マリのティンブクトゥを舞台に、イスラム過激派の抑圧下で生きる人々の日常と悲劇を描いた作品。
物語は淡々と進み、それが救いであると同時に理不尽さも感じさせる。
音楽、笑い声、煙草、サッカーさえも禁止され、外部の人間には理不尽に映る。
厳格なシャリア(イスラム)法を強いる過激派だが、元々この地域の部族がそうした文化を持っていたわけではないだろうか。
日本の例で言えば、数十年前の昭和では問題にならなかった女性への言葉が、今では重大な問題になるように、常識は時代や場所で異なる。
だからこそ、自分の価値観で判断せず、一歩引いて見るべきだと思う。
フランス映画ゆえ、外部の視点が強調されている点も意識して。
ジハードを「修行」と呼ぶ現地の認識も、外部の人間には異質に映るが、彼らの置かれた状況や背景を考える必要はあると思う。
物語の中心は、漁師と遊牧民キダンの衝突。
漁師がキダンの牛を殺し、少年が「牛に水を飲ませようとしたら群れから外れて殺された」と報告するが、キダンの言葉では主語が抜け「牛が殺された」となってる。
そしてキダンが漁師を訪ね、口論の末、漁師を殺してしまうが、元々確執のあったように見える。
この罪の代償は「牛40頭」、さもなくば死刑。
だが、キダンは7頭しか持たず、死刑を免れない。
この悲劇は、過激派の支配が地域の因習や個人的な対立を増幅させた象徴となっているが、過激派とは直接関係ない。
フランス映画として「過激派の悪」を印象付けたいという意図が感じられるが、むしろ地域の因習や個人的な対立が引き起こしたものではないかな。
そもそも言語にしてもバンバラ語、フラニ語、ハッサニア語、ソニンケ語、トゥアレグ語など、多くの言語が共存するマリは、フランスの植民地時代に国境を好き勝手に引かれた影響で、文化が複雑に絡むことになったのではないか。
言ってみれば、今の不安定な状態はフランスのお陰とも言えるわけで、フランスが自分目線で「ドヤ顔」で語るべきではない。
とは言っておきたい。
ただ、ラストはちょっと分かりづらかった。
やはり外の人間からすると同じ様に見えるので、ましてや衣装も同じなので色を変えるなどの工夫は欲しかったかな。