今日で心遥を死産して1か月が経ちました。

 

まだ1か月しか経っていなんだなというのが正直な気持ちです。

 

妊娠していた時のことが、遠い昔のような感覚になっています。

 

キッチンの近くに心遥のスペースがあります。

 

毎日お線香をあげて、お花を飾っています。

 

時々お兄ちゃんたちがお菓子をお供えしてくれます。

 

心遥の代わりとして買ったくまさんのぬいぐるみを兄弟で取り合うほど可愛がっています。

 

夫と私は遺骨が入れられるネックレスを購入し、いつでも心遥と一緒です。

 

 

ここまでくるのには色々な感情がありました。

 

 

はじめの2週間は悲しみ・苦しみの波が大きく、時には感情の波に飲み込まれ、胸が苦しくなったり、どうやっても抜け出せないような絶望感・罪悪感を感じました。

 

 

けれど、最近は確実に悲しみの感情の波が小さくなっています。

 

 

決して無くなったわけでも、無理しているわけでもありません。

 

やはり時の力なのでしょうか。

 

 

時々悲しみの波はくるけれど、飲み込まれることはなく、その波に静かに身をゆだねる(悲しいときは悲しむ)ような感じで過ごしています。

「あぁ、今自分は悲しい気持ちなんだな。」とか、「悩んだ日々を思い出して苦しくなっているんだな。」「心遥に会いたいと思って涙が出るんだな。」とか客観的に自分の感情を受け止めるような感じです。

 

 

感情と付き合うことが少しだけうまくできるようになってきたのかもしれません。

 

 

それも全部心遥のおかげです。

 

今回のことがなかったら、自分の気持ちとここまで深く向き合うことはなかったと思います。

 

 

そして最近強く思うこと。

 

人生何が起こるかわかりません。

 

 

今生きていること自体が奇跡であり、生かされているんだと思います。

 

 

その中で自分に何ができるだろうかと考えます。

 

 

