その後のこと:7月30日
予定通り、AM10時半から告別式が行われました。
皆で泣く泣く最後のお別れをし、お昼ごろ斎場へ。
PM2時前頃、御骨上げをして、葬儀会館へ戻ってから
弔上げ、初七日法要を済ませました。
夕方、祖父宅へ戻って祭壇を組んでいただきましたが、祖父宅には
もう人がいないので、実家へ祭壇を組みなおしました。
そして、やっと落ち着いた次第です。
31日夜、あたしたち家族は徳島に戻りました。
1日、子供達は登校日&登園日。無事に行きました。
日常が戻ってきましたが、やっぱり考えてしまいます。
まだまだ、祖父にしてあげられることがあったのではないか・・・と。
これで、祖父の話はおしまいにしたいと思います。
皆様、本当に温かいお言葉ありがとうございました。
とても温かく親切なコメントたくさんをいただき、本当に感謝しておりますm(_ _)m
その後のこと:7月29日
お通夜はPM6時からでした。
それまでに色々準備しなければなりません。
夫がいてくれるので、子供たちを任せられます。
あたしと母は、まず祖父の家に荷物を取りに行って、それから
車にガソリンを入れて、葬儀会館に向かう予定でした。
実家から車で30分。祖父の家に到着。
必要なものを持って、ガソリンスタンドへ向かいました。
セルフのガソリンスタンド。
満タンにガソリンを入れて、エンジンを・・・・
・・・・・かからない・・・・・・
なにぃーーーーーーーーー
いきなりエンジンがかからなくなってしまいました
セルフのガソリンスタンドでしたが、たまたま傍にいた店員の方が
すぐに車のバッテリーを他の車と繋いでくださり、エンジンを
かけてくれました。
そのまま、近くのオートバックスへ直行!!!
やっぱり、バッテリーが古くなってきていて、交換しました。
・・・オートバックスで優雅に昼食がとれました(笑)
母と話しましたよ。
「ガソリンスタンドでエンジンがかからなくなるなんて!
きっと、じーちゃんが(そろそろバッテリー交換しないと、やばい)って
教えてくれたんじゃない?」と。
ガソリンスタンド以外で車が動かなかったら・・・・
そう考えるとゾッとします。
もし、祖父の家で動かなくなっていたら。。高速で動かなくなっていたら。。
しかもガソリンスタンドから、車で5分とかからずオートバックスのある
場所でしたし。すごく助かりました。
その夜、お通夜を行いました。
祖父が生前から親交があったお寺さんのお坊さんがお勤めをしてくださいました。
お坊さんは・・・お経を唱えながら泣いていました。
後から聞くと、お坊さんのお子さんが「じーちゃんが死んだん!?ウソや!
じーちゃんのおうちに行ってくる!!」と祖父の家まで行ったそうです。
ご近所の子供たちにも、とっても慕われていたんですね。。
通夜式の後、納棺式が行われました。
御棺に祖父が入れられました。そして、祖父のカウボーイハット、祖父が
撮った写真、タバコ、子供達が描いた絵などが入れられました。
その後、その場(会場)で食事をして、親戚と話をして過ごしました。
その後のこと:7月28日
皆様、温かいコメント本当に有難うございました。
ブログをやっていて、本当によかったと思いました。
皆様のお言葉で、どれだけ救われたか・・・。
この場をもちましてお礼申し上げますm(_ _)m
祖父が亡くなってからのことを、少し書きたいと思います。
これは、自分の覚書として・・・。
祖父が亡くなり、親戚数人が病院に集まってから、葬儀社に
連絡をして祖父を迎えに来てもらいました。
病院から出発する時、担当医師や看護師さんも見送ってくださいました。
祖父の家は古くて小さいので、家でお通夜をすることは断念しました。
しかし、親戚の中には「家に連れて帰ってあげないとかわいそう」と
言う声もあがりました。
だけれど、狭い部屋でエアコンもないところでお通夜なんてできません。
なにより祖父は生前
「死んだらわからん!好きにしてくれ~!!」と言っていました(笑)
葬儀社さんが気を利かせてくださり、祖父の家を通ってから葬儀会館へ
向かってくれることになりました。
とりあえず、親戚は渋々納得(^^;
(こんな親戚はどうでもいいんです。普段から祖父と疎遠だったから
祖父の生前の希望を知らないだけなんです。)
亡くなってからが大変です。
日程を決めたり、お通夜やお葬式に集まる人数を考えて、お料理や
お返しの算段をしなければなりません。
それから、遺影や祖父に着せてあげる服なども準備しなきゃ!
