ヒンターカイフェック殺人事件・その11(補足情報1) | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

ヒンターカイフェック殺人事件

「遺体はグルーバー家の中庭でアウミュラー医師により検死され、その最後に頭部が切り落とされ、順次納屋へと戻された。これは7歳のツェツィーリアの遺体を納屋に戻そうとした時のことである。私は遺体を乗せた担架を抱えた名も知らぬ二人の人物とともに納屋へと足を踏み入れたのだが、その時、納屋の天井の梁から、藁で編まれた親指ほどの太さの縄が床に向けて吊り下がっていることに気づいた。遺体を運び出した時にはなかったはずのもので、突然の藁縄の出現に、担架を運んでいた二人は驚きと恐怖のあまり叫び声を上げ、危うく担架を落としそうになった。藁縄は曲がりくねってはおらずピンと張っており、またその結び目は非常に固かった。このことから、何者かがこの藁縄を伝って納屋の屋根裏から床に下りたことが推察された。藁縄が結び付けられていた梁の上部は埃をかぶっていたが、結び目のあたりには埃の上に人の手形が二つ残っているのが確認できた。」---現場の補助員としてノイブルクの地裁から派遣された人物(当時26)の証言による

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

----------

 

 第一のつるはし発見

 

遺体発見日(4月4日)のうちに、畜舎の餌を入れる長桶の南の端で発見された。
これは、遺体発見時に、シュリッテンバウアーが飼料置き場の4遺体があった地点から畜舎の餌やりの通路を経由して台所方面へと向かおうとしたとき、その途中で発見したものであった。

 

ヘッドに近い柄の部分に赤茶色のシミがあり(ヘッドにもそれっぽい痕跡があったとする情報もある)、発見当初は人間の血液ではないかとされ、
血が広範囲に付着していないのは、置かれていた場所が場所だけに、家畜に舐め取られたのではないかと考えられたが、後の検査により、人間の血液の痕跡は認められないとされた。

 

グルーバー家の所有物であろうと推測されたが、普段どこに置かれれていたのかも含めて、正確なことは不明とされた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

(第一つるはしのタイプは、1枚目の画像のような、刃の片側が尖り片側がフラットな、いわゆるバチヅルと呼ばれるタイプだった。正確な発見位置は定まっていないが、おおむね、2枚目の画像のピンクの位置が候補とされている。)

 

 屋内の数か所で発見された血痕

 

血痕は、遺体のあった場所はもちろんのこと、飼料置き場から畜舎へと通じるドアの表面に飛沫血痕が多数確認され、

 

台所の床上や、台所から南側玄関へと通じる廊下にも、それぞれ一つずつ血痕が確認されたが、血の足跡は屋内のどこからも発見されなかった。

 

犯人は畜舎の餌やりの通路を通って居住エリアと納屋を行き来したものと思われたが、餌やりの通路からも、血痕や血の足跡は発見されなかったのである。

(個人的に、当時こういったことはあり得るのだろうかと思う。単に捜査が雑だっただけではないかと。)

 

それぞれの遺体は血まみれであり、その遺体をどこかから引きずって移動させればその痕跡が床上に残ると思われるところ、そういった痕跡が見られなかったため、遺体はそれぞれの発見場所で殺害されたものと推測された。

 

 解き放たれていた牛

 

遺体発見時、畜舎の牛が1頭、縄から離れていた。

 

これが人為によるものか、それとも空腹などから自力で縄を離れたものかは不明だったが、牛が縄から離れていたという点に、殺害方法を推測するヒントがある可能性が指摘された。

 

というのは、ヒンターカイフェック殺人事件(1922)が起きる以前、世紀の境目ごろのことになるが、バイエルン地方で、もっぱら大規模農家を専門に荒らしまわる強盗団が活動していた。

 

世に言う「シュマーデラー一味」である。

 

シュマーデラー一味が頻繁に用いた手口の一つが、まずは畜舎に忍び込んで家畜を解き放ち、家畜たちの騒ぎに気付いて畜舎に駆けつけてきた家人を撲殺し、金品を奪うというものだった。

 

大きな音を立てるため銃器は使用せず、また武器は持ち歩かず、押し入り先で適当に武器になるものを見つけて撲殺する(武器の現地調達)というのがこの強盗団の特色だった。

 

