まあ阿蘇というか、盛川自体がY口組とズブズブの関係であったし、神戸で一本独鈷で通しているCH会のO会長とは幼馴染の義兄弟のような関係でもあり、そんな盛川の組織に属していた私は半ば反社のようなものであったのかもしれない。










平成9年に起きたY口組若頭射殺事件はあまりにも有名で、当時は実行犯はN会ということでN会長が破門絶縁処分を受け、後に元Y口組系組長の出版した書籍により当時のY口組五代目組長が深く関わっていたために名古屋から引退を迫られたことが数年前に明かされたわけであるが、私はこの事件があった当日に盛川からこの事実を聞かされていた。









それだけ阿蘇は限りなく組織に近い存在であったのだ。








金谷と河本にしても、今の神戸Y口組、いわゆるYK組に常に出入りしており、その恩恵で飯を食っている感はあった。








ヤクザも新法でがんじがらめにされ、堅気と共栄共存というよりも、堅気に媚を売らねば凌げない時代になっており、それには阿蘇グループのように構成員ではないが黒いというかグレーというか、アングラ的に頭を働かせて大きな計画を持って展開している企業との付き合いは重要だったに違いなかった。








この時期、神戸三宮の繁華街を歩けば、どこからともなく「ご苦労様です!」という挨拶をひっきりなしに掛けられたものだった。








こちらは別に阿蘇のバッジをしていたわけでもないのであるが、ヤクザの情報力はかなり高く、私が阿蘇グループの幹部であることは知れ渡っていたのだろう。








確かにこの時期、阿蘇グループの屋台骨を支えていた自負もあるし、知らぬ間に顔が売れていたのかもしれない。








盛川や金谷そして河本らが組関係者に対して私のことを、あいつは医者だが変わり者だ、ヤクザの娘と政略結婚したかと思うと金銭的な約束が守られないからと言って平気で破棄してやがるし、手形パクられて3ヶ月で1億かき集めよった、しかも取り立てに行って人を焼き殺しよった、それでもパクられずに平然としとる、それでなぜか阿蘇に入ることになって、やたらと資金集めで活躍してやがる。







こんな風な流布があるため私を一目見ようとやって来る組関係の幹部も多かったし、実際スカウトされたこともあった。


「キミやったらええヤクザになれるで!」


という言葉をかけられるのであるが、新法に縛られているヤクザには何の魅力もなかった。








この頃の私は阿蘇グループにいることが非常に心地よかったのだと思う。