そんでもって、自分たちの準備もあります。
喪服や靴や・・・あ!子供たちの服や靴も(><)
徳島にいる夫に色々連絡(^^;;;家が遠いと不便です。。
なんだか・・・一番悲しむ人が悲しめないですね。。。
バタバタと祖父の家や実家や葬儀会場を行ったり来たりしました。
遺影は、祖父のお気に入りの写真を使うことにしました。
子供たちの七五三の時に一緒に撮った写真です。
祖父は普通の(?)90歳のじーさんではありませんでした。
★デジカメを持って、あちこち撮影。
★趣味はパソコンを使ってパチスロ。
★日ごろの情報収集もパソコン。ウィキベディア好き
★パソコンメールを操り、携帯へメール。
★自分も携帯を持ち、万歩計代わりにウォーキング
★海外テレビシリーズ「24」が大好きで、全話制覇
★大きな植木でも、自分で剪定(危ないなぁ~)
こんな人なので、祖父のお気に入りの洋服を持ってきました。
「昇り龍模様のブラックTシャツ。後ろには桜の刺繍」←すごすぎ(笑)
ズボンはもちろん、ジーンズ。バックル付のベルトはダメって言われちゃった(--;
そして、カウボーイハット。
・・・こんな90歳、なかなかいませんぜ。。。
そんな意味で「自慢の祖父」でした。
祖父はお風呂に入れてもらい、整髪してもらって着替え。
とても素敵な「じーちゃん」に戻りました。
葬儀会館には、宿泊施設も完備、キッチンやお風呂、テレビ。
必要なものは全部揃っていて、遠方から来た親戚はそこへお泊りです。
28日夜、あたしや母は久しぶりに熟睡したのでした。。。
あ、夫は夜、荷物を持って来てくれました。
「大丈夫か?」と言ってくれました。
「うん」とだけ、答えました。ありがとう。その言葉で大丈夫になった気がしました。
しばらくぶりになってしまいました。
久しぶりのネットです。
色々忙しく・・・ブログをやっと書けるようになったので
書きたいと思います。
ちょっと前になりますが・・・
7月12日に弟から電話をもらっていました。
「じーちゃんが入院して、もうだいぶ悪くて退院できない」と。
ヤフーブログにも、ちょくちょく登場していた90歳の祖父です。
去年の春に肺癌が見つかり、4ヶ月の入院生活の末、退院し
それからは、だましだまし過ごしていました。
肺癌が全身に転移し、もう臓器がうまく働くことが出来ず
余命いくばくか・・・という状態だと聞いていました。
7月の連休(16~18日)に入院した祖父に会いに行き
夏休みになってから、毎日祖父のところへ通う予定でした。
25日から実家へ子供たちを連れて行くことにしていました。
25日はダイくんとリンちゃんの個人懇談がありました。
スイミングもあるので、夜、実家へ行こうと思っていました。
個人懇談を午前中に済ませ、子供達にお昼ご飯を食べさせていると
「もっと早く来てほしい、じーちゃんが会いたがっているから」と
母から連絡がありました。
そこで、大急ぎで支度をして、スイミングもキャンセルして
実家へ向かいました。
どんなに急いでも、実家まで2時間かかります。
ノンストップで高速を飛ばし、実家へは寄らずに病院へ向かいました。
祖父は横になったままでしたが、意識ははっきりしており
子供たちのこともわかり、手でオッケーマーク(大丈夫)を出していました。
でも、母によると「記憶はしっかりしたり、曖昧になったり、
子供たちに会ったら、えらくしっかりしてびっくりしたわ~」と。
しかしお医者さんには、「出来ればご家族の方が付き添ってください」と