強盗団のメンバーは、1922年のヒンターカイフェック殺人事件発生の時点で、逮捕後に処刑されたり、自殺、仲間内での殺し合いにより、生き残りはほとんどいなかったが、
そのうちの一人が、15年の刑期を終えて1917年5月に出所していたため、この人物についてはアリバイが調べられた。(結果はシロの判断)

 

ともあれヒンターカイフェックの場合も、この強盗団と同様に、畜舎に忍び込んで家畜を解き放ち、畜舎に騒動を起こし、家人を一人また一人と誘い出して(現地調達した凶器で)撲殺するという手段が用いられたのではないか・・・ということが推測された。

 

 ただし、「その種の強盗団の仕業に見せかけるために、わざと牛を解き放ったのではないか」という見方も、ドイツの一部マニアの間には存在する。

また、「その8」の年表に記した通り、グルーバー家では、事件前日の3月30日の夜にも、一頭の牛が畜舎内で縄から離れて走り回り、それに興奮したその他の家畜たちにより畜舎内が騒然となるという出来事が起きていた。

アンドレアスは、この畜舎の騒動のことや、縄から離れていた牛を繋ぎなおしたという話、屋根裏からの足音で心休まる暇もなかったという話を、シュローベンハウゼンの金物店で話している。

このように、事件の前にも「牛が縄から離れる」という出来事が起きていた点について、当局の中には、「これは、牛を解き放って家人を畜舎におびき寄せるという犯行の、予行演習だったのではないか?」と捉える向きもあった。)

 

 叫び声がどこまで届くかという実験

 

家族の寝室およびメイド室と、4遺体の発見現場である納屋の飼料置き場とで、叫び声がどれほど聞こえるかという実験をしてみた。

(判事指揮のもと、司法委員会のメンバーによる)

 

実験では、一人が家族の寝室やメイド室に立ち、そして二人が4遺体の発見現場である飼料置き場に立ち、双方の時計を事前に正確に合わせておき、

定められた時間に飼料置き場の二人が大声で叫び声をあげ、その声が家族の寝室やメイド室にいる人に聞こえるかどうかを試したのである。

 

結果、家族の寝室にもメイド室にも、叫び声は全く届かなかった。

 

 台所の窓に挟まれていた郵便物と新聞。日めくりカレンダーの日付

 

台所の窓のところに4月1日(土)配達分の郵便物(1~2通)や、新聞が挟まったままになっていたことが判明した。

 

この新聞については、何月何日の配達分かという情報がないが、その日付については、「遺体発見日の2~3日前の日付だった」とする当局関係者の証言がある。

 

事件当時は、「3月31日(金)に配達された分である」という情報が流布したが、郵便(新聞)配達人によるとその情報は間違いで、「3月31日(金)の配達分は、アンドレアスに直接手渡しをした」とのことだった。

 

このことから、4月4日(火)の遺体発見日に窓のところに挟まったままになっていた新聞は、その3日前(4月1日、土)に発行され、4月3日(月)に配達された分であろうと推測される。
(新聞の発行曜日は「火木土」であり、配達曜日は「月水金」だった。グレーベルンはあの地理的条件なので、発行日より遅れての配達だった。)

 

家にあった日めくり式のカレンダーの日付は、4月1日となっていた。
(どの部屋にあったカレンダーかは不明)

 

 犯人が犯行後に数日間(遺体発見日まで?)現場にとどまり、飲み食いするなどと同時に、家畜に餌を与えるなどしていたのかという問題

 

この事件に関して流布している逸話の一つとして、そういうもの(現場への滞在・家畜への餌やり)がある。

 

当局も、現場の状況や、遺体発見の前後に現場近くを通った~現場に入った人々の証言から、その可能性は指摘している。

 

「現場の状況」「遺体発見の前後に現場近くを通った~現場に入った人々の証言」は、そこから確かなことを推測するにしては、微妙なものが多い。

 

以下にそれを紹介してみると、まず、納屋のとある区画の屋根裏の床に藁床が作られ、そこに人が寝ていたと思われるくぼみがあった

 

藁床の位置については、当局の記述によれば今一つ曖昧で、後世の考察では、下の図(これは実際の図ではなく、ドイツのテレビ局が作った想像図)で言えば、おおむねA、B、Cの位置が候補とされている。(個人的には、AかBの可能性が高いと思う。)

 

ヒンターカイフェック殺人事件

 

くぼみの数については、いずれも当局関係者によるレポートで、

 

