終演から帰宅まで3時間弱、いつも思うんですが、この会場は本当に遠い・・・。それでも、今日は素晴らしい「春の祭典」を聴くことが出来、行って良かったと言う思いで一杯です。さすがに疲れましたので、詳しくは明日(以降)書かせて頂きますが、今日聴かせて頂いた「春の祭典」は、飛び抜けて高いレヴェルにある演奏でした。児玉桃さんをソリストに迎えてのモーツァルト/ピアノ協奏曲第23番は、楽章によって出来不出来があったと思います。その原因の一部はオケ側にあったのではないかと思いますし、また、それとは別に、聴衆にも気になることがひとつありました。それも明日以降書かせて頂きます。
以下、追記。思い出したことから。
2曲目のモーツァルト/ピアノ協奏曲第23番、1曲目が終わって団員が一旦舞台袖に掃けたんですが、再入場の前、その舞台袖の扉が準備のため開いたり閉じたりの最中に、でっかい音でフルート奏者が第1楽章の主題を吹くのが聴こえて来まして、その方の慎み深さの欠けた行いに、正直呆れてしまいました。これから、あの穏やかな主題が弦~管にと移って行く、そんな素敵な演奏が聴けるんだなと言う想像をしながら楽しみに待っていたんですが、本当にでっかい音で会場に聴こえるように・・・。わざわざ「予告編」をでっかい音で聴かせなくても・・・と恨みました。これで完全に雰囲気がぶち壊しになってしまいました・・・。「中途半端なアメリカン・スタイル」と言う入場の形を採っているこの楽団ですが、舞台上でも舞台袖でも、普段ではオカシイと思うようなことも、「慣れ」によって麻痺してしまっているんでしょうかね。舞台上でも大声で話をしたり大笑いしたり・・・。緊張感が欠けていると思いますね。確かに演奏自体は素晴らしいのでしょうが、インターヴァル時の舞台上や袖で、平気でこういう所作をするのは「プロ失格」だと思います。こういうのを「恥ずかしいこと」だと思ってもらわないと、本当にすべてがぶち壊しです・・・。
さて、弦の編成は1stvn・2ndvnともに10人ずつとコンパクトな形となりましたが、この楽団の弦楽器奏者は非常に優秀なせいもあってか、この人数でも音がぶ厚く、強い意思を以って聴こえて来るんです。例の冒頭の主題は意思統一が十分にされ、心に響いて来たんですが、それも束の間、ピアノが入って来ると、それがウザったく・邪魔なように=自己(オケ)主張が強すぎるように聴こえてしまうんですよね。児玉桃さんのピアノは、弱音に格別の気を遣いながら、繊細な演奏を心がけていたのだと思いますが、それをオケの音量自体や、また音符に込められた「意味合い」がピアノを超えてしまっていたんですよね。秋山さんがかなりの頻度で音量を抑えるような指示をしたり、あるいは桃さんがオケの方を向いて「もう少し弱く(と訴えているように私には思えましたが・・・)」と言うような目くばせや表情も、団員にはあまり伝わっていなかったようです。また、オケが秋山さんの振るテンポのだいぶ前方に行ってしまい、テンポ的にも幾分ギクシャクしてしまっていた、そんな感じで終わってしまった残念な第1楽章だったように思います。第2楽章も似たような感じでしたが、曲がゆっくりですので、テンポの面ではあまり気にはなりませんでしたが、やはりオケ側の主張がかなり強かったですかね。そして最後の音が止むか止まないかと言う時、客席からこれまたでっかい音での「咳」が、静寂をぶち壊してしまいました。これもかなり酷かったと思います。すぐさま第3楽章に入ろうとした桃さんもびっくりしていたようで、案の定、弾き始めた主題が転んでしまいまして、これもちょっと聴くに堪えない感じの演奏になってしまいました。この主題は何度か出て来るんですが、その度に全てミスタッチになってしまっていまして、桃さんらしくない演奏になってしまいました。こういうのを「トラウマ」って言うんでしょうか・・・。オケもこの楽章はアンサンブルの精度が格段に落ちていて、かつテンポも前のめりで、さすがの秋山さんも手の施しようのない状況のように見え、この組み合わせではちょっと考えられないような不出来な楽章になってしまっていたように感じました。演奏時間もそう長い曲ではありませんので、アンコールを期待していたんですが、やはりこういう状況からなのか、ありませんでした。まあ仕方ないですね・・・。いろんな出来事が重なってしまい、ちょっと期待外れの協奏曲となってしまいました。
一方、後半の「春の祭典」、これは相当な名演と言えると思います。弦も1stvnが8プルトあったりで、ボリューム的にも迫力がありました。秋山さんの指揮を初めて正面から拝見したんですが、今まで抱いていた印象とはちょっと異なり、明確な打点に依るわかりやすさは当然ですが、その中に十分「ニュアンス」が含まれているのがわかり、(当たり前ですが)単に機械的(機械のように・・・)に振っている訳ではないと言うことが非常に良く聴いている(観ている)側にも伝わって来ました。例えばデュナーミクにおいても、単に音量の目盛がある(デジタルな感じ)ような感じではないと言うことなんですよね。音楽にも「なだらかな段階」があるんだと良くわかるような熟達した指揮ぶりでした。判りやすいのに深い、そんな秋山さんの指揮に乗っかったオケも、個々それぞれの「自意識過剰気味」なのがプラスに働き、非常に有機的・連関的な音の重なり合いから、充実した音楽が発せられていたと思います。この音楽は確かに「バレエ音楽」ではあるんですが、この日の演奏は明確に「純音楽的」な持って行き方をしていたように思いますが、果たしてその意図が聴き手にも十分に伝わって来ました。そういう持って行き方も十分「あり」ですし、それをライヴで聴かせきった稀有な演奏でした。多少ホルン群の出来(特に音程)にムラは感じたり、金管が突出しすぎるような(抑えるところはもっと抑えても良いかなあ・・・)バランスの悪さも感じはしましたが、まあそれはそれとして、個々の能力が相乗効果として十分に発揮された素晴らしい「春の祭典」で、大変貴重な体験をさせて頂きました。