言われていて、この日から家族でじーちゃんに付き添いをすることになりました。
高知から、叔母といとこも来ていて、25日の夜は叔母とあたしが
付き添いをすることになりました。
あたし達は、床ずれ防止のクッションを色々移動させたり、じーちゃんの
腰をもんでみたり、足をマッサージしたり。
AM12時になると、病室のエアコンが切れてしまいます。
朝7時にならないと、エアコンがつかないんです。
窓を開け、一晩中ウチワで仰いで過ごしました。
26日朝、母と弟と付き添いを交代して、あたしは自宅へ戻って寝ました。
26日夜は、叔母といとこが付き添いをしました。
じーちゃんは、夜中の間に体に痛みが出て、痛み止めを2度ほど注射したそうです。
27日の昼間はあたしが付き添いをしました。
この日の朝、担当医師から「痛みが出てきたようなので、モルヒネを使います」と
説明を受けました。
そして、以前から「いつ呼吸が止まってもおかしくない状態です」とも。
25日~26日は「心拍数100前後、血圧:上100前後、下50前後」でした。
27日は「心拍数80前後、血圧:上80前後、下40前後」
モルヒネを使うようになると、さらに意識が朦朧としてきたように思います。
それでも、時々自分で体を動かしたり、何かしゃべったりしていました。
27日の夜に付き添ったのは、母と弟でした。
この日から、祖父の体を勝手に触ったり動かしてはいけない。。と
言われました。
呼吸を阻害してしまう可能性があるからです。
意識も・・・あるのかないのか・・・という状態でした。
28日の昼間は、あたしが付き添いすることになりました。
母達と交代した時は「心拍数70前後、血圧:上60前後、下40前後」でした。
ずいぶん血圧が下がってきていました。
担当医師からは、ずっと「いつ呼吸が止まるかわからない」と言われ、
あたしは「もう少しだけ、じーちゃん、頑張って・・・」と思っていました。
28日昼過ぎ。。
心電図の心電計に変化がありました。
心拍数が50・・・・40・・・・35・・・と下がってきたのです。
あたしはすぐに看護師さんに来てもらい、「心拍数が下がってきたので
家族を呼んだほうがいいですよね?」と確認しました。
そして、2時間ほど前に帰ったばかりの母に電話しました。
「そろそろ、みんな来て」と。
その自分の声は、たぶん泣き声になっていたと思います。
12時半、心拍が完全に「0」になりました。
そして・・・・呼吸数が少なくなり・・・・止まりました。
担当医師から「12時35分、ご臨終です」と告げられました。
90歳と2ヶ月の祖父。寿命を全うしたと思います。
看取ってあげられたのが、あたしだけだったのが。。かわいそうな気もしますが・・・
後々考えたら、「その時」を祖父は選んだのでしょうか?
看取ったのがあたしでよかったのでしょうか?・・・謎です。
10分ほどしてから、親戚や母達が到着しました。
(内緒ですが)親戚の中には祖父の嫌いな人がいます。
最初に到着したのがその人だったので、祖父はあたしを選んだのではないか。。
と思ってしまいました(苦笑)
本当に自慢の祖父でした。
「ありがとう」と手を握りました。まだ温かかったです。
でも・・・やっぱり・・・
もっともっと生きていてほしかったです。。
ペタできません。。ごめんね
祖父の危篤状態が続いています。
交代で付き添いをしています。
しばらくの間、普通にネットができないと思います。
ペタしてくださっている方々、ごめんなさい。
今日のほななオフ、楽しんでね(^-^)/