1960年代後半から70年代初頭にかけて、ベトナム戦争期の激動の沖縄で、本土復帰へ向かう時代にロックバンドに命を燃やすオキナワンたちを描いた青春群像劇。
本土の人間が沖縄を理解しようとしていた時代ならではの映画。
タイトルの「Aサイン」とは、本土復帰前の沖縄において、アメリカ軍が軍人・軍属に対して「立ち入りを許可(公認)した」飲食店や風俗店に与えた営業許可証「APPROVED」のこと。
映画『宝島』で思い出したので再視聴。
米兵が当たり前のように闊歩する、本土復帰前の沖縄。
サチオ(石橋凌)はロックバンド「バスターズ」のリーダー兼ボーカルとして、与那覇(大地康雄)が営むコザの店で米兵相手に、破滅的でエネルギッシュな日々を送っている。
サチオは、朝鮮戦争で戦死した顔も知らない米兵を父に持つハーフの少女・エリ(中川安奈)と出会って結婚し、子どもを設ける。
しかし、エリに対して時折暴力を振るいながらも、その不器用な生き方から抜け出せずにいる。
そんな中、エリは過酷な現実にあらがうように、のどを潰しながらもバンド「バスターズ」のボーカルとして覚醒していく。
エリの母親・たか子(中尾ミエ)は、そんな娘の姿を厳しくも温かく見守る。
やがて、沖縄に本土復帰の日が決まり、激動の歴史に巻き込まれていく。
1970年代には喜納昌吉&チャンプルーズの『ハイサイおじさん』が大ヒットし、この映画はその延長線上にあったと思う。
私の家の近くにも沖縄の人は普通にいて、大阪の大正から弁天町・西九条、尼崎まで、湾岸工事の出稼ぎをきっかけに沖縄から移り住み、定住した人も多くいた。
この地域には美男美女が多くいたが、同時に激しい差別も横行していた。
まともな仕事にありつけず、自衛隊に入った友人も多くいたことを思い出す。
主演の中川安奈といえば『敦煌』のイメージが強く、この作品が二作目の出演作品にあたる。
当時は「なぜ彼女が主演なのか?」という空気もあった。
でも彫りが深い顔立ちが沖縄の人らしく主演にはぴったりで、しかも英語がなめらかで発音もいい。
それ以上に、劇中のバンドの演奏がしっかりしているからこそ、作品として成立している。
音を聴いているだけで時代感が蘇り、圧倒的なリアリティを感じる。
与那覇(大地康雄)の店で米兵と乱闘になり、営業停止になるシーンがあるが、なぜか被害者は米兵とされ、地元民が加害者に仕立て上げられる。
その時に与那覇が語る、ウチナーンチュ(沖縄の人)の悔しさと惨めさはひしひしと伝わってくる。
これは本土の人間には理解できない感覚だろうね。
ウチナーンチュとアメリカン。
米兵に対するやるせない気持ちのはけ口が、「汚い血」と蔑まれるハーフであるアメリカンに向かう。
支配者であるアメリカには勝てないウチナーンチュが、その血を引くエリを蔑む。
エリはこれを全身で受けるが、これが彼女の原動力になっている。
最初はリズムにも乗れず、音も外し、歌うほどに声が潰れるが徐々にハマっていく。
彼女の苦悩が沖縄そのものを投影しているようにも見えた。
そう考えるとロックって、歌にできない心の叫びなんだろうね。
そして「バスターズ」に入りたいとやってきたサブ(川平 慈英)の「新しいもの」をサチオは受け入れない。
彼は時代の変化を受け入れられないでいる。
そして良太(山本秀史)も受け入れると、今度は竜ちゃん(SHY)が引き抜きの危機に直面し、サチオはさらに時代に翻弄されていく。
そして本土に復帰するわけだで、与那覇が「アメリカから今度は日の丸が相手だ」というが、サチオは「俺たちにとってアメリカも日本も関係ない」という。
ほんの100年前までは琉球だったのに日本人にされて、戦争では捨て石にされた挙句アメリカになり、今度はまた日本人に戻される。
この時代には、彼らのウチナーンチュとしてのアイデンティティは微かに残ってた。
そして本土復帰の1年後のカットで映し出されるのがダンプカー。
これって今の辺野古も同じで、沖縄にお金が落ちる口実になっていて、沖縄らしさが消えていく過程でもある。
残された米軍基地について「いらない」と訴える一方で、実際に賃料で潤ってる人らは沖縄を捨て本土に住んでいる。
サチオ(石橋凌)はバンドを止めてダンプに乗りながらも地元に残るが、ミッキー(浦田賢一)は本土でバンドを続けてるという対比が、今も続く沖縄の歪な現実を象徴しているように見えた。
日本では「沖縄の本土復帰」というが、果たして沖縄の人たちは本当に復帰を望んだのか。
本作は、これを問うた作品だと思う。