「くぼみは二つであり、二人の人間が寝ていたと思われる」

 

としているものがある一方で、

 

「一人ないしそれ以上の人間が寝ていたと思われるくぼみ」

「人々(複数形)が寝ていたと思われるくぼみ」

 

などとしているものもある。

 

藁床のくぼみについては、必ずしも犯人によるそれではなく、肉体関係にあったとされるアンドレアスとヴィクトリアがそこに秘密の藁床を作っていたのではないかとか、

「複数のくぼみ」が必ずしも「複数犯」を意味するものではなく、たとえ単独犯であっても、日によって寝る位置が少しずれれば、藁床上には複数人が寝ていたかのようなくぼみができることもあるのではないか等、指摘する向きもある。

 

次に、畜舎の屋根と納屋の屋根のそれぞれ一か所ずつで、屋根瓦が後方にずらされ、覗き穴のような穴が開けられていた

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(瓦がずらされていたのは、画像中ピンクの部分の2か所とされている。特に、納屋の屋根に開けられた穴からは、中庭から南側玄関への人の出入りがよく見渡せたという。)

 

瓦を後方にずらすことにより、その下の瓦の一部が露出するわけだが、その露出した部分の色合いが新品のように鮮やかなであり、全く色あせてなかった。

 

この建物の屋根は、雨風のみならず煙にもさらされ続けており(煙突)、屋根瓦は全体的に色あせていたが、ずらされた瓦の下から露出した部分がまったく色あせていなかったことから、
これらの瓦はごく最近にずらされたものであり、中庭からの人の出入りを見渡すための、犯人による工作ではないかと考えられた。

 

犯人が現場にとどまり飲み食いしていた可能性を示す状況も見られた。
しかしいずれも---例えば世田谷事件の握りつぶされたアイスカップのような---(ほぼ)確実に飲み食いされたとみなし得るような状況ではなかった。

 

まず、台所の屋根裏には燻製室があり、そこには燻製にされた肉が10~12個ほど吊るされていたが、そのうちの一つから、肉が半分ほど切り取られていた

(必ずしも犯人による行為とは限らないかと。ちなみに、居住エリアや畜舎の屋根裏には、オーツ麦やトウモロコシ、ライ麦など、家畜の飼料となる穀類がそれぞれトン単位で備蓄されており、

地下室には一例として、ジャガイモ12.5トンや、飼料用のビート500kgなどが備蓄されていた。詳細については割愛。)

 

台所の磁器の皿の中に、ジャガイモ炒めを作るときに出たと思われるジャガイモの皮が入っていた。

 

台所のストーブの上にホーロー皿入りのスープがあったが、第一発見者の一人であるヤコブ・ジーグルの印象では、そこから飲まれたようには見えなかった。

 

先述の、納屋の屋根裏に作られた藁床の近くに、「燻製肉の皮や脂の残りかす」が落ちていたという証言がある。
一方でその藁床の近くに「人糞」があったとする証言がある。

 

藁床の近くに「燻製肉の皮や脂の残りかす」「人糞」それらの両方があったとする証言は存在しておらず、後世の推理では、どちらか一方の見間違え---肉と人糞を見間違えたとか---を指摘する向きもある。
燻製肉の皮と人糞を見間違える可能性は低いかもしれないが、しかし、間違いなくそこで燻製肉が食されたとも言いにくい状況ではあった。

 

この事件では、いかにも犯人が現場で暖を取りながら飲食していたことを示すエピソードの一つとして、「週末に煙突から煙が出ているのが目撃されていた」

という逸話がよく紹介される。

 

ただ、週末(4月1日、土曜日)に煙とかまどの火が目撃されたのは、道わきにある離れのパン焼き小屋の煙突であり、時は深夜であり、

煙からはぼろ切れを焼くような嫌なにおいがしていた、という証言がある。

(時刻については、夜9時ごろという証言もある)。

 

つまり、実際に目撃された「煙突の煙」の光景は、朝昼夕に母屋の煙突から煙が出て周囲には料理のいいにおいが漂っていた・・・とかの、生活感のあるほのぼのとした風景とは異なり、
むしろ、「そんな時間に離れのパン焼き小屋で、一体何を焼いていたのか?」と、訝しく思われる光景ではあった。

 

家畜が餌を与えられるなど、世話をされていたのかという点について、畜舎の中には以下の家畜がいた。

 

