津山三十人殺し他、計5事件について(令和元年大晦日の雑感) | 雑感

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津山三十人殺し

 

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このところ「令和元年の追記」と称して、いくつかの事件について追記を書いてきたのですが、残りの事件についても、今現在の雑感めいたものを書かせていただきます。

 

このブログの左端にある「テーマ」の上から順に行ってみます。

(長いので記事を二つに分けました)

 

 

 北海道苫前・三毛別羆事件(1915年)

 岡山県苫田郡西加茂村・津山三十人殺し(1938年)

 

こうしたサイトご覧になっている方々には、それぞれに、ご自分にとって最も恐ろしいと感じる事件というのがおありなのではないかと。

 

自分の場合、胸糞の悪くなる事件というのは他の事件になるのですが(例の北九州や尼崎、その他リンチ系でしょうか)、恐ろしいという点ではこの二つでした。

 

平成の終わりに「平成の未解決事件」的な記事を連投しまして、それが済んだ時に一度ブログを止めようかと思ったことがあったのですが、この三毛別と津山に触れずじまいになっていることが心残りで、結局そのまま続けたということがありました。

 

どちらの事件も舞台(と言ってはあれですが)が隔絶され暗黒化された小集落であり、加害側の行動が執拗かつ殺意が強固であること、加害側が無駄に無双モードで死神が降臨し暴れ狂ったかのように救いなく殺戮の様相を呈しているといった点で似通ったものを感じます。

 

また、両事件ともに因縁じみたエピソードがあり、なにかしら目に見えない背景を妄想させるようなオカルト的雰囲気を帯びており、そして結末はそれぞれに劇的でした。

 

自分にとって津山事件の怖さは全事件(知っている範囲)の中でも断トツでした。

 

この事件でお気に入りのキャラ---というと不謹慎かもしれませんが---が二人いまして、一人は睦雄に最後の遺書で「密猟ばかりで土地で不人気」と罵られた「岸田順一」であり、もう一人は金の力で村の女たちの肉体を引き寄せ睦雄に襲撃された時には肘を撃たれた妻を見捨てて2階に駆け上がり窓から眼下の集落に向けて「人殺しじゃ! 助けてくれ!」と声を限りに絶叫した「寺井倉一」です。

 

正直この二人には親しみを覚えるのですが、それを言おうものならあの世からでもダムダム弾をぶっ放してきそうな、この人の怒りはまだ収まっていないのではないかと思わせるような怖さがこの事件にはあります。

 

書きながらもあの世からの加害者の視線を感じ、あまり刺激しないようにと憚(はばか)るような気持ちになってしまったのはこの事件が初めてでした。(多分に、自分の中にある恐怖心が、そういう視線を感じさせる原因になったのかとは思いますが。)

 

三毛別は自分的に怖い2大事件の一つですが、加害の主体が腹をすかせた(肉食寄りの雑食)獣なので、襲って喰おうとするのはやむを得ない面もあると思う分、津山と比べれば怖さがやや薄れるといった感じでしょうか。(ちなみに、三毛別でも、ヒグマに襲撃された際に、妻を踏み台にして梁によじ登った男性がいました。)

 

津山事件はある意味、先見の明のなさゆえに起きた事件といえるかもしれない、などと思ったりもしました。

 

というのは犯人の都井睦雄は「どうせわしは結核で死ぬんじゃ」と思っていたと、そこへの絶望が拡大自殺的な凶行の原因の一つとしてあっただろうとは思います。

 

しかし結核治療の歴史を見てみると、睦雄が山で猟などして健康を維持しつつあと少し頑張っていれば、ペニシリンであるとかストレプトマイシンであるとかの普及により、結核はいわゆる不治の病ではなくなる時代が来たわけです。

 