精一杯後悔しないように生きること、それが心遥への供養になると信じています。

そして火葬の当日、朝6時半に起きました。


もう今日でお別れだと思うと、朝から胸が張り裂けそうな気分でした。

でも最後のお別れまで、母親としてしっかり後悔しないように過ごそうと思いました。


家族みんなで朝食を済ませ、こはるを棺に移す準備をはじめました。


長男がもう一度抱っこをし、2ショットで写真をとりました。

長男には、今日火葬をすること、

コロナウイルスの影響で火葬場にはお父さんとお母さんしかいけないこと、

おばあちゃんと弟と仲良く待っていてほしいこと、

こはるのお骨を持って帰ってくること、

全てを伝えました。

長男は泣くこともなく、「わかったよ。」と言いました。

棺には、こはるが寂しくないようにミッキーのぬいぐるみ、折り鶴、お花、家族それぞれがこはるに書いた手紙、家族写真をいれました。


棺に入ったこはると長男、次男の3ショットも撮りました。


そして夫とこはると私とで家を出ました。

行きの道のりでは、棺の蓋を開けてこはるに空をみせました。

そして、ずっとほっぺや手に触れていました。




予定の時刻より早めに火葬場につきました。




20分くらいしたら中に入れると係りの方からいわれたので、残された時間、車の中で最期の時間を過ごしました。

夫はこはるに触れながら泣いていました。

私も泣いていました。  



2人とも言葉は少なかったです。



6年前に17週で死産をしたとき、我が子の火葬が辛すぎて、もう二度とあんな思いはしたくないと思いました。


6年後再びまた我が子を火葬する日がきてしまうなんて、思ってもみませんでした。



残された時間が刻々と迫ってきました。



今回赤ちゃんの異常が発覚した時、大学時代からの友人の1人に相談していました。

私が泣きながら彼女に電話で赤ちゃんのことを話した日、彼女も一緒に泣いてくれました。


彼女は私の悲しみに寄り添って、いつでも話をきいてくれました。


ある日彼女から、良かったら聞いてみてと送られてきた曲、



セカオワの「rain」



何度も何度もきいていました。



この曲が好きで、最後こはると一緒に聴きたいと思い、流しました。


悲しいけれど、どこか心が温かくなりました。



そして、お別れの時がきました。


係りの方に、我が家の苗字が書かれた部屋に案内されました。


棺を台におき、こはるのお顔をみました。


係りの方「最期のお別れの時間です。」


私「こはる、ありがとう。大好きだよ。」

夫「こはる、ありがとう。」

2人とも涙でぐちゃぐちゃでした。


そして棺の蓋が閉められ、炉に入りました。


「こはる。待っていてね。ありがとう。大好きだよ。ありがとう。ありがとう。」

炉が閉まるまでずっと泣きながら声をかけ続けました。

翌日、夫は少しでもこはるのそばにいたいという思いから、仕事を調整して一日テレワークにしてくれました。

夫が家にいてくれることになり、精神的に不安定だった私はとてもほっとしました。


朝一番、こはるの顔をみて、「おはよう、こはる。」と話しかけほっぺを触りました。

昨日よりさらに冷たくなったこはる。

愛おしさと悲しみが混じった複雑な気持ちになりました。

先に起きていた夫が、すでにこはるのそばに朝ごはん用にパンをお供えしてくれていました。


日中はこどもたちと遊んだり、家事をしたりとやることが目の前にたくさんあるので多少気が紛れていました。



しかし、
ふとした瞬間に尋常じゃない喪失感が襲ってきてました。


胸が苦しくなりました。



こはると一緒にいれる貴重な時間なのに、、、



悲しくて悲しくて涙がとまらなくなりました。



もがいても、もがいても抜け出せないような感覚になりました。




こどもたちだって私がいない間我慢して頑張っていたのに、私がこんなに不安定でいたらこどもたちによくないな、そう思いました。







どうしたらこの悲しみから気持ちを落ち着かせられるのか考えました。



ふと、ある本の存在を思い出しました。



以前少し興味があって手元にあったマインドフルネスの本です。
一年ほど前、自分の思考パターンや性格で悩んでいた時にこの本に出会い救われたことを思い出しました。



今の深い悲しみの苦しさから逃れたくてすぐに本を読み返しました。





そこには、一旦考えること自体をすべてやめて



「今」



に集中することや、


自分の感情を客観的に捉える方法などが書いてあります。




その時の私は、次々とネガティブな思考が思い浮かんでいました。


なぜこんな可愛いこはるなのに人工死産をしてしまったのか、自分の選択は間違っていたんじゃないか、妊娠継続していたら今頃どうなっていたかな、明日にはもう火葬で触ることもできなくなって寂しいな、、、などなど、



