『裸足のギボン』『オアシス』を続けて再視聴して改めて思ったことを、脈絡もなくツラツラと書いてみる。
実際、韓国映画には「国家暴力」「労働問題」「格差」「冤罪」などの“社会の傷”を、娯楽映画の形で外へ出す文化が強い。
韓国では、家族が障害者を外に出そうとしない時代があった。
だからこそ作品として描く。
これは外国人に対しても同じで、韓国映画やドラマでは、不法滞在者も含め、外国人を“物語の背景”ではなく、一人の登場人物として普通に扱うことで、実社会を反映したリアルな存在として描いてる。
映画では、コン・ヒョジン主演の『女は冷たい嘘をつく』では、シングルマザーへの偏見や不法移民、低所得層が直面する現代の韓国格差社会の闇をリアルに描いた。
ドラマでは、パク・ウンビン主演『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』や、パク・ボヨン『今日もあなたに太陽を ~精神科ナースのダイアリー~』など、枚挙にいとまがない。
異物の声を拾う、韓国エンタメの正体
彼らが描く作品の中心には、いつも「異物」がいる。
障害者や社会的マイノリティーは異物であり、その異物の声を必死に拾い、世の中に問いかける。
これが韓国エンタメの正体ではないかと思う。
今年のカンヌ映画祭審査員長パク・チャヌクが、「政治と芸術は分離すべきではないと思う」と語るなかで、こんな話をしていた。
芸術作品に政治的メッセージが含まれているからといって、それが芸術の敵と見なされるべきではない。
同時に、映画が政治的メッセージを発していないからといって、その映画を無視すべきではない。
たとえ輝かしい政治的メッセージを発しようとも、それが十分に芸術的に表現されていなければ、それはただのプロパガンダに過ぎない。
だから私が言いたいのは、芸術と政治は互いに衝突する概念ではなく、芸術的に表現される限り、それらは価値がある
日本映画と“透明人間”
比較するつもりはないが、日本では長らく障害者や外国人などのマイノリティーは“透明人間”として扱われてきた。
30年以上前、鶴橋を舞台にした映画があった。
当時、この地域は「5人に1人が在日朝鮮・韓国人」と言われ、近鉄沿線には沖縄からの移住者や、部落出身者も多く暮らしていた。
しかし、登場人物はすべて”生粋の日本人”ばかりで、地元では「嘘だ」と酷評された。
日本映画でも60年代までは、こうした人々は作品に登場していた。
芸能界やスポーツの世界にも、多くのマイノリティーがいた。
だが70年代以降、次第にタブー視されていった経緯がある。
流れを変えた李鳳宇と崔洋一
その後の90年代に入り、李鳳宇や崔洋一によって、在日朝鮮・韓国人が再び映画で描かれるようになった。
これは崔洋一監督が、自身の代表作となる映画『月はどっちに出ている』(1993年公開) の企画を大手映画会社に持ち込んだ際に、当時の松竹の幹部(一説にはプロデューサーや役員クラス)から言われた言葉として、映画界や本人の回顧で広く知られている有名な逸話として語られている。
1. メジャー映画会社からの拒絶
崔洋一監督が、梁石日の小説『タクシー狂躁曲』 を原作とした在日外国人・在日コリアンを主役とする映画の企画を、松竹をはじめとするメジャーな映画会社(東宝、東映を含む)へ持ち込んだ際、「朝鮮人の映画なんか、金(商売)にならん」とストレートに却下された。
当時の日本映画界には「在日をテーマにした商業映画はヒットしない」という強い偏見と興行的なリスク回避の壁があった。
2. 「シネカノン」による独立プロとしての製作
メジャー大手に断られたこの企画を救ったのが、当時新進気鋭の映画プロデューサーだった李鳳宇(リ・ボンウ)。
李鳳宇が立ち上げた独立系配給・製作会社である「シネカノン」の製作第1号作品として、WOWOWの資金協力(J・MOVIE・WARS)などを得ながら、大手の手を経ずにインディペンデントで映画化へと漕ぎ着けた。
3. 歴史的大ヒットと「リベンジ」
1993年に公開された『月はどっちに出ている』 は、それまでの「暗く重い在日問題」というイメージを覆す、過激でドライ、かつ極上のエンターテインメントとして描かれた。
- キネマ旬報ベスト・テンで第1位を獲得
- 国内の映画賞を総なめにする大ヒットを記録
- 「朝鮮人の映画は金にならない」という前言を完全に実力で覆す結果となった
在日をテーマにした興行的リスクとは
「モランボンジャン 米倉斉加年」でググると、「ジャン焼肉の生だれの初代テレビCMに出演し、大きな話題を呼びました」あるいは「CMなどでお茶の間に親しまれた」といった説明が出てくる。
確かに“話題”にはなった。
だが、その「話題」の実態は、凄まじい排外主義とバッシング、そして米倉斉加年さん自身が背負わされた過酷なリスクだった。
今では、日本で最も食べられている漬物は「キムチ」だとも言われている。
しかし当時は、「焼肉」という食文化こそ普及し始めていたものの、それが「朝鮮半島の文化」であることを公に示す行為は、激しい差別意識によって忌避されていた。
「キムチ臭い」「ニンニク臭い」と嘲笑され、朝鮮文化そのものが嫌悪の対象にされていた時代である。
