こんにちはurahaです。

 

暑かったり寒かったり三寒四温ですね。

 

皆様もお体に気を付けてお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(現代の柔道は明治時代の柔道に比べレベルダウンしている?!)

 

 

 

 

 

私が30代後半で柔道を習っていた時のことです。

 

高校の体育の授業で柔道をかじっていただけの私は

 

超有名柔道強豪校のOBの先生が指導する柔道教室で苦労していました。

 

先生は山下泰裕氏とも一緒に稽古した本物の実力者です。

 

3歳の息子が保育園でいじめにあっていたので柔道を習わせたのです。

 

「いやあ、3歳はチョット親御さんが一緒じゃないと無理かな。」

 

そう言われたので一緒に柔道を始めたのですが・・・

 

おじいちゃん先生達に可愛がられ息子は直ぐに柔道場に適応しました。

 

ところが私はというと小学生相手の乱取りが嫌になっていたのです。

 

先生からの厳命で

 

「決して手加減してわざと負けたりしてはならない。」

 

「子供が柔道かじったくらいで大人に勝てると勘違いしたらそれはとても危険なことだ。」

 

と言われていたので

 

技の無い私は力ずくで投げていたのです。

 

小学生でも、レベルの低い大人に力だけで投げられるのは不快なものです。

 

口にこそ出しませんが顔が言っています。

 

「ただ身体がでかいだけじゃないか!」

 

もう息子は一人で大丈夫だったので中学生の部に移してもらいました。

 

中学生ともなると今度は私より体格の良い子もいてパワーでは歯が立ちません。

 

筋トレして差を埋めたくても筋トレの量をこなす体力自体で負けているので

 

もはや手遅れ、永遠にパワーでは勝てないと悟りました。

 

小学生と中学生から学んだことは

 

”私は理にかなった技を追究したい”

 

”私には理にかなった技を追求するしか道が残されてない”

 

という事でした。

 

そこでまず研究したのが受け技です。

 

10代の頃習った空手の先生が超人的な受け技の使い手だったのです。

 

正確には受け返しの達人ですね。

 

一般的には待ち拳と言われているものです。

 

それは受け返しが進化して究極のカウンター”先の先”になっていくものでしたが

 

何故か?

 

進化の先にあるカウンターより

 

進化のもとである鉄壁の受けの方が

 

修得が困難な面があるようです。

 

ちなみに空手の世界でも受け技を

 

急所攻撃でも何でもありのフルボッコの自由組手で

 

完璧に使いこなせる達人は極めて稀で

 

先生は私の知る限り唯一無二の存在でした。

 

驚いたのは現代の柔道にはなんと

 

受け技が無い?!

 

のですね。

 

むしろ受けに回ると𠮟られるのです。

 

”攻撃は最大の防御なり”

 

という金科玉条を本気で信じ込んでいるようでした。

 

私は空手で受け技の恐ろしさを身体に叩き込まれていたので

 

個人的に密かに柔道の投げに対する受け技を開発したのです。

 

 

個人的な感想では

 

柔道は打撃の空手に比べ

 

受け技の習得はすこぶる容易です。

 

空手の順突きは0.03秒程で拳が顔面に衝突しますが

 

柔道の投げは早く見積もっても

 

背中が地面に衝突するまで0.3秒はかかるからです。

 

柔道家は身体能力のエリートが多く

 

単純な運動スピードはフルコン選手より速いくらいだったのですが

 

投げ技の構造が時間のかかる構造なのです。

 

 

 

 

柔道の受け技を開発してからは中学生どころか

 

何と!!

