映画の骨格を成す場面が抜け落ちると、これほど印象が変わるものなのか。
高山和佳さんがAmazonプライムで配信されていると紹介していたので、『桑の葉』を観た。
ところが、1985年製作の『뽕』をYouTubeで見つけ、改めて観てみると、冒頭だけでなく、同じ筋書きの場面でも演出や出演者が違っていた。
Amazonプライムでは1990年の作品と表記されている。
単なるカット版とも思えないが、二つの映像がどういう関係にあるのか、今のところ分からない。
そこで今回は、アマプラ版を先に観て、後で観た1985年版と見比べたことで分かった違いも含めて書いてみる。
アマプラ版では、こういう映画に見えた
1990年製作の映画とあって、何を言っているのか分からない「方言」と字幕のズレにたじたじになる。
そこにタグ入りの字幕まで登場する。
そして字幕そのものも意訳になっている感じで、慣れるのに大変だった。
韓国映画は慣用句や熟語を多用するし、そこに方言が入ってきたらやりようがない。
字幕ではアンヒョプとなっているが、話し言葉では「アンヒョプ・テク(安峡宅)」と呼ばれている。
これは安峡から嫁いできた女性という意味になる。
安峡は現在の北朝鮮・江原道に位置するので、江原道の方言を使っているんやろうね。
村一番の美貌を持つアンヒョプ(イ・ミスク)の夫サムボは、全国を放浪する博打打ちで、3か月に一度しか家に戻ってこない。
アンヒョプは生活のため、村の男たちに言い寄られるがままに、米や金品と引き換えに身体を売りながら暮らしている。
村の女たちもこのことを知っていて、アンヒョプの前で不満をぶちまける。
しかしアンヒョプは気にせず、男たちを手玉に取り、相手をし続ける。
唯一、ファンさん(ナ・ジョンオク)の下男サムドルだけには身体を許さない。
これに我慢できなくなったサムドルは、サムボが帰ってきたことを知り、彼女の秘密をぶちまける。
怒ったサムボはアンヒョプに殴る蹴るの暴行を加える。
それでもアンヒョプはサムボのために料理を作り、金を持たせて、また送り出す。
これだけを見ると、ヒモのような夫に殴られても蹴られても尽くす女の物語に見えてしまう。
ところが、1985年版には、その印象を大きく変える場面があった。
字幕とポスターから見えてくるもの
1985年版の冒頭には歌が流れる。
アマプラ版では、この冒頭そのものが見られない。
ポスターのサムネを見ると、次のように書かれている。
뽕도 따고, 님도 보고,
인간사 허무한데 뽕 따러 가세…
桑も摘んで、愛しい人にも会って、
人生は虚しいものだから、さあ桑を摘みに行こう……。
右側には、
간다, 간다, 나는 간다, 뽕 따러 간다.
行く、行く、私は行く、桑を摘みに私は行く。
とある。
「桑も摘んで、恋人にも会う(뽕도 따고 님도 보고)」というのは、「一石二鳥」「一挙両得」を意味することわざらしい。
仕事で桑を摘みに行くついでに、恋人にも会ってしまうということだろう。
アンヒョプからすると、「桑を摘みに行く」という言葉は、額面どおりの労働だけでなく、生きるために身体を売りに行くことにも重なって見える。
ところが、1985年版を最後まで観ると、この歌にはさらに別の意味があるようにも思えてくる。
1985年版の冒頭で、映画の印象が変わった
博打打ちのサムボに愚痴りながら、食事の準備をするアンヒョプ。
返事がないので部屋に入ると、サムボは花札を打っていた。
「また全国の賭場を渡り歩くのか」「女でも囲っているのか」と問い詰めるアンヒョプに、サムボは花札の「空山明月(坊主札)」を見せながら、「こいつはどこに行くのか」と言って札を切る。
すると「坊主」はアンヒョプの膝の下に隠れていた。
この札は、日本の密偵や憲兵の監視を暗示しているように見える。
サムボは単なる博打打ちではなく、全国を渡り歩く独立運動家だということ。
さらにサムボはアンヒョプに、こんなことを言う。
「お前が苦労しているのを、俺が分からないはずがないだろう。この瘋癲者が心を入れ替えてこそ、まともな暮らしができるというものなのに……」
そして、我慢してほしいと頼む。
サムボは、自分が日本の憲兵に捕まれば、妻にも危険が及ぶことを恐れているのだろう。
だからこそ、博打に溺れて全国を放浪する男を装っているように見える。