俳優・演出家で知られる米倉斉加年さんは「モランボンのジャン」のCMで、モランボン創業者である全鎮植氏の求めに応じて、朝鮮の民族衣装であるパジチョゴリを着て出演した。
1979年当時、「朝鮮」を正面に掲げたこのCMは、凄まじい差別とバッシングの嵐に晒された。
米倉さんが受けた仕打ちは凄まじいもで、決まっていた仕事を次々と降ろされ、メディア出演も断られ、“朝鮮人の味方をする者”への兵糧攻めのような状況に追い込まれていった。
その影響は家族にも及び、子どもは学校で「チョーセンジン!」といじめられたことから、「私の家は朝鮮人なの?」と尋ねたという。
しかし米倉さんは、「そうだ、朝鮮人だ。朝鮮人で何が悪い?」と毅然と答えたと言われている。
福岡生まれだった米倉さんの身近に、在日朝鮮人がいたことは想像に難くない。
後年、辛淑玉さんのインタビューで当時を振り返り、こう語っている。
あのとき、このコマーシャルはただ焼肉のタレの宣伝ではない、社会意識への挑戦であり、文化を伝える作業だと認識していたのは、全さんと私と、あなた(辛淑玉さん)だけだったかもしれませんね。
『パッチギ!』に見る、異物の青春
『月はどっちに出ている』の成功を機に、日本映画界における「在日コリアン」や「多国籍」をテーマにした作品の潮目が大きく変わり、後の『GO』(行定勲監督、2001年) や、崔監督自身のビートたけし主演『血と骨』(2004年、松竹配給)などの大作へと繋がっていく。
そしてその集大成と言っていいような作品が、2004年の井筒和幸監督による『パッチギ!』。
京都朝鮮高校を舞台に、在日朝鮮人の若者と日本人女性のラブロマンスを軸に描いた、国境を超えた青春群像劇。
松山猛の自伝的小説「少年Mのイムジン河」をモチーフにしていて、タイトルの「パッチギ」は、朝鮮語で「突き破る、乗り越える」「頭突き」を意味している。
主人公のリ・アンソン(高岡蒼佑)は、井筒監督の友人で帰国した実在の在日朝鮮人青年をモデルにしている。
そして作品のメインソングとなっている「イムジン河」は朝鮮歌謡で、臨津江(림진강:リムジンガン)といい、作詞は朴世永、作曲は高宗漢。
メロディーも松山猛のそれとは違い、これがややこしい政治問題となった。
キネマ旬報ベスト・テン第1位、ブルーリボン賞作品賞など受賞した本作だが、拉致問題の社会的背景がかつての朝鮮人嫌悪を呼び起こし、保守層から「北朝鮮寄り」「親北映画」という激しい非難やレッテル貼りを強く受けた。
また井筒監督発言スタイルも批判の対象となり、続編の『パッチギ! LOVE&PEACE』では「政治的バッシングやイメージ低下を恐れた、沢尻エリカや塩谷瞬など前作の俳優陣が、事務所の方針や本人の意向で出演を拒否したのではないか」という噂が囁かれた。
実際は井筒監督と製作陣のオーディションによる、「新人抜擢の方針」によるものだったが、「大ヒット作の主要キャストが続編で全員交代する」という極めて珍しい作品になった。
ちなみに続編の舞台は東京に移され、モデルは東京朝鮮中高になり、相手は国士舘高校・大学なんだが拒否された。
大阪なら大阪朝高で相手は近畿大学になる。
実際になん度も乱闘があり、警察沙汰にもなっていた。
高校生相手に、「大学のスポーツ部が凶器を持って襲撃」という見出しがニュースを賑わしていた。
『国宝』に見る、異物の生存戦略
この後、ふたたび在日は透明人間になるが、新たに映画で脚光を浴びることになったのは、昨年公開された李相日監督の映画『国宝』。
日本のメディアでは、伝統芸能である歌舞伎への深いリスペクトと、日本文化への賛辞として高く評価されたことになってるが、私たちは違うと思っている。
『国宝』評価では、任侠の一門に生まれながらも、歌舞伎の世界に飛び込んだ主人公が、国の宝(人間国宝)へと登り詰めていく半世紀に及ぶ激動の人生を描いてる、になってるが、やっぱり違うと思う。
「任侠の家」を「在日朝鮮人の家庭」に、「歌舞伎界」を「日本人社会」に置き換えると、まったく違う物語が見えてくる。
在日朝鮮人が、日本人社会で受け入れられて生きていくことを”選択した”物語になる。
歌舞伎というのは、どんな悪事を働いても伝統という一言で処理され、身分は侵されることがない。
しかも世襲で、本人の努力は関係ない出自そのもの。
ここに在日朝鮮人(任侠として)が飛び込んでいくという作品で、それは李相日監督の自身の人生とも重なって見える。
要は、マジョリティ(日本社会・歌舞伎界)のシステムに、圧倒的な異物(在日・任侠)が侵入し、同化・超越していく戦いの物語である。
”普通には生きられない人間”が、生存をかけて別の世界に飛び込むしかないという鬼気迫る切実さを、李相日監督自身がかつてインタビュー等で語ってきた「在日として日本で映画を作るということ」を体現していて、血筋を持たない人間が、その世界の最高峰(国宝)に登り詰めるという物語。
私が韓国映画を観る理由
話は強烈にそれたが、脈絡もなくツラツラと書いてみて、私が韓国映画、特に諸外国の史実物を好んでみる理由が分かった気がする。
それは、異物を通じて“社会の傷”を描いてるからだと。
在日という現実世界の『自分』を、映画の中の『異物』に投影しているということ。
ちなみに、ここまで語っておいて、国宝はまだ観ていない。
というオチとともに。



