人の気持ちは、他人には変えられない。
これ、真理です。
人は誰に何を言われようとも「好きなものは好き」ですし、「嫌いなものは嫌い」。
「誰かの説得」に応じたように見えたとしても、「意見を変えた」のはあくまで本人です。
「意見が変わった」としたら、それは相手の言葉に「響く」ものを感じたから。
「もしかして」・「あるいはそうかもしれない」
と思う部分が、本人の内側にあったから。
「意見を変えた」ように見えて、
実は「まったく変えていない/変える気がない」場合もあります。
対人関係のややこしさや、集団の大きな流れに逆らえなかったり、
「面倒だから・その場凌ぎ」で、「まあ、今だけ頷いておこうか」ですませてしまう。
これって、誰しも多少なりとも身に覚えがあるはず。
ということで、今回のタイトルです。
「誰かと誰かの事情」。
つまり、あなたには関係のない事柄/事情です(;^ω^)
社会生活をしていると、あちこちで行き違い/勘違い/諍いに出くわします。
通りすがりであれば割と無関係に傍観したり、スルーできたりするんですが、
同じコミュニティの中でやらかされるとなかなか面倒…もとい鬱陶しい…
いやいや「巻き込まれる」こともあったりするわけです。
たとえば家族間での言い合いや喧嘩。
友人同士の行き違いや諍い。
職場の同僚同士の、あるいは上司が絡んだ対立/対抗。
巻き込まれる理由は、
「因果関係を改めてみると、ここでちょっと関与していた」
「諍いの焦点となっている【事柄】に関与している」程度か、あるいは
「諍いの場面にたまたま居合わせた」
「たまたま横を通り過ぎた」、というだけ(;^ω^)
にも拘わらず、現場で唐突に言われたり、
あるいは一段落した後で、詰め寄られたりします。
「あなたはどう思う?」
「これこれこうだけど、そっちが正しいよね?」
人は、誰かあるいは何かに「対抗」する時、自分の「味方」を求めます。
たとえ喧嘩になっていなくても、言い争うほどのことでなかったとしても
自分と「同意」してくれる人を探す傾向があります。
誰かに「同意」してもらうことで「自分の正しさ」が、つまり
「自分は間違っていない」ことが証明される…と思っている節があります。
それが本当に「正しい」かどうかが置いておいて、
世の中って確かに、理不尽に多数決なところがありますよね(;´・ω・)
問題は、こうした場合の「事情」にあなた自身がほぼ、まったく「関係ない」時。
大好きな友達や信頼している上司から、あるいは家族の中の誰かから、
「味方」であることを求められた時に、どうするのか。
そこまで正義感が強くなかったとしても、明らかに先方が「おかしい」と感じた時、
人はいつの間にか「正しいと思う側」の陣営についてしまいます。
一緒になって相手の非を明確にしたり、晒したり。
場合によっては自分から、相手に物言いに出向いたり。
でも、これって実際にやるとかえって拗れます(;^ω^)
一見うまくいったと見えても、後々に妙な影響が出たりすることもあったりします。
だって、この場合の自分はそもそも「当事者」ではありません。
あくまで「無関係な、部外者」です。
さらに冒頭で書いているように、
「人の気持ちを変えることはできません」。
人は、自分の「正義」に拘ります。
固執する、と言ってもいいかもしれません。
中学生の頃と、社会人の時で二度体験したのですが、
前者では祖父母の年代の担任教師に、後者では上司から
向こうが「間違った」ことが明らかになった場で
「でも、この場合はまずそっちが謝るべき」
と言われて唖然としたことがあります。
「べき」が出る時点で相手にとってのルールなわけですが、
そうした明らかに「は?」と思うようなことを
平然と、当然のように口にするのが「個々の正義」です。
ちなみに私の感想は前者でも後者でも同一で、
「話にならない/言うだけ無駄」。
閑話休題。
自分が当事者であれば、もちろん放置はできません。
ですが、当事者であっても
「相手の気持ち/意見を変える」のはまず不可能です。
…部外者が割り込むと、さらに厄介なことになりますよね?