また「丙種合格」については、私は睦雄本人がそれを望んだ可能性無きにしも非ずと考えているので、睦雄が「丙種合格」に深く傷ついていたかは怪しいと思ってはいるのですが、仮に深く傷ついていたとしても、では津山事件発生(1938)からたかだか7年以内に、その羨望の的である「甲種合格」の男性たちが遠い異国の地でどんな最期を遂げたのか(良いとか悪いとかは別として)、

 

「2019年から来た未来人です」

 

と言って睦雄にそれを教えてやり、その上で、

 

「丙種合格(実質不合格)のことは苦にせず、堂々と田舎に引っ込んで家と田畑を守っていればいい。そうすれば空襲も受けず、やがて戦争も終わり、結核の良い治療薬も普及し、農業も機械でできる時代が来る。マイカーで津山に行ける時代が来る」

 

などと言ってやれば、彼はどんな反応をしただろうかと(信じないで撃ってくるかもしれませんが)。

 

しかし彼はそうした未来を見通すこともなく(仕方ないですが)、現状に絶望し運命を呪い、人を恨んで周囲を巻き込む大事件を起こしてしまったと。

 

睦雄よりも20何歳か年上の人で、睦雄と同じく中学に通えず---というか小4で中退したというので高等小学校卒業まで級長で通していた睦雄と比べると遥かに低学歴なのですが---睦雄と同じように親兄弟の多くを結核で亡くし、

これまた睦雄と同じく若くして結核初期の別名である「肺尖カタル」の宣告を受けたが、「学がない」であるとか「親族が多数結核で死んだ」であるとか「自身が病弱である」とかの睦雄にとっては運命を呪う理由に値するとされた逆境にも腐らず前向きに生きた人物の言葉があり、興味深いものがありましたので、以下に紹介させていただきます。

 

電線の切断の仕方も巧みだったとされる睦雄が、この人物の会社が開発したランプを胸に凶行を起こしたのは、なんの運命の皮肉だったのかと思わされます。

 

「けどな、強いて言えば、わしが凡人やったからやろうな。人と比べて誇れるようなものはない。それがよかったと思う。

前にも言ったけど、学校は小学校4年中退や。勉強しとらへん。それは父親が、わしの4歳のときに米相場に手を出して失敗してしもうたからな。それまでは、そのあたりではけっこう素封家であったらしいけど、いっぺんになんもなくなってしまった。家族は両親と兄姉で十人家族であったけど、それで一家はみんな和歌山市内や大阪に出て働かんといかんようになった。もう帰る故郷もなくなったんや。

ところが、家族はわしが故郷を離れる2年ほど前から、次々に死んでいく。わしの7歳の時に姉のひとりが死んでから28歳までに、親兄弟みんな死んでしまった。頼るべき人もいない。

しかも、わしは20歳のとき、肺尖カタルにかかってしまった。まあ、結核の初期の状態やな。この時、わしは来るべきものが来たと思った。というのは、親兄弟みんな結核で死んでおるんや。

それからは、気をつけながらの人生ということになったわけやけど、健康ではなかったわね。そういうことを考えても、人に誇れるものはない。人に比べて、抜きん出ておるものもない。まあ、平凡な人間やと。

けど、そういうことがよかったのかもしれんな。わしが学校を出ておる。そして秀才やと。あるいは家柄もいい。金持ちやということであったとすれば、こういうことにはならんかったかもしれん。

わしは、会社の経営で、いろいろなやり方を考え出したけど、どれも、わしのそういう人生を背景に生み出されたものが多いというわけや。

たとえば事業部制にしても、あれは世界的にも早い時期らしいけどな、わしは、そういうことで、体が悪かったからな、直接に仕事をやるということは出来んかった。それで、わしに替わって仕事をやってもらおうと。そこで、わしの考えの中から、ごく自然にそれぞれの製品別に事業部を作って、経営者を決めてやってもらった。それが人材の育成とか、責任の明確化とか、そういうふうなことに結びつくと考えられるわけやけど、わしが始めたんは自身、体が弱かったからやな。それがきっかけやな。もし、わしが健康で頑健な体をしておったら、一から十まで全部自分がやってしまっておったと思うな。幸いにして体が弱かった。それがよかったということや。

