魔女
CNNのテレビ画面に映し出されたのは・・
人々が逃げ惑う青森の街
仙台では津波が、家を、車を、人を、飲み込んでは海に引きずり込んでいる
山津波と思われるものに襲われる仙台空港
そして渦潮の海・・
それは興奮気味に喋るアナウンサーの声と共に繰り返し繰り返し放送された
気がつくと、私たちのテーブルのまわりにはネパール人や外国人で埋め尽くされ
その誰もがテレビに釘付けになっていた
店の従業員でさえ仕事を止めて、恐怖の表情でテレビを見詰めている
見るに耐えない映像が繰り返される中
デイブとの会話で私たちが日本人であることを知ると
外国人たちは私たちに同情の目を向け、そっと肩を叩いて席に戻って行き
従業員たちは私と目が合うと、眉を寄せてうつむいた
被災地の様子はこの通りと理解し、命を落とされた方々や家を失った人々や、また動物たちを思うとたまらなかった
テレビは災害の様子だけを映し、その他の地域のことには触れない
東京、横浜は放送されないところをみると大丈夫なのか
それにしてもマグニチュード8.9(この時点で)の地震なら、我が家も相当揺れたのではないのだろうか
私はホテルに戻り、そこに置き放しにしていた自分の携帯で早速自宅の家族①に電話をした
数回の呼び出し音の後、家族①の声が聞こえた
しかしこちらの声は聞こえないようで、家族①は何回も 「もしもし、もしもし・・」 と、そればかりを繰り返している
少しして再度掛けたが同様だった
撮り合えず声を聞くことが出来た
その声からは特に緊急性を感じ取れなかったことで多少安堵した
これ以来、家族①とも家族ちぃとも連絡は取れなくなった
その一方で、ネパールの友人たちからはひっきりなしに電話が掛かってきた
ティロチャンは興奮状態であったし
仕事で日本に来たことのあるサヌカンチャは深刻な口調だった
遠くチャリコットに住んでいるジリは移り変わる日本の様子を日を置かず知らせた
そしてその他の友人たちも、一様に日本の家族を案じてくれた
街に出れば人々の心配を一身に受けた
家族と連絡が取れない、と聞くと
彼らは 「大丈夫、私が祈っているから、毎日祈るから絶対に大丈夫です」 と励ます
親戚の結婚式で村に行っていたラクスマンも戻って来た
彼は再会を喜びながらも日本の様子を深く案じた
翌12日
私は2泊で山奥の学校を訪れることになっていた
学校側は既にそのつもりでいるという
そこに行けば、もし日本の家族に何かあっても直ぐにはカトマンズに戻るとこはできない
しかし今更どうしようもない
行くと決めたからには行くしかないのだ
私は2泊の予定を1泊に変えることにした
それがどんなに強行軍であるかは承知の上だった
私はその1泊2日の間を共にするタクシーをチャーターした
午後の時間帯は、ポカラ発カトマンズ行きのバスがなくなる
そういう訳で、もう1泊せねばならない不便さから、1泊でカトマンズに帰る方法を考慮すると、それしか手がなかった
事故の多いトリバンハイウェイを運転するのは、経験を積んだドライバーでなければならない
そこでベテランのドライバーを紹介してもらった
往復のガソリン代、通行料、そして運転手の宿泊費、食事、飲み物は全部本人が持つ事
そして、途中で車が壊れてもこちらには修理代を請求しない、という約束の下
私は彼に10、000ルピー(¥11、000)を支払うことを決めた
タクシーはオンボロだが、ドライバーの腕は確か・・って 微妙なところだな
トリバンハイウェイはともかく、その後の狭く険しい山道を、できるだけ学校の近くまでということになると、車が壊れかねない
事実、ファルピンのハティバンリゾートに登る道の途中でタクシーがぶっ壊れたという経験もある
これから行く道はハティバンの道どころではない
想像を絶していて、まるで道とは言い難い
それでも運転手は行けるところまでは行く、という
こうして私たちと運転手はそれぞれ簡単な荷物をまとめ
一路ドゥデクナという村を目指してカトマンズを出発した
こんな暑い日でも、飲むのはやはり熱いチャーだ どこでもチャーは鍋で煮る
これから何日間かはドゥデクナ村の話になります
一気に書いてしまわないと記憶が曖昧になりそうだから
《ボンネット》はだいぶ元気になり、夕べはひとりで遊んでいました
ねこ日記を楽しみにされている方、ごめんなさい
ネパールのことも知っていただけたら幸いです