 

七段の先生や県内最強レベルの実業団柔道の大男たちの投げも

 

完璧に防げるようになったのです。

 

皆さん(有り得ない!)とビックリされていました。

 

ちなみにこの段階では私は攻撃はてんでダメでしたが。

 

 

ある日何か月も来なかった常連の

 

実業団重量級県内最強レベルの方が久しぶりに見えました。

 

コテンパンに投げられたのです。

 

「白帯のあなたが投げれなくてずっと悩んでいました。

 

 基本を見直そうと思い嘉納治五郎先生の本をずっと読んで研究していたのです。」

 

晴れやかにそういった彼はそれきり二度と道場に来ませんでした。

 

私は早速図書館で嘉納治五郎先生の本を借りまくり読みまくったのです。

 

そこには現代の競技柔道とは全く異なる柔道が書いてあったのです。

 

「現代の柔道は私の指導していた柔道とは違ってしまっている。

 

 取り急ぎ修正してほしい点は2点である。

 

 一、掴まないこと

 

 一、正面に立たないこと

 

 掴むというのは

 

 初心者が柔道の型を覚えやすいように私が便宜上開発したもので

 

 上級者が乱取りでやってはならない。

 

 実戦で掴んだりしたら自由なる進退が失われ力の強い大きい相手に負けてしまう。

 

 よしんば掴んだとしても投げる一瞬だけである。

 

 正面に立ったりしたら拳闘家と戦ったら一撃で倒されてしまう。

 

 相手の外側斜め45度から接近するのである。」

 

 

 

これだけでもびっくりですが

 

古流柔術の極意が明治時代の柔道には伝承されていたのです。

 

嘉納治五郎先生は古流へのリスペクトに満ちていました。

 

波状の浮木の位(はじょうのふぼくのくらい)

 

水上の胡芦子(すいじょうのころし)

 

大舟は水に浮かせ

 

などなど

 

嘉納治五郎先生の極意は八方の崩しです。

 

「崩して相手が崩れたら掛ける。崩れなかったら掛けない。

 

 これを徹底すること。」

 

です。

 

「押さば引け。引かば押せ。」

 

も戦略的には明らかに待ち拳です。

 

明治時代の柔道は攻撃拳では無かったのです。

 

明治時代の柔道は待ち拳だったのです。

 

加納先生の直弟子で達人と呼ばれた西郷四郎氏も

 

得意技は”猫”別名”毬身”という受け技でした。

 

明治時代の柔道は

 

武道の本分である高度な待ち拳の伝統を受け継いでおり

 

攻撃拳と切磋琢磨し合い

 

互いに螺旋状に発達し

 

実戦で使えるレベルまで高められていたのです。

 

 

 

本来”武”とは

 

侵略者の”暴力”

 

に対する防衛側の対抗手段を意味する言葉と言えます。

 

良く

 

「暴力に対しても暴力を返すのはいけない。

 

 暴力はいかなる時も振るってはいけない。」

 

と言う声を聞きます。

 

ならばどうすれば良いのか?

 

代替案を教えてくれ。

 

武で暴力に対すれば良いのです。

 

待ち拳で攻撃拳に対すれば良いのです。

 

無抵抗主義など私の実体験では役に立ちませんでした。

 

現実に不当な暴力にさらされているときに

 

こんな事言われたら余りの平和ボケに腹が立ちます。

 

56されることもあり得るのです。

 

不当な暴力から自由になるには技術が必要です。

 

その技術のことを武と呼ぶのだと考えます。

 

 

 

武道とは

 

弱き者が強き者に勝つという矛盾問題を

 

身体を使うことでアタマの抽象度を上げて解く

 

という修行なのです。

 

歴史上暴力と武は相対的に独立しつつ対立物の相互浸透をして発達してきました。

 

武は戦時には切実に必要とされて研究実践されてきたはずです。

 

ところが

 

日本の武道(特に柔道と剣道)は太平洋戦争時の軍部の介入を境に

 

高度で困難な実戦的待ち拳は絶滅状態

 

安易な攻撃拳ばかりに変容してしまいます。

 

待ち拳の武道もありますが待ち拳のみで全体系が完結していて

 

実質、新興宗教です。

 

しかし

 

攻撃拳 VS  攻撃拳

 

では相互浸透して発達しようがありません。

 

