禅河無一滴 | 哲人クニちゃんのブログ

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あさきゆめみしゑひもせす

2024年 ( 令和6年 ) も半年が過ぎ
後半がスタートしました。

七月になりましたが
現在の七月は大体 旧暦六月です。

旧暦六月の別称に
風待月 ( かぜまちづき ) があります。

酷暑の中、
ひたすら風が吹いてくるのを待つ月という意味で、
「 風待月 」という異称が生まれました。
きっと、かすかな風にも敏感になっていたことでしょう。

旧暦の時代は、
温暖化が進む現在よりは
涼しかったと思われますが、
冷房もなかったわけですから、
暑さをしのぐのが
どんなに大変だったか察しがつきます。

今日の記事は電脳筆写
『 心超臨界 』
というサイトに載っていた記事の紹介です。

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禅河無一滴 ( ぜんが いってきなし )

『 生きるための杖ことば 』

( 松原 泰道、全国青少年教化協議会 ( 2001/04 )、P202 )

「 川は海に向かって流れます。
川が私たちをつれていってくれます。
川といっしょに溶けるだけでいいのです。
何よりも、よどまないこと、
前進する生命 …… 前進です 」
とロマン・ロランは言う。

川には水があってこそ
川の機用 ( はたらき ) を果せるはずなのに、
「 禅河一滴無し 」といい、
この語はさらに
「 是為禅河深 ( 是 ( これ ) を
禅河 ( ぜんが ) の深さと為 ( な ) す )」とつづく。
禅という名の川には一滴の水もない。
水のないのを禅の川の深さとする ―― という。

 

 




枯山水 ( かれさ ( せ ) んすい )・涸山水 ( こせんすい ) といわれる
池水も草木もない庭園がある。
中国の宋 ( そう ) や明 ( みん ) の時代の
山水画の影響で生まれた築庭方式で、
わが国には室町時代に輸入され、
京都の龍安寺 ( りょうあんじ ) の「 虎の子渡し 」や、
大仙院 ( たいせんいん ) の庭などが有名である。
石組みや、砂や小石などで「 水 」を表す。
文字どおり「 無一滴 」の川である。

 

 




「 禅とは、こころの名である 」と、
14世紀の中国の
中峰明本 ( ちゅうほうみょうほん ) 和尚は禅を定義する。
したがって禅河は地上の川ではなく、
わがこころの流れを指していることがわかる。
しかもこのこころは、
いわゆる感情のままに流れ、
変化の多い感性ではなく、
感性の底に秘められている
根元的な本来のこころ ( ほとけのいのち ) である。

一滴の水も無いとは、
本来のこころは空であり、
無一物である事実を示す。
空であり、無一物であるから、
このこころの流れをさえぎるものは何一つない。
自由に活動できる。
その活動は平面的な長さや幅ではなく、
深さである。

 

 




目に見える存在は、
その成立の点からいえば、
種々の要素から構成されているので、
川なら川という独立の存在はない。
これを本来は空であるとも、無一物ともいう。
この空、無一物の禅のこころを表象したのが
枯山水の庭である、といえよう。
人間の奥底に埋みこめられている
表現の出来ない本来のこころが、
山水に象徴されているとみる禅の発想を、
ことばにしたのが「 禅河無一滴 」といえよう。


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おまけの画像は明石駅周辺の草花

7月 3日 ( 水曜日 ) 撮影

明石駅前の花壇

 

 




暑いので立ち止まって見ている人はあまりいません

 

 




色いろな花が咲き競っています

 

 




 

 

駅の東、
再開発ビルのアスピア明石の前の寄せ植え

 

 




 

 

花壇ではないのですが
道端にアガパンサスが咲いています

 

 




 

 

おまけの動画は
森山 加代子 白い蝶のサンバ

リリースは1970年 ( 昭和45年 ) 1月 25日
1月の時点では私は小学5年生
4月から6年生です。
関係ないですが、1月 25日は私の誕生日です。


YOUTUBE ⇒ こちら
 

 

 

 

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