・成牛(8頭)
・若牛(3頭)
・子牛(5頭)
・子豚(2頭)
・ニワトリ(25羽)
・番犬のスピッツ(1頭)

 

事件に関する逸話の一つとして、これらの家畜について、「事件発生から遺体発見までの約4日間、餌が与えられ、世話されていた」というものがある。

 

ただしこれについては、遺体発見までの数日間における家畜の鳴き声(静かだったとか大声で鳴いていたとか)や、

遺体発見時や発見直後のそれ(鳴き声の大小や様子)に関する複数人の証言により、

 

「腹を空かした家畜が大声で鳴くことにより、近隣住民が異変を察知することのないよう、餌が与えられていた可能性がある」

 

とされた程度であり、「間違いなく餌を与えられていた」とされているわけではない。

 

家畜は静かにしていた~農場は静かだったとする証言がある一方で、家畜は落ち着きなく低い声で鳴いていた~大声で鳴いていたとする証言もあり、
さらには、遺体発見後早々に、シュリッテンバウアーが忙しく立ち働いて家畜に餌や水を与えたことで、判断が難しくなったものと思われる。

 

家畜が騒いでいなかったとしても、それは満腹だったからではなく、「飢えで弱っていたからだ」という見方もある。

 

ミュンヘン警察から来た初期の捜査主任ゲオルク・ライングルーバーのレポートによると、2頭の子豚については飢えと渇きで弱っており、シュリッテンバウアーが自分の畜舎に引き取ることをヴァンゲンの区長に申し出て、それが了承されたという。

 

しかし、捜査主任のレポートには、シュリッテンバウアーによる申し出と区長による承諾の事実が記されているのみで、実際の子豚の状態についての捜査主任による私見などは述べられていない。

 

農場で飼われていた犬(番犬のスピッツ)について、

「餌を与えられていた」というと、あたかも愛情をもって世話されていたかのような響きがあるが、この犬は発見時、右目のあたりが殴られたように腫れており、また右目が白濁していた

 

犬はグルーバー存命時には、日中は外に出され、夜には畜舎に収容されるのが常だったが、4月4日夕刻の遺体発見時には畜舎の中に収容されていた。

 

発見時、怪我をしていたが、元気に鳴いてはいた。非常によく吠え、しかも咬む犬だったという。

 

これは当局による見立てではないが、ドイツ人の推理マニアの中には、この犬の状態からして、夜に畜舎に侵入してきた不審者に気づいて吠え掛かり、
慌てた不審者に右目付近を殴られて怪我をし---犬も怪我は右側---騒ぎに気付いて畜舎に駆けつけてきた家人が、一人また一人と殺害されたのではないか、と推測する向きもある。

 

牛の乳房の状態から、事件後に搾乳された可能性が指摘されている

ただし、乳房の状態が具体的にどうだったから搾乳の可能性があるのか、また、当局が到着する前に、餌やりのため忙しく立ち働いていたというシュリッテンバウアーがそういうこと(搾乳)をしなかったのかどうか、という点については触れられていない。

 

捜査主任によると、「鶏舎は閉まっていた」。

(しかし、鶏舎が具体的にどの位置にあり、またそこが閉まっていることから何が推察されるのかについては書かれていない。)

 

 物色の状況~残されていた金貨や銀貨、有価証券、貴金属、5マルク紙幣

 

ヴィクトリアの寝室以外は、物色された形跡が見られなかったという。

 

しかし不思議なことに、紙幣については、地下室も含めて家じゅうをくまなく捜索したところ、祈祷書に挟まれた5マルク紙幣1枚きりしか見つからなかった。

 

明らかに物色されたとみられるヴィクトリアの寝室には、横並びになった大人用の二つのベッドや、子供用のベッド、乳母車、戸棚、収納箱(3個)などがあった。

 

大人用のベッドのうち、戸棚に近いほう(ドアから向かって左側)のそれの上に、様々な書類が放置され、また、空の財布が置かれていた。

 

戸棚や収納箱(3個)の中には、男性用の懐中時計や、女性用の腕時計、指輪やネックレス(銀製品が多かったが一部金製品あり)、ロザリオ、宝石のたぐいが残されており、また布にくるまれたブリキ缶の中に、次のような硬貨その他が入っていた。

 

