を読んでからずいぶん年月が経ってしまったので、だいぶ忘れてしまった。が、懐かしさもあった。
村上作品の映画化、という点では2024年に公開されたフランス映画のアニメ「めくらやなぎと眠る女」の方がまだわかりやすさはある。同じく「かえるくん」も出てくるし。あの映画は普段アニメを観ない私でも好感が持てたし、アニメの完成度があまり高くないところが、逆に実写映画のようでよかったのだ。
「アフター・ザ・クエイク」は意外にも豪華キャストなのだが、その人物たちさえも村上作品に於いては一(いち)登場人物になってしまうところが面白い。
全体では132分だが、1本あたりは30分ちょっとなのでそれぞれ飽きない。というか「え、これで終わり?」と感じるかもしれない。
1本でも心に残る短編があれば、それでいいのではないかと個人的には感じる。
「ワン・バトル・アフター・アナザー」
ポール・トーマス・アンダーソン監督で主演はディカプリオ、共演にショーン・ペンとベニチオ・デル・トロと聞けば、観ないわけにはいかない。今回は予算もたっぷりかけたようだし、これまで以上にエンタメ色も強まったようだし。
そして観てみたら、これが案の定、賞レースを賑わせそうな内容と納得した。
革命家として最前線で活動していたのに、子育てのために身を隠し潜伏生活に入ったボブ。怠惰な生活がすっかり身について、長年使わなかったためにパスワードも忘れている始末。そんなどうしようもなくだらしない革命家くずれをディカプリオが好演。ダメ男っぷりがなかなか笑わせてくれる。
目に入れても痛くない娘が宿敵に拉致されたとなるや、父性本能丸出しで錆びついた体に鞭打って救出に向かう。
敵はショーン・ペンだが、これがまたアクの強さといったら天下一で、すごい迫力でスクリーンからぐいぐいと迫ってくる。どうもこのショーン・ペンがあまりの存在感で主演を食う勢い。 ディカプリオって人は作品には恵まれるがどうも運が悪いようだ。またしても主演男優賞はどっかのだれかに持っていかれてしまうのか…。
こういった映画の割に女優陣も負けてはいない。前半に大活躍で観客の目を奪ったテヤナ・テイラーは超クールで野蛮な革命家を。娘役のチェイス・インフィニティもフレッシュな新星で今後が期待がもてる。
原作は30年以上前に書かれた小説で、監督は長年あたためていたようだが、非常に今日的な題材として映画化された。保守系白人富裕層によって支配され、貧しい庶民や移民たちが虫けらのように迫害される全体主義のアメリカ。痛烈な批判精神が観ていて気持ちいいほどだった。
162分と長尺だが少しも飽きることなく、画面に釘づけになることまちがいなしのエンタメ作品。
「レッド・ツェッぺリン : ビカミング」
古い洋楽ロック好きの人のみが対象の映画なのに、異例のヒットだそうだ。
確かにこれは、ロックドキュメンタリーとしては最高の部類に入ると思う。
タイトルの通り、レッド・ツェッペリンが68年にデビューして、70年1月のライブまでの、本当に駆け出し時代にだけ焦点を絞っている。
とはいえ映画はメンバーそれぞれの生い立ちから始まっているので、実際はバンド結成まで最初の30分ぐらい費やしている。
だがそれらのエピソードや時代背景など意外に興味深いものがあり、初めて知った事実も多かった。
よくあるドキュメンタリーのように、音楽評論家やライター、プロデューサー、メンバーの友人や家族といった周辺の人々へのインタビューは無し。
ペイジ、プラント、ジョーンズの3人と、80年に亡くなったボーナムに関しては、貴重な生前の肉声テープを編集しての出演だ。
当事者たちが語るだけなので、客観性を欠いているようにも思えるが、それが気にならないのは、時が経って彼らも自分たちの過去を十分俯瞰して見られるようになったからかもしれない。
そして使用される楽曲が、曲の一部ではなくほぼ1曲丸ごと使われているのがとてもうれしかった。アルバムでいうと、ファーストとセカンドの時代なので、それ以降の曲は当然出てこない。「天国への階段」がないじゃない、なんてがっかりしないで。
ツェッペリンのエッセンスは、あの2枚に凝縮されていると言っても過言ではないのだ。
おそらくこの映画を観た大方の人がそうしたように、私も帰宅してからその2枚を引っ張り出して久々に聴いた。
しばらくの間は映画の衝撃が続いて、毎日1枚ずつアルバムを聴いたり(といっても10枚ぐらいしか出てないが)、「レッド・ツェッペリン狂熱のライブ」の映像を観たりと、今も興奮が醒めきれないでいる。
リアルなツェッペリンを知っているのはもう60歳以上ぐらいなので、劇場もそんな人たちばかりと思ったら、もっと若い世代もいたので安心したのだった。こうして歴史は引き継がれていく…
ちなみに私がリアルタイムで初めてツェッペリンを聴いたのは、4枚目のアルバムの時。来日公演があったのは知っていたが、中学生だったので行ってない。
いちばん好きなアルバムは「フィジカル・グラフィティ」だ。
「ブラックドッグ」
何の予備知識もなく観に行ったのだが、これが大当たり。超クールな中国映画だ。
時は北京オリンピック開催直前、ゴビ砂漠に隣接した街は再開発のために住人が引っ越しを余儀なくされている。廃墟と化してしまった学校や行楽施設、商店などが荒涼とした砂漠の景色の中に浮かび上がる。
かつての住人が置いていった飼い犬たちが野犬となり、砂漠の中を駆け回わっている。そのロングショットがすでに、この映画がただものではないことを予感させる。
住む人が少なくなったその街に、訳ありの男がひとり戻ってくる。孤独で無口な青年は、主人公なのに台詞がほとんどない。
でも彼を取り巻く人々はよくしゃべるので、彼の置かれている立場や苦境に立たされていることはわかる。
青年は1匹の黒い野良犬と心を通わせるようになる。荒んだ彼の心がわずかなぬくもりを感じるようになる。飼い犬として登録し、バイクのサイドカーまで作っていっしょに移動できるようにした。
孤独な青年と野良犬の絆は、乾ききった砂漠の中の廃墟の街で、わずかなぬくもりを感じさせる。口うるさくてておせっかいな街の人々の言動も、どんな環境下にあっても人情というものはあると教えてくれる。
青年の犬のくだりはベタだが押しつけがましくない。まるで西部劇にあるようなドライな空気感と、ロングショットを多用した映像が相まって、独特な世界観を作り出している。
犬の演技は、いわゆる西洋映画で見る「犬の演技」とはぜんぜん違うのだが、これもまた名演技であることにちがいはない。
ラスト近くで突然、ピンク・フロイドの「Hey you」が流れるが、それすら違和感なくすんなり入ってきてしまうのだからすごい。