危険性ばかり高くなり安全性は低いままです。

 

自分の武力を上げることで安全性を手に入れたい

 

私などから見ると本末転倒だと感じます。

 

犬の喧嘩や鶏の喧嘩とどこが違うのでしょう。

 

攻撃拳だけ習って戦争に行かされても

 

敵兵は殺せても自分は生き残れません。

 

侵略者側だったとしても同じです。

 

(敵兵が殺せるなら自分は生き残れなくても良い。)

 

などと考える個人は、洗脳教育されない限りいないでしょう。

 

国家だって国民が死ねば税収が減るのです。

 

デフォルトでは自国の兵には武の力で生き残ってもらって

 

末永く税金を払い続けて欲しいはずです。

 

 

つまり

 

「お前は生き残らなくて良いから沢山殺して来い!」

 

と言わんばかりの攻撃拳を軍隊格闘術として強く推奨した

 

というか

 

日本が長い時間をかけて育んできた高度な実戦性の待ち拳の武道を

 

わざわざ壊滅状態にして

 

似て非なる全体系攻撃拳オンリーというレベルの低いモノにすり替えた

 

太平洋戦争時の日本の軍部は

 

明らかに変なのです。

 

妙です。

 

攻撃拳では兵隊さんは生きて帰れません。

 

暴力では他人は56せても自分は守れないのです。

 

武力であってはじめて自分を守れる可能性が生じるのです。

 

兵隊が4んで減るという事は

 

税金を払い続ける国民が4んで減るという事です。

 

税収が減るという事です。

 

国家というモノの本質はピンハネ屋です。

 

法律も

 

税収をなるべく増やすことを

 

目的にデザインされているように視えます。

 

国家にとって通常であれば何よりも大事と思われる税収が減るのです。

 

何か?両国にとって税収以上の確実な儲け話が戦争の裏に無ければ

 

辻褄が合いませんよね。

 

イデオロギーの違いごときで

 

大金のかかる戦争などする馬シカがいたら顔が見たいものです。

 

子供の喧嘩じゃないんだから。

 

 

色々本を読んで調べて

 

私なりに納得したのは

 

 

 

太平洋岸工業ベルトを作るための大規模な地上げを目的として

 

戦争という名の外交をした説

 

 

 

でした。

 

通常有り得ない一般人の住むただの市街地への空爆も

 

集団疎開も

 

兵隊さんが南海の孤島に行かされて水や食料が届かないのも

 

戦死者の7割越えが餓死と疫病死なのも

 

戦場で生き残ったら敵前逃亡と見なして処刑なのも

 

太平洋側出身の兵隊は生き残ることもまれだったのに

 

その他の地域出身の兵隊には

 

「戦争は海外旅行みたいだった。」

 

という意見が見られるのも

 

出来の悪いギャグみたいな国家総動員法も

 

 

 

戦後の復興が奇跡的な速さだったのも

 

 

 

超大規模な地上げが開戦当初からの目的なら得心が行きます。

 

 

戦争もプロレスの構造と全く同じで

 

ヒールとベビーフェイスが割り振られたブックがつきものですね。

 

ニュースはプロレス司会と全く同じです。

 

臨場感を与える仕事であり

 

真実を伝える仕事なわけではないでしょう。

 

実際同じ人物がニュースキャスターもプロレス司会者もやっていました。

 

必要とされている能力が同じだという事だと考えられます。

 

ちなみに政治家とプロレスラーも必要とされている能力が同じなのでしょうね。

 

ブックをシュートだと信じ込まされたままの人もいますが

 

戦争とはお互いの国家の儲けのために行う外交なはずです。

 

ヒールとベビーフェイスは金を儲けるための共同体です。

 

 

プロレスでは

 

普段は一緒にバスで移動して一緒に飯食って一緒に泊まって

 

一緒に稼いだ金を働きに応じて分配しているはずです。

 

戦争では

 

・・・

 

 

ロシアとウクライナの戦争では何が目的なのでしょうか?