みんなに聞きながら、経営を進めていくことが大事やということは、さっきも話したけど、衆知を集めて経営をしたのも、わしが学校出てへんかったからやな。もし出ておれば、わしは人に尋ねるのも恥ずかしいと思うやろうし、あるいは聞く必要もないと思ったかも知れん。けど、これも幸いにして学校へ行ってへん。勉強してへん。そういうことであれば人に尋ねる以外にないということになるわな。

そういうことで、経営も商売も人に尋ねながら、人に意見を聞きながらやってきた。それがうまくいったんやな。

そういうことを考えてくると、今日の、商売におけるわしの成功は、わし自身が凡人やったからだと言えるやろうな。」(松下幸之助氏の言葉)

 

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松岡伸矢くん行方不明事件

 

 坂出市タケノコ掘り女児行方不明事件(2005年)

 徳島県貞光町・松岡伸矢君行方不明事件(1989年)

 郡上市高鷲町下村まなみちゃん行方不明事件(2009年)

 

ひるがの高原キャンプ場で行方不明になった下村まなみちゃんについては「どちらかというと迷子では?」と結論付け、一方でタケノコ掘り(大西有紀ちゃん5歳)と松岡君(4歳10か月)のは、迷子の線をあまり考えていませんでした。

 

いまにしてみれば、この2件については、けっこう迷子の線もありなのではという気がしています。

 

比較的最近、2歳女児(大分県)と2歳男児(山口県)がそれぞれ行方不明になり無事発見されるという出来事がありました。

 

前者(大分県2歳女児)は、曽祖父母の家近くの畑からいなくなり、その翌日に、畑から約2km離れた山中の斜面に一人座り込んでいるのを、女児の父親の友人男性が発見しました。警察車両に乗せられ、なすすべもなく鼻を垂らしながら収容されていく2歳女児の姿に、安堵の涙を浮かべた方も多かったのではないかと。

 

一方の後者(山口県2歳男児)は、不明3日後に曽祖父宅から北東約560mの山中で、沢に足を浸しながら座り込んでいたところを、スーパーボランティアの尾畠さんが発見しました。

 

つまり両件ともに、警察の捜索隊や警察犬は発見できず、一般の男性による発見でした(そのことをどうこう言いたいわけではありませんが)。

 

その他、比較的最近の行方不明事件で警察の捜索隊や警察犬が発見できなかった例としては、北海道函館の田野岡大和君(7歳)の例があります。

 

大和君は行方不明になった地点から山中を8~9km歩き、自衛隊の宿舎に辿り着き、そこで寝泊まりしていたところを陸自の隊員に発見されました。この時も、警察犬にとって捜索条件は悪くなかったのですが、やはり追うことはできなかったわけです。

 

「北海道七飯町・田野岡大和君(7歳)行方不明事件・・・無事保護」

https://ameblo.jp/maeba28/entry-12167095244.html

 

タケノコ掘りの記事を書いたころには、自分の中には、警察犬の鼻は結構あてにしているというか、かなり信頼を置いている部分があったのですが、あれから4年と半年、過去現在の様々な事件を見る中で、今では、

 

「警察犬がそう反応したのなら・・・」

「警察犬が追えなかったのなら・・・」

 

というような考えは、全くなくなりました。

 

「家から数十メートル先の路上でうずくまっていた徘徊老人を警察犬が見つけた」みたいなニュースはたまにあるので、全くあてにならないということではないのですが、しかし絶対視するにはほど遠いと。

 

いずれにしても、大分にせよ山口にせよ、2歳児が山中をこれほど歩くということになると、大西有紀ちゃんや松岡君の場合はどうだろうか、タケノコを探して、あるいは何か興味惹かれるものを追いかける中で、わき道にそれた結果、山林に迷い込んだという可能性も、少し高めに考えてみてもよかったのではないか、という気がしています。