アンヒョプも、夫が背負っているものを察しているのではないかな。
夫の衣服にすがりついて泣きながらも、最後には金を持たせ、「女を囲っているんだろう」と愚痴をこぼして送り出す。
この場面を観ると、彼女が夫に金を渡し続けることにも、独立運動を経済的に支えるという意味が重なってくる。
……と、こんなシーンの後に、なぜか合体。
そらエロと言われても仕方がないわ。
村では、人々が石臼を使った力自慢大会で盛り上がっている。
その横を、サムボは石塚に印を残して峠を越えていく。
すると、日本の憲兵も後を追うように峠を越えていく。
アンヒョプは峠の石塚を眺めながら、涙を流す。
そこへ近所の口利きおばさんが訪ねてきて、「ブドウ畑で男が待っている」と言い、米と引き換えにどうかと持ちかける。
二人が合体するシーンでは、「アリアリ〜、スリスリ〜、アラァリィヨ〜」が特徴の「江原道アリラン」が、なぜか流れる。
ここの描写はエロスそのものなんだが、コミカルでもある。
しかし、この現場を村の人間に見られたことで、アンヒョプの村でのイメージが決定的になる。
アマプラ版では、こうした場面が見られない。
そのため、サムボがなぜ旅に出るのか、アンヒョプがなぜ金を渡して送り出すのか、その背景が分からなくなってる。
一方、アンヒョプには別の生き方を選ぼうとする場面もある。
蚕を飼うファンさんが、「身体を売るのではなく、うちで一緒に真っ当に養蚕の仕事をしないか」と救いの手を差し伸べると、彼女はそれに飛びつき、真面目に汗を流して働く。
しかし、村の連中は好き勝手に、あらぬ噂話で盛り上がる。
同じ筋書きなのに、場面が違う
ここから先も、アマプラ版と1985年版では、同じ筋書きでありながら、場面の描き方が違う。
アマプラ版で語られる二人の馴れ初めは、アンヒョプが酒場で働いていた頃、彼女の方からサムボに惚れたことに始まる。
ところが、アンヒョプが色街に売られることになり、サムボが大金を払って彼女を買い上げた。
その金は博打で巻き上げたものだという噂もある。
そして、アンヒョプは村に嫁いできた。
言ってみれば、サムボが故郷に錦を飾ったということになる。
彼女が村に来たことで、村中の女たちも白粉を塗ったり指輪をはめたり、着飾り始めた。
アンヒョプを真似れば、夫たちが自分にも振り向いてくれると思ったんだろう。
ところが、夫たちは浮気をやめず、妻たちには見向きもしない。
アンヒョプ自身も、幼い頃から貧しさに苦しんできた。
幼い弟妹のためにジャガイモを盗み、見つかったことが、身体を売るようになるきっかけとして描かれる。
そんな中、アンヒョプがチルソン(ハン・テイル)をたぶらかし、彼の妻が持っていた銀の指輪を巻き上げたことで、村中の女たちから袋だたきに遭う。
妻たちのやりきれなさが、アンヒョプへの怒りとなって爆発する。
1985年版にも指輪をめぐる騒動はあるが、場面の構成が違い、女たちがアンヒョプの家を襲撃する。
同じ筋書きでも、見せ方がまったく違う。
そして女たちは、「アンヒョプを村から追い出せ」と男たちに迫る。
ところが、男たちもアンヒョプにお世話になってるので、色よい返事ができない。
それどころか、逆に「立ちションベンもできんくせに黙っとけ」と言われてしまう。
思案の末、村民の代表で科挙にも合格した村一番の秀才、イム長老に相談に行く。
イム長老がアンヒョプを訪ねていくと、彼女は「なぜ自分だけが悪い。不貞を働いたのは男も同じだろう」と言い返し、色仕掛けで煙に巻いてしまう。
挙げ句の果てには、村一番の秀才まで色仕掛けに負けてしまう。
この長老の場面も、二つの版では演出だけでなく、演じている役者まで違っていた。
一方、アンヒョプは、力だけが自慢のサムドルだけは頑なに拒絶する。
男たちを手玉に取っているように見えるアンヒョプだが、誰でも相手にするわけではない。
1985年版では、サムドルが日帝のメタファーのように描かれてると思う。
彼女を相手にしていた男たちは誰も責任を取ろうとせず、村の女たちはその怒りをアンヒョプにぶつける。
村の誰もがアンヒョプを非難する資格を持っているように振る舞いながら、実際には誰も清廉潔白ではない。
それでも、サムドルがアンヒョプと取っ組み合いの喧嘩をした時は、女たちはアンヒョプの味方をする。
