「自分のために、生きる」ことを始める
「自分のことしか考えていない」「思いやりが足りない」。これ、私がずっと親から言われ続けてきた言葉です。そして、私はこの言葉をそのまま鵜呑みにしていました。つまり、「私には思いやりがない」・「自己中心的である」。ですが今、それに対して「本当に、そうなのかな?」という疑問を抱いています(;´・ω・)かつての私は、劣等感の塊でした。根幹にあった自己イメージが「自分はまともな人間じゃない」・「絶対に幸せになれない」だったことを思えば、むしろ当たり前のことではあるのですがwそして、この自己イメージ…もとい呪いを私にかけたのは、私の「親」です。その言葉を「直接言われた」と明確に記憶しているのは、20代後半の頃。ひっじょうにすんなりと、当然のように受け入れていた…ということを思い起こすと、おそらくもっとずっと前から。それらしい言葉や態度で仄めかされていたか、あるいは自分で記憶から隠蔽しただけで直接に言われ続けていた…のではないかと思います。いずれにしても私は親元を離れ、自分の意志で物理的距離を取ってからも自分に対して「自分はまともな人間じゃない」と思い、自己否定と自己嫌悪、そして自己不信を抱えて生きていました。自分で自分を嫌うことは、当人が意識する以上の消耗を呼びます。精神的にもとんでもない重圧があります。でも、当時の私にとってはそれが「当たり前の日常」でした。「呪い」という言い方を当blogではあえて取っていますが、それは親元を離れて直接言われることがなくなってからも今度は私が、親の言葉を代弁するように私自身に対して同じ言葉を言い続けていたからです。「どうせ私はまともじゃない」「幸せになんかなれるわけがない」。この呪いの言葉は、おそらく親に言わせれば「親心」です。「まともじゃないから、まともにしてやらなければ」と、明白に言われたことがあるのを、覚えています。ですが、この親心は私にとってはただの猛毒でした。「あんたのためを思って」そんな枕詞をくっつけて言われても、当時の私にとっては遅効性の毒を無理やり飲まされるのと変わりありませんでした。家を出て、少しずつ息をするのが楽になってきてそれでも親に受け付けられた「呪い」からは逃げ切ることができず。最終的に自家中毒を起こしかけて行きついた衝動が、「自分の中にあるキタナイものを全部出したい」でした。そのためのツールを探す過程で出会ったのが「レイキ」であり、「日本の神様カード」であり、「アカシックレコードリーディング」です。「自分の片付け」という希望だけを念頭にひたすらレイキを流し、セミナーに行き、スクールに通って数年。それで何をしたのかと言えば、結局のところ「自分という人間をきちんと知ること」だったように思います。自分の中にある「キタナイ」ものは何なのか。自分のどこが「いけない/間違っている」のか。自分はどうして「正しくない」のか。自分はどうして「こう」なのか。何故、私は自分を「そんなふう」に見ているのか。「どうして」そんなことになったのか。過去記事で書いたように、「誰かのため」という言葉の続きにはそれを言い出した人の「都合」が入ります。私を「まともじゃない」と思ったのも、そう決めたのも「親」です。つまり、それは親の考えであり、意向であり「正しさ」です。だからこそ、親は私を矯正しようとしました。「親にとって望ましい」・「親にとって当たり前の」人間に作り変えるために、「親にとってあり得ない/気に入らない」部分に駄目出しを続けました。親の「正義」を私に当てはめて、望む「型」に押し込めようとしました。おそらくは、「親の責任だから」、「その方はこの子にとって幸せだから」という意識で。私の視点で言えば明確に「私の内側にある私自身」を否定し、押し潰して抹殺しようとしました。数年をかけて自分自身を知り、その経緯で自分自身の内側にあるものを認識し、「自分がどんなかたちをしているのか」が見えてきた今。とても、呼吸をするのが楽になりました。同時に、かつての自分がどれほど重いものを抱えていたのか、どれほど狭い、望まない場所に自分自身を押し込めようとしてきたのかがはっきり見えてきました。かつての私は、「自分のために」生きていませんでした。完全に自分を放り捨てて親の言いなりになるには「自分自身」が強すぎ。すべてを無視して「自分自身」として生きるにはかけられた呪いが大きすぎ。幼い頃に繋がってしまった自分自身の過去世からの、とても面倒で重たい影響まで抱え込んだ結果、「親に望まれる人でいたい」自分と「本来の自分でありたい」自分とがとてもアンバランスにせめぎあっていたのだと感じます。ですが、ごく当たり前のことに「親」はただ「自分の正義」を押し付けるだけで、こちらの人生に対する責任は取ってくれないんですよね(;^ω^)未成年の頃であればまだしも成人し社会人となり自分の力で生きていくようになれば、結局、自分に対して責任を取るのは自分です。それは「当たり前のこと」です。たとえ親からの「呪い」が残っていてもそれに支配されていたとしても、自分の人生を引き受けるのは「自分」です。「誰かがああ言ったから」「誰かがこうすべきだと言うから」「こんなことをすると誰かが何か言うから」。「今の自分を見て、誰かがどう思うか気になるから」でも、その「誰か」はけして自分の人生の責任を取ってはくれません。上述の「あんたはまともな人間じゃない」について一度親を問い詰めてみたことがありますが、逆ギレの上で号泣されましたよw「そんなこと言った覚えはない」「自分がそんなこと言うはずがない」。何それ、勝手に「なかったこと」にしないでくれる(;´・ω・)?と、当時は思いましたがw現状、もはや何も言う気はありませんが。自分の人生は、自分のものです。当たり前のことですが、最終的に責任を取るのは「自分」です。つまり、誰かに脅されていたとしても機嫌を取るために誰かの言いなりになったとしても周囲の目を気にして流されたとしても。その時、内心イヤだと叫んでいたとしても。誰かのせいにできたとしても、自分は悪くないと主張できたとしても「自分に起きたこと」や「自分がしたこと」の結果は、自分で引き受けるしかありません。自分自身と、向き合う勇気を持ってみてください。自分自身を、よく見つめてみてください。人が持つマイナスの自己評価の多くは「誰かが、あなたの一部分だけを見て思ったこと」「誰かが、あなたを見て本人なりに解釈したこと」に過ぎません。それを鵜呑みにして自分を「呪う」必要はどこにもないことに。それが本当に「自分にとって/客観的に正しい」わけではないことに。その「可能性がある」ことに、目を向けてみてくださいねw******************************************************◆個人セッション詳細/ご予約はこちらから◆メルマガ「自分のかたちを知っておこう」の詳細/申し込みはこちらから