【ブログ記事 長文です。誤字脱字ばかりで読みづらいかもしれません。

私の大好きなお義父さんとの思いでの記録です】

 

 

 

 

2018年3月15日 21時27分 義父 他界

 

 

 

2010年8月 韓国ソウル 

 夫の父親は彼が高校2年生の時に脳の癌手術をして片耳に補聴器をしながら、少し不自由な生活をしていた。私が初めて会った時のお義父さんの記憶はあまりない。2004年にソウルに遊びに行ったときにお会いして、その後日本旅行にもいらっしゃったのに、その時の私の目には控えめなお義父さんよりも積極的なお義母さんの記憶が強く残った気がする。2010年、彼の父親が倒れて具合が以前より悪くなったと聞き、心配もあり結婚する韓国に行くことを決めた。2010年に会ったお義父さんは食事が少し不自由な感じだなっと思った。積極的に週末農業をしに行こうとするお義父さんとお義母さんを家族が必死に止めていたのを思い出す。私が韓国に来て2日目の朝も家で同じようなバトルが繰り広げられて、怒ったお義父さんが家を出ていこうとした。そんなお義父さんを止めるようにっと私が彼から指示を受けてお義父さんを止めに行ってエレベーターのドアに指を挟んだら、お義父さんがとっても悪いことをしてしまったという顔で家に一緒に戻ってくれた。私はお義父さんお義母さんと日曜日に山に農業をしに行くのが嫌いではなかった、お義父さんが仕事をやりすぎてしまう性格で、そのせいで家族はたくさん心配したけど、できるだけ一緒に行ってあげられたらと思った。慣れない韓国の生活を心配してか、私が一人で台所にいるとよく見に来て隣で笑いかけてくれた。家族は具合が悪いお義父さんとの距離が少しある気がしたけれど、来たばっかりの私は何がなんだかわからないまま日常を過ごしていた。

 

 2011年6月 グアム

  私たちの結婚式をグアムですることになった。お義父さんは海外で結婚式をすることに反対していたが、最終的には許してくれて家族みんなでグアムに行くことができた。結婚で証人をしたお義父さんの姿がとても素敵だったとお義母さんが喜んでくれたのを覚えている。グアムのヒルトンホテルは古くて結婚式場以外は今一つだなっと思っていたけど、プールは広くて水温も温かく夜まで入れたので恥ずかしがりやのお義父さんも一緒に来てくれて家族と一緒にジャグジーを楽しんだ。

 

2011年8月 韓国ソウル

 突然シデクからお義父さんが倒れたと連絡がきた。彼は急いで病院に行き、とりあえず家で待機しているように言われた。どうしていいかわからず、日本の母親に連絡をした。母から落ち着いていつでも病院に行ける準備をして、食べれるものを用意しておけばいいんじゃない、と言われ家にあるものでキンパを作った。キンパをもって病院に駆けつけると、衝撃を受けている彼とお義母さんがいた。目の前のお義父さんは、脳卒中で倒れて運ばれて処置をしたけれど、麻痺が残りそうだった。倒れる前から食べることや聞くことに障害があったけど、目の前のお義父さんの姿があまりに変わってしまってびっくりした。 私が動揺してはいけないと思い、大丈夫だと自分に言い聞かせるようにお義父さんに言ったのを覚えている。気丈にふるまい、彼、お義母さん、そして後から来たお義姉ちゃん家族にキンパを食べさせた。食欲のない家族に少しでも何かを食べてもらえてよかったと思った。

歩くことができず、トイレにも自分で行けないため、最初は彼がお義父さんを担いでトイレに連れて行った。私が韓国語を学んで少しずつ話せるようのになったのに、お義父さんが言葉を話せなくなってしまった。彼とお義母さんと私で病院での介護が始まった。最初は歩けなかったお義父さんも何か月かすると少しずつ立ち上がったり、つえを使って歩けるようになった。しかし、食事は食道が麻痺してしまいお腹から食事をする方法以外なくなってしまった。最初のうちはお義父さんの前で食事をするのも申し訳なくて病院でも隠れて食事をしていたが、何かのテレビ番組で見て代理満足ができることもあると聞き、少しずつお義父さんの前でも食事をするようになった。それでも、時たまにお義父さんが冗談っぽくコーヒーを飲んでいる私にジェスチャーで「自分も飲みたい」というように言われるととても切ない気持ちになった。