セッションで時々相談される内容の中にも、これに類したものがあったりします。
ご本人はとても真剣に悩んでいらっしゃるのですが、
こちらから見れば、そもそもご本人は「部外者でしかない」。
つまり、どれほど心を砕いたところで「何もできない」。
だって、諍いの行方を決めるのは「当事者同士」だから。
どんな提案や仲裁をしたところで、
「当事者同士」がその気にならない限り、まず解決しないから。
自分が渦中にいたとして、「味方」がいるのは確かに心強いです。
ですが、どちらかの「味方」になったあなたは
もう一方の当事者にとっては「暫定・敵」となります。
「敵側」の人物の仲裁や提案…
実際争っているさなかに、あなたは素直に聞くことができるでしょうか。
…難しいですよね。
むしろ「関係ない人間が入ってくるな」となってしまいがちです。
結果、相手がムキになって「自分側の味方」を求めてしまったら、
かえって収拾がつかなくなってしまう可能性が高いです。
単独でもよく見かけることですが、
人は「味方」ができてしまうと「引っ込みがつかなく」なりがちです。
ある程度頭が冷えて「そろそろ和解…」と過っても、
「味方がいると後に引けなく」なったり、
「その味方に煽られた」り、「引くのは負けだ」と言われてしまい、
気がつけば「当事者の意向」そっちのけで話が進んでいく…
可能性だって、否定できません。
でもってこの「味方」本人も、すでに諍いがどうこうではなく
「自分の面子」や「ここまでやってきたこと」に圧されて
「後には引けなく」なっているだけ…
という場合もあるんじゃないのかな、と個人的には思うわけです。
こうなると、もはや泥沼ですよね(;^ω^)
個人同士の諍いは、当事者同士の問題です。
「感情」でついてきた「味方」はおよその場合、
その「感情」を煽って問題を大きくしてしまいがちです。
だって、「自分たちの方が正しい」から。
「正義は勝つ」べきだから。
その一体感は楽しいかもしれません。
正しいことをしているんだと、充実した気持ちでいられるかもしれません。
でも、「味方」が増えるごとに問題は大きくなります。
「感情」も、集団になるとエスカレートしがちです。
そして、「正しさ」は万人共通ではありません。
時により状況により、その人の立ち位置によって変化するものです。
諍い合う同士が、「どちらも間違っていない」ことだって普通に存在します。
自分に自分の「正義」があるように、相手にも相手の「正義」がある。
折り合いをつけるかどうかは本人同士の問題で、他人には「関係ない」。
各々の「正義」と「正義」が、必ず一致するとは限らない。
一致しなければならないと、決まっているわけでもない。
自分が当事者であっても、十分厄介ですよね。
自分の内側の「正義」ですら、自分でも曲げられない時があります。
それが他人のものとなれば、「どうにかできる」はずがない。
「誰かと誰かの事情」に関して多少なりともできることがあるとすれば
可能な限り感情を廃し、どちらにも寄らない「中立」の立場で
そこから見える「事実」を伝えること、くらいです。
本当に「どうにもならなく」なったなら、
当事者が代理を立てるなり、専門家に依頼するなりして
「和解」の形を探すしかない。
それだって、最終的に「自分の正義」が報われるとは限りません。
「不本意ながら巻き込まれることが多い」と感じる方は、
意識して「中立」を保ってみてください。
大好きな人の「味方」でいることが、「悪い」わけではありません。
ただ、自分は「当事者ではない」こと。
起きたことの結果は、すべて当事者が受け取ること。
だからこそ、当事者にすべての決定権があること。
それを念頭に置いた上で、できるだけ客観的に
「今の状態がどう見えるのか」
を教えてあげてください。
「味方」でいることを求められたけど、別に好きな人じゃないし、むしろ関係ない。
そう思う時も、やはり中立にいましょう。
「当事者ではなく、事情を知らない自分には何も言えない」
という姿勢を、自分の中で明確にしてみてください。
「好み」の言い合いと同じくらい、「正義」の言い合いも不毛です。
何故なら「好き嫌い」も「正しさ」も、
人それぞれで違って当然のものだからです。
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