・20マルク金貨が89個(1780マルク)
・10マルク金貨が10個(100マルク)
・1マルク銀貨が159個(159マルク)
・2マルク銀貨が3個(6マルク)
・3マルク銀貨が14個(42マルク)
・5マルク銀貨が24個(120マルク)
・アルミ硬貨で7.08マルク分
・ニッケル硬貨で2.1マルク分
・ノートゲルト(戦時の緊急通貨)で7マルク分
・総額15100マルク相当の有価証券

 

村人たちの推測では、グルーバー家には現金で10万マルクはあったのではないか、とのことだったが、少なくとも現場の状況から、紙幣については、祈祷書に挟まれた5マルク紙幣が見落とされたのみで、他はすべて奪われたものと推測された。

 

一方で硬貨や貴金属のたぐいについて、現場にある程度の時間居座っていた物取りなら見逃すとも思えないような場所にかなりの量が遺留されていたという事実が、
物取りなのか怨恨なのか、それとも別の動機なのかを推し量るにあたって、判断をよりいっそう難しいものにさせていた。

 

 見つからなかったライフル本体

 

マリア・バウムガルトナーが殺害されていたメイド室の壁ぎわにはストーブが据え付けられていたが、その上に、約230グラムの鉛玉が入った紙袋が置かれていた。

紙袋には「ルーペルト・シェパッハ」という個人名と思われる名前や、取引日として「1920年2月8日」という日付が記されていた。

 

捜査の結果、「ルーペルト・シェパッハ」とはインゴルシュタットにある銃砲店の店員の名前であり、この人物が、1919年から1920年にかけて、食料買い出しのため頻繁にヒンターカイフェックを訪れていたことが判明した。

 

シェパッハによると、ある時、買い出しに訪れた彼に対してアンドレアスがライフルを見せ、「調子が悪いので見てくれないか」と依頼した。
見ると点火装置の一部について部品交換が必要だということがわかった。
その旨を伝えると、アンドレアスは修理を依頼すると同時に、弾丸もいくらか所望した。

 

後日、シェパッハは必要な部品を持ってヒンターカイフェックを再訪し、ライフルに部品を取り付けると同時に、所望されていた弾丸も、紙袋に入れて渡したのだという。

 

ライフルについては、1921年8月の終わりまでヒンターカイフェックでメイドをしていたクレスツェンツ・リーガーが、「アンドレアスがターラー兄弟に威嚇射撃をした際の発砲音を聞いた」と証言しており、

 

また、殺人事件発生の直前に、アンドレアスがシュローベンハウゼンの金物店で「屋根裏の足音」のことなどを話した際、「ライフルを持っているから怖くはないのだが・・・」などと語っていたとの証言がある。

 

これらのことからも、アンドレアスが事件発生時までライフルを所有していたことはほぼ確実と思われたが、事件後の捜査によっても、また1923年春の建物取り壊しによっても、ライフル本体が見つかることはついになかった。

 

 無くなったとされていた鍵が南側玄関の内側にあったことについて

 

納屋内で4遺体が発見されたとき、ジーグルとペルは恐れをなしていったん納屋から外に出たが、シュリッテンバウアーだけは「俺の息子はどこだ?」と言いながら、畜舎を経由して家族の居住エリアまで行き、そこで内側から玄関の鍵を開けて、ジーグルとペルを屋内へと導き入れた。

 

この時、無くなったとされていた鍵を用いて玄関の鍵を開けた。

 

シュリッテンバウアーによると、鍵は玄関の内側にあったという。

 

第一発見者の一人であり、のちにシュリッテンバウアーを犯人呼ばわりすることで同人と訴訟沙汰になるなど対立関係になったジーグルは、

「彼は最初からポケットの中に鍵を持っていたのだろう」

と言っており、

シュリッテンバウアーを犯人視する人々の中には、同人がかつてヴィクトリアと恋仲にあり、なおかつ工作にも長けていたことから、「ヴィクトリアと付き合っていたころから、合鍵を作っていたのだろう」と噂しあったりした。

 

のちのミュンヘン警察による聴取で(1931年)、
「アンドレアス・グルーバーは鍵を無くしたと言っていた。にもかかわらず、なぜあなたがその鍵を用いて内側からドアを開けられたのだろうか?」
という警察の質問に対して、シュリッテンバウアーは、一つしかなく、しかも無くなっていたはずのその鍵が玄関の内側にあったのは自分自身にとっても謎なのです、と答えている。

 

