以前、リイド社の仕事で「支倉常長」の読み切りを書いたのですが、その際、資料の一つとして『侍』を読みました。
いや...読んだつもりになっていたのかもしれません。今回あらためてこの小説を読み直し、また、愕然としました。「こんな話だったっけ....?」って....まったく、自分の記憶のいいかげんさがイヤになります。
短時間でいろいろな資料を頭に詰め込んだので、自分で勝手に別のストーリーを作り上げていました。読み直してよかったです。
この小説は遠藤氏のフィクションとして書かれています。
史実に関して残されている資料が少なく、作家が想像力を駆使しなければ書けないものだったのでしょう。
1)支倉常長 → 長谷倉六右衛門
ソテロ → ベラスコ (宣教師、ローマまでの案内人)
フランシスコ会 → ポーロ会
イエズス会 → ペテロ会
2) 1613年、慶長遣欧使節団は徳川家と伊達家の合同で計画された。大坂夏の陣(1615)の以前で豊臣家はまだ存在していたので、秀吉のバテレン追放令は続いていたはずだが、伊達家は、または徳川家は、なぜエスパニア(スペイン)と交渉をしようとしたのか? イエズス会の宣教師は九州各地に潜伏していただろうし、それと貿易をしている西側(豊臣側)の大名を恐れていたのか?
3)目的はガレオン船の造船技術と太平洋の航路の航海術を盗むこと。その証拠に、使者達のほとんどがノべスパニア(メキシコ)までの航海で、日本に帰っている。
4)召出衆という身分の低い長谷倉たちを使者に出すことで、
初めから交渉の成功など望んでいなかった。失敗した時のことを考えての人選か?
5)物語はベラスコ(宣教師)の視点で描かれ、彼のキリスト教団に対する野望と、それとは裏腹に、主(キリスト)に対して、ベラスコが自分自身の行動が正しいのかどうか、何度も深く独白するシーンが続く。
6)ドストエフスキーの『大審問官』を思い起こさせるシーン。遠藤氏の『沈黙』でもあったが、この『侍』でも似たようなシーンがある。それはローマでのベラスコとヴォルケーゼ枢機卿との対峙のシーン。イエスが説いたプリミティブな教えを主張するベラスコ。教団として、組織として出来上がってしまった教会を守ろうとするヴォルケーゼ。
7)望んでもいなかった洗礼を受ける長谷倉。
目的を果たせず、帰国して、そこに待っていたものは.....
8 )この旅を最初から最後まで苦楽を共にした与蔵が長谷倉に
かけた言葉『ここからは、あの方がいっしょに参ります...』
9)ベラスコは禁令を破って再び九州へ上陸。そこで聞いた長谷倉の運命。
『沈黙』より後に書かれたこの小説。私は『侍』の方が一般的に日本人がキリスト教に対する皮膚感覚や見方がよく表されていると思います。
どんな宗教にも言えるが、教団、組織として大きくなり、時を経ていくと、どんどん変わってしまう。元々はなんだったのか
深く考えなくてはなりません。