相手がこう思ってるだろう、と
「私が」考えている。
相手が不快になっているだろう、と
「私が」不安になっている。
相手が怒っているだろう、と
「私が」悲しくなっている。
なのに、
あの人は、この人は、アイツは、旦那は、親は、と、他人ばっかり主語に置いて、わかったつもりになる。腹がたつ。心配してあげてるつもりになる。常識を知れ、礼儀を知れ、ということを植えつけられすぎたのかもしれない。
肝心の、私の気持ちには全然、焦点が当たらない(>_<)
似たような人から、叱られた経験があるから、なんとなく怖いとか、そういうことは確かにあるけれども、また同じひどい目にあう、という確率は低い。
それでも、トラウマになって、症状が出るときは、それだけつらかったんだね。それだけ強烈な体験だったんだね。二度と同じ結果になりたくないという願いなんだね。
その上で。いま接してる人は、全然ちがう人間なんだよ。別人。だからもう同じひどい目にあう確率は少ないよ。そんなに人間不審にならなくても、大丈夫だよ。
たしかに似たような考え方をしてる部分も、何パーセントかはあるかもしれないけどね。そこばっかりみてると、「やっぱりね」「こんな目にばっかりあう」「どいつもこいつも」となってしまう。ごく数パーセントを拡大解釈して、そこだけ焦点があたっちゃう。
(その最中は、拡大解釈してることに気づかないから、苦しいんだよね。)
1を聞けば10を知ったように思う。そういうのが役に立つこともいっぱいあるけど、役に立たないこともあるよ。
本来は、
パズルのピースみたいに、
全部ちがう。
同じ形があったら、困る。
適材適所、みんな役割がある。
他の場所に無理やりハメようとしても、無理。
似ている特徴は、ヒントにするだけにして、決めつけたり断定しないようにしよう。ピースがはまらなかったら、それを無理やりはめようとしてこだわり続けるより、別のところに試してみよう。
それぞれ、自分の場所を探してる。自分の場所は、自分でみつけるしかない。他人の心配をするのは、自分が自分の場所を見つけてからでいい。
他人は、本人が自分で、ちゃんと問題解決していくから。それをあれこれ言うのは、ただのおせっかいでしかない。
夫婦といっても
親子といっても
別々の人間。
自分の感覚を、まず養って、
自分の気持ちを、まず受け止めて
自分の傷を、まず癒して。
主語は「私」にしよう。
動詞は「私の行動」にしよう。
そしたら一気にラクになるよ。
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