ネガティブな思考に歯止めがきかなくなって、脳がフル回転して自分で自分を沈めていることに気がつきました。




そして、思いました。





夫婦で悩みに悩んで出した決断。



どんなに考えても過去は変わらない。



「今」に目をむけること。


今こはると一緒に過ごせる貴重な時間を、泣いて過ごしてばかりじゃもったいない、たくさん話しかけてたくさん触って、できるだけ笑顔で穏やかに過ごすこと

それが何よりも大事だと。


悲しみに溺れていた自分の感情を一歩ひいてみるようにしたら、冷静になれました。




そして、気持ちも落ちついたので、翌日の火葬の際に棺にいれるお花を近所のお花屋さんに買いにいくことにしました。


長男も「一緒に選びたい!」といってついてきてくれました。


昔からある地域密着型のお店で、年配のご夫婦で営まれているお花屋さんです。



お店にはご主人だけがいらっしゃいました。



前回の死産の際にも棺にいれるお花を購入した思い出があります。



お店では、ピンクや白のガーベラやカーネーション、かすみそうなどなど長男と私で好きな色のお花をたくさん選びました。




明日の火葬に使う旨を話すと、

「そうか、、、、、、、家は近いの?」

と聞かれました。


「歩いて5分くらいです。」と告げると、



「僕、これもっていきな。」

と紫のカトレアを2輪息子に手渡してくれました。


ご主人の優しさに胸が温かくなり、うれし涙がこぼれました。
助産師になって早13年の月日が過ぎました。


途中、子宮内膜症が原因のチョコレート嚢胞破裂による片側卵巣卵管の切除手術や2回の流産、

経膣分娩での出産と育児、

17週での子宮内胎児死亡による死産、

不育症の発覚と治療、

再度流産、

中隔子宮を治すための手術、

帝王切開での出産と育児、

そして今回の人工死産



色々なことがあり、仕事から離れていた時間も長いので、実質働いてきた期間は8年くらいです。




助産師になりたいと思ったきっかけは、姉の出産でした。


当時高校3年の夏、将来は看護系に進みたいと決めていました。


そして赤ちゃんや小さい子が大好きなこともあり、助産師の仕事にも多少興味がありました。


そこに、姉の出産のタイミングが重なりました。


姉は、予定日超過で陣痛誘発のために入院した病院で、妹の私が、助産師の仕事に興味があることを担当の先生に伝えてくれました。


そして今考えると、寛大な先生や病院だったなぁと思うのですが、当時高校3年の私に立ち会い分娩をさせてくれました。


姉は促進剤を使って丸2日間陣痛に耐えていました。


姉が痛みで苦しそうな様子は今でも鮮明に覚えています。

でも何をしていいのかもわからず、ただそばで見守ることしかできませんでした。


そしていよいよ分娩室に入り、私も案内されました。
(姉の旦那さんは立ち合いはしませんでした。)



なかなか赤ちゃんがでてこなかったようで、一人の先生が姉の上に跨がり、お腹を押していて、もう一人の先生が吸引で赤ちゃんの頭を引っ張っていて、緊迫感が半端ありませんでした。


17歳の私には、かなりドキドキした衝撃的な状況でした。



その数分後「おぎゃー!!」と元気な泣き声が響きました。



その瞬間、、、、



生命の誕生ってすごい!!



ものすごい感動と、

姉の苦しみがおわって良かったという安堵感に包まれました。



その日から助産師になりたい、生命の誕生に携わりたいと思うようになりました。



そして、高校を卒業し、看護大学をでて、助産師の専門学校に通い助産師となりました。



今までご縁があって、とりあげさせてもらった赤ちゃんは250人くらいです。


いつ、何gの赤ちゃんをとりあげさせてもらったかを自分の分娩台帳に記入しているのですが、時々見返しては、新人助産師だった頃を思い出し、懐かしい気持ちになります。


助産師としてはまだまだ未熟なのですが、やはり女性のそばでサポートできるこの仕事は大好きです。


いずれは妊娠や出産だけに限らず、女性の生涯を通じてサポートできる助産師になりたいと思っています。


私の経験が、いつか誰かの支えになることがあったら、私はとても幸せです。

家に帰ると、4日ぶりにあった2歳の次男が笑顔で玄関まで迎えてくれました。

「ママ会いたかったよー。」といって甘えてきてそばにくっついてくれました。


長男も駆け寄り、「おかえり!」と声をかけてくれました。


こどもたちの明るい声をきき、はしゃぐ姿に、少し元気をもらいました。


長男が、「こはるちゃんは?」と聞いたので、「ここにいるよ。会いたい?」と聞くと、即答で「会いたい!会いたい!」と言いました。



箱を開け、こはるの姿をみせると、
長男「うわーっ!可愛い!小さいね!」ととてもキラキラした目でこはるをみつめていました。



次男も「ぼくも、こはちゃんみたい!」というので一緒にみせました。



まだ赤ちゃん言葉も抜けない次男ですが、「こはちゃん!可愛いー!」と言ってとても嬉しそうにしていました。


義母もこはるをみて、「可愛いね、お人形さんが眠っているみたいだね。とても脳に病気があるなんて思えないね。」と言っていました。



しばらくみんなでこはるを眺めました。



悲しいことですが、火葬までの間は極力赤ちゃんの体を冷さなければならないため冷蔵庫にいれる必要があります。

退院までに夫に冷蔵庫の中身を移動し、あけておくように頼んでいました。


我が家の冷蔵庫の一番上の開き扉は、最近は次男がゼリーや飲み物をとろうとして、頻繁に開けてしまいます。



頻繁にあけることや、他の食品がはいる場所に入れるのは、こはるが可哀想だったので、こはるのお部屋は2段目の野菜室にしようと夫と決めていました。

野菜室の野菜は夫がクーラーボックスに全て移動してくれていました。


そして、ピカピカみがいてありました。

すでにヤクルトやお菓子、アンパンマンのぬいぐるみが入っていました。


そこに、こはるの入った箱をそっと置きました。

そして私はお昼ご飯の時間が近かったため、こはる用にパン粥をつくり、冷蔵庫の中にお供えしました。

火葬まではいつでも会える、そのことがうれしい気持ちもありましたが、明後日には本当にお別れなんだという寂しい思いが込み上げて、その夜はすごくすごく落ち込み、不安定になりました。

夫は私の気持ちを聞きながら、一緒に涙を流し、手を握ってくれました。


夜はこはるのいる一階で家族5人で寝ました。