 

2012年3月 韓国ソウル

 私が大学入学。お義父さんのこともあり入学することを悩んだりもしたが、周りからの後押しもあり入学することにした。幸いこの頃、お義父さんは大学病院を退院してリハビリ用の病院に移動した。そこの病院が私の家と大学のすぐそばにあり、昼は大学に行き夜は病院に行ったり、空き時間に病院に行ってお義父さんのリハビリのお手伝いをした。お義父さんは右半身麻痺だったので、サポートをしながら起こしてあげたり、リハビリ用自転車に乗せてあげたりした。

 

2012年 9月~2016年 韓国ソウル

 お義父さんがついに長い病院生活から解放されて、家でリハビリをすることになった。家でも病院にいる時と変わらないように介護用自転車を買ったり、介護ベッドをレンタルしたりした。介護用自転車を買うときに、お店の人に買っても3か月くらいですぐにみんな飽きて乗らなくなるよ!と言われたそうだ。そんなことを言われたのに、お義父さんは1日2回、夏は汗をかきながら1回20分~30分自転車をこいだ。いつかまた歩けると思って。その後も通院して、体調が悪いときは入院したが、倒れた時よりは元気に過ごしていた。2014年からは家の引っ越しや工事のため、私たち夫婦も半年ほどシデクにお世話になった。その間、義妹も家のチョンセが上がった理由でシデクに来た。大家族でのシデク生活>< 大学にも通いながらだったので過酷だったのを覚えている。2015年は一番上のお義姉ちゃんと二番目の息子と義妹夫婦とその息子がアメリカに1年行くことになった。お義父さんは頑張って運動も家で続けて2015年ごろには一人で立ち上がったり、勝手に歩いてみて転んで頭をうったりしていた。お義母さんがアメリカ旅行に行くときに私が代わりにお義父さんの面倒を見た時もとてもコンディションがよくなり、お義父さんからありがとうっと言われ、とってもほめてもらったことが記憶に残っている。2014年、2015年はお義父さんと一緒の時間がとても多かった時期だった。その後、2016年にはアメリカから義妹や家族が1年の語学留学から帰って来て、私はアンフラワーケーキのお教室をはじめ、前よりはお義父さんと触れ合う機会が少なくなっていった。それでもできるだけ週末にはお義父さんに会いにシデクに行くようにしていた。

 

2017年 夏 韓国ソウル

 彼と私以外の家族が夏休みにイタリアに行くため、彼と私がお義父さんの介護をすることになった。普段はレッスンで忙しい私もこの時ばかりはシデクでお義父さんと過ごそうと思って行った。ただ、お義父さんの容態が今までにないくらい悪くてとてもびっくりした。私もお義父さんの介護をしながら体調を崩してしまい何とか家族が帰ってくるまで無事にお義父さんを看たが、家族がイタリアから帰って来てすぐにお義父さんは検査入院をすることになった。去年のお義父さんはとっても元気だった気がするのに、お義父さんの検査結果は悪かった。そこから入退院を繰り返し、家族で懸命な介護をしたが、日々お義父さんの容体がよくなることはなかった。少しずつ弱っていくお義父さんになんと言葉をかけていいかわからなかった。

 

2018年 2月 3月 韓国ソウル

 お義父さんがまた入院することになった。彼とお義母さんとの病院での介護。アガシが昼間に来たり私が夕方から夜に来たり、お義姉ちゃんが務めている病院なので、お義姉ちゃんは空き時間に顔を出したりしていた。日に日に元気ではなくなるお義父さんに私は何を話しただろう。お義父さんは私が来るたびに優しく笑ってくれたけど、亡くなる前日はほとんど反応がなくなっていた。