こういうところに村の暮らしぶりが見えてくるから面白い。
1985年版の終盤で、もう一度意味が変わる
1985年版では、サムドルがアンヒョプに夜這いをかけたことを、村の女たちが笑いながら話している。
ところが、峠に日本の憲兵がいるのを見て、それまで笑っていた女たちは、サムボが戻ってきたことを知る。
村人たちも、サムボが日本側に監視されるようなことをしていると知っていたのだろう。
舞い戻ったサムボに、アンヒョプは食事をこしらえ、これまでたまりにたまった怒りをぶちまける。
その一方で、生きて戻ってきたことを喜んでもいる。
そこへサムドルが入ってきて、アンヒョプがこれまでやっていたことを告げ口したことから、サムボとサムドルは取っ組み合いの喧嘩になる。
この時、サムボは自分が「満州で活動する戦士」だと正体を明かしてしまう。
喧嘩を止めようとした住民が助けを求めた相手は、なんとサムボを見張っていた日本の憲兵。
しかし憲兵は、「勝手にしろ。俺の任務ではない」と言って立ち去る。
憲兵の目的は村の喧嘩を収めることではなく、サムボを監視すること。
翌朝、アンヒョプはまた文句を言いながら朝食の支度をする。
アマプラ版では、この朝食場面が冒頭に置かれ、アンヒョプが食事を持っていくとサムボは姿を消している。
一方、1985年版では、村の住人が桑の葉の歌を歌う中、サムボが出ていく。
日本の憲兵は、その後を追っていく。
アンヒョプは二人が峠を越えていく姿を、涙を浮かべて見送る。
この見送りまで観ると、冒頭でアンヒョプが夫に金を持たせた場面が、もう一度よみがえってくる。
これは、単なるエロコメディーなのか
本作には続編が作られ、シリーズはピンクモノになっていくらしい。
しかし、第1作の性描写はコミカルなものが多く、ラストの意味深な描写も含めて、私にはあまりエロを感じなかった。
1985年版では、サムボが独立運動家であることが、花札の場面や憲兵の監視、本人の台詞によって描かれている。
アマプラ版では、少なくとも私が観た映像からは、その背景が読み取れなかった。
だから、最初はヒモのような夫に尽くす女の話だと思っていた。
ところが、1985年版を観ると、アンヒョプが文句を言いながらも夫に金を持たせ、涙を流して送り出す意味が変わってくる。
彼女が身体を売るようになったきっかけには、幼い弟妹を食べさせなければならなかった貧しさがある。
そして現在も、夫の不在中に生活を支え、旅立つ夫に金を渡している。
サムボが独立運動家だと分かれば、その金が夫の活動を支えていたようにも見える。
さらに、「桑を摘みに行こう」という言葉が独立運動家たちの秘密の合言葉として使われていたという話も目にした。
その話が事実なら、ポスターに大きく書かれた歌詞にも、男女の逢瀬や生きるための労働とは別の意味が重なってくる。
そして、アンヒョプがサムドルだけは頑なに拒絶する姿も印象に残る。
身体を売って生き延びていても、力任せに迫る男にまで屈するわけではない。
そこには彼女の姿を通じて、民族の意地と誇りがあるように見えた。
だからといって、村の女たちがアンヒョプに向ける怒りまで単純に否定することはできない。
夫たちに裏切られ、彼女を真似て着飾っても振り向いてもらえず、その怒りをアンヒョプにぶつけてしまう。
ところが、サムドルとの喧嘩では彼女の味方をする。
この割り切れなさが、村の暮らしを生々しく見せている。
一方で、二つの映像そのものにも疑問が残る。
アマプラ版は1990年と表記されているが、1985年版とは場面の構成や出演者が違う。
1985年版にあった際どい性描写がアマプラ版では抑えられているようにも見えるので、テレビドラマなど、別の形で制作された作品なのかもしれない。
ただ、調べた限りでは、イ・ミスクが出演したのは『桑の葉』シリーズで第1作のみらしい。
アマプラ版がいったいどういう作品なのか、結局のところ分からない、なんとも不思議な映画やった。
それでも、二つを見比べたことで、自分の中では作品の印象が大きく変わった。
単なるエロコメディーというより、「植民地支配への抵抗」と、女性に対する「支配と不条理の縮図」を描いた文芸ドラマと言った方がいい。
少なくとも自分には、そう見えた。

