この10年の詩の傾向
佐藤雄一は、言葉を自由に脱臼させ、舞踏させることで、
言葉をインファンスに漸近させることが特徴であると語って
いる。
文体の表情が想像界の内向きなテクスチャーではなく、
想像界のヴェールすら透かし、世界にこれからも組み込
まれず、逆に世界を書き直すような彼方の光を孕ませる
こと。
いまここに不在である顔が浮上してくる兆候として表情
を読むとる「極細な差異」。それを慎ましさというか、ラディ
カルなアナーキーというかは別にしても。
それは、たとえば、鳥居真由実の詩集『遠さについて』の
なかの
「物語は崩壊していない、それは鉄つぶてのように重くなり、
人間の体に入りこんだのだ」
「あなたは忘れていた記憶を想い出します」
という詩行に見られる一語一語の儚い揺れにおいて先鋭
的に示されているのかもしれない。
蜂飼耳は、「詩の方法とはこういう書き方だと作者が思っ
ているそこを、一行ごとにどう打ち壊していくかみたいなこと
が、さらなる詩の通路を開く」と語っている。
90年代以降、インターネットが、地理的、時間的な距離を
超えていこうとする中で、ある種の言葉へのオプティミズム
が漂流してきた。
しかし、一方で、私という主体がどこにあるのかという疑念
とともに、人間の根本としての身体がクローズアップされて
きた。
蜂飼耳は、「自分が生きてきたなかで、経験として持って
いる語彙」で物語の空間を作ろうとしている。存在するもの
の全体図として。