 3月14日 お義父さんがカトリックの洗礼を受けるというので、立ち合いのために病院に行った。義妹がお義父さんに贈る言葉を言うとき、洗礼名をもらうとき、お義父さんは泣いているようだった。その後、彼と交代でお義母さんが帰宅しようというとき、急に血圧が低下もしかしたら危ないかもしれないとお医者さまから言われる。帰ろうとしていたお義母さん、お義姉ちゃん、義妹も待機することにした。彼も急いで病院に来てお義父さんに話しかけると、かすかながら喜ぶような反応を見せた。その日の夜、お医者様からは明日までだと思うと宣告されてしまった。アメリカのお義姉ちゃんにも急いで電話をかけビデオ電話で声をかけてもらった。お義父さんの目が大きく見開き、それが最後の反応だった。

 

 2018年 3月15日  韓国ソウル

 主治医から今日の午後1時2時頃までではないかと伝えられた。そんな中、朝、お義母さんは彼の髪の毛があまりに伸び切っていてボロボロなので急いで髪を切ってこいという。彼は仕方なく髪を切りにいった。私もイーマートに額縁を買いに行ったり(必要ない行動だった※前もって葬儀場に行って遺影の相談をすれば済んだ)みんなの朝ご飯を買いに出かけたりと危篤のお義父さんを前に気が気ではなかったが、いろいろな仕事をこなした。朝、何度か危ない時があったが、それでもお義父さんは乗り切った、信じられないくらい低い血圧なのに、いつの間にか夕方の4時になっていた。主治医が来て、医学では説明できないことが起きています。誰か待っている人でもいるんでしょうかねっと言われ、「今アメリカから娘が来ているんです」とお義母さんが伝えた。お姉ちゃんは夕方5時にインチョン空港到着予定だったが飛行機がディレイして夕方6時に来ることになった。タクシーで来るとしても間に合うのかみんなが心配していた。また、シデク(嫁ぎ先の家)でも甥っ子たちが病院に来たいと言っていた。当初、子どもたちにはおじいさんの死に目に会わせたくないというお義母さんの気持ちがあったが、強い思いにお義姉ちゃんと義妹、彼と私からの言葉もあり、子どもたちとお義姉ちゃんと義妹の旦那さんたちにも来てもらうことにした。家族が見守る中、夜8時30分病室のドアが開いた「アメリカのお義姉ちゃん!!」一気に病室に泣き声が響き渡った。間に合ったんだ!!!

お義姉ちゃんがお義父さんに会えた。よかったよかった。と心から思った。そして、1時間後、家族が見守る中お義父さんは息をひきとった。

 最後の最後まで家族のためにお義父さんは生きたんだと思った。みんながいる前でみんなに話しかけるように。私もちょうどレッスンの予約も何もない時期で、お父さんを送ることができてよかった。お義父さんの亡くなったタイミングがすごく驚くことに家族が葬儀をするうえで一番大変ではない時間帯だったようで。亡くなったその日にお通夜、翌日本葬、翌々日に火葬、納骨だった。 葬儀の夜、一番上のお義姉ちゃんの旦那さん(クンソバンニム)が泣いていた。彼は大学生からお義姉ちゃんと付き合っていてとても長くお義父さんと時間を過ごしていた。とてもいい関係とは言えないが、思うところがあったようだ。私は、私より早く結婚した旦那さんたちを少しだけ羨ましく思った。私が知らない元気な時のお義父さんをたくさん知っているんだろうと思ったから。

ずっと心の準備はしていたけれど、いざとなってみるとやはりそれは突然で、受け入れがたいものだった。いつでも笑顔で私を受け入れてくれる、韓国で私の一番の味方を失ってしまった。そんな気分だった。大好きなお義父さん。もっと一緒にしたいことがあったのに。体が不自由になってしまい、一緒に温泉や旅行も行けなくて、そればかりが悔しくてならない。それでも、私は自分ができる限りのことはしたし、お義父さんにもたくさんたくさん触ったし、お義父さんがシデクにいてくれてよかったと何度も何度も伝えることができた。お義父さん、ありがとう。病の苦しみから解放されて、自由になったんだね。生まれ変わったら、もっともっと健康な体で、好きなものを好きなだけ食べて、たくさん歩いて旅行して、楽しい人生を送ってね。6年半苦しい闘病生活ご苦労様でした。本当にありがとうございました。