さらに警察が、「では玄関に鍵を掛け、玄関の内側に鍵を残したまま、犯人はどうやって屋外に出たのだろうか?」と質問したところ、シュリッテンバウアーは、

「犯人は屋根裏を経由して納屋の車置き場まで移動したのでしょう。車置き場の天井からは藁縄がぶら下がっていたので、あの縄を伝って下に降りたのだと思います」

と答えている。
(居住エリア、畜舎、納屋それぞれの部分に屋根裏があったが、屋根裏の部分には仕切りがないため、どこでも自由に移動できた。

つまりシュリッテンバウアーの説明によると、犯人は玄関の内側から鍵を掛け、そこに鍵を放置し、居住エリアの屋根裏に上がり、そこから畜舎の屋根裏を経由して納屋の屋根裏に到達し、あらかじめぶら下げておいた藁縄を伝って床に降り、一発目のドア---納屋西側のドア---から外に出た・・・ということだった。)

 

 納屋の天井の梁からぶら下がっていた藁縄

 

この事件に関する情報の常で、梁からぶら下がっていた藁縄についても、正確なことが確定していない。
藁縄を、いつ、どこで、誰が最初に発見したのか、曖昧なままだった。

 

冒頭で紹介した現場助手の証言によると、まさしく助手本人と、担架を運んでいた2人の、計3人が藁縄の最初の発見者であり、

それは4月6日(木)と7日(金)に行われた検死の最中の出来事であり、
しかも---現在読めるこの助手の証言は事件の約30年後に語られたもの(2通)なので、物事の起きた順序や日付について明らかな誤りなどが見られ、記憶の混乱があるのではないか、と個人的には思うが---藁縄に気づいたのは「7歳ツェツィーリアの遺体を納屋に運び込もうとした時のこと」だというから、それは、7歳ツェツィーリアの遺体が検死された4月6日(木)のことではなかったかと想像するが、

ややこしいことに、シュリッテンバウアーが、これとは矛盾するとも見える証言をしているのだった。
(先の、シュリッテンバウアー「犯人は南側の玄関に鍵を掛けたのち、屋根裏を経由して納屋の車置き場まで移動したのでしょう。車置き場の天井からは藁縄がぶら下がっていたので、あの縄を伝って下に降りたのだと思います」・・・つまりこれだと、4月4日の遺体発見時、すでに藁縄がぶら下がっていたようにも読めなくもない。)

 

一方で、遺体の第一発見者の一人であるヤコブ・ジーグルは---これまた事件から約30年後の証言になるが---「遺体発見時には、あの藁縄は絶対になかった」と証言している。
ジーグルによると、

 

「遺体発見の翌朝(4月5日の朝)、私は現場に赴いた。

そこにはすでに(シュローベンハウゼンの)司法委員会が到着していたが、私がそれらの人々に前日見たことを説明していた時、納屋の天井の梁から藁縄がぶら下がっていることに気づいた。

この藁縄は、前日(遺体発見日)には絶対にそこにはなかったものである。

なぜそう言えるかというと、我々が遺体発見時に納屋内(の藁縄のあった位置を)通り抜けたとき、そこに遺体は見られなかったため、私は、『家族はどこか別の場所で、首を吊っているのだろう』と思ったからである。

そんなこともあり、私は納屋については注意深く見ていたのである。

第一発見者の一人であったペルも、この藁縄については記憶にないと言っていた。」

 

要するに、

「首吊りによる一家心中を疑っていたため、納屋に入った時から上方(天井)についてはしっかり見ていたのだから、(そこに藁縄などなかったという)自分の記憶は正確なのだ」

ということのようだったが、

いずれにしても、藁縄の発見者、発見日ともに、先の助手やシュリッテンバウアーの証言とは齟齬があり、ジーグルが名前を出しているミハエル・ペルも、事件翌年の1923年には死んでしまって、彼の藁縄に関する証言は残っていない。

 

藁縄については、警察、検察、司法の各当局関係者のレポートや、やじ馬の証言の中にもいくつか言及が見られるが、

そこからは、「納屋のとある区画の屋根裏に敷かれた藁床近くの天井の梁からぶら下がっていた」・・・ということを推知し得るのみで、
より正確に、納屋内のどの地点で、誰がいつ発見したのかを推知する資料としては用をなさないものばかりで、調べる側としても辛いものがあった。

 

藁縄がぶら下がっていた正確な位置については、後世のドイツの推理マニアたちが、当局による各レポートや調書を読み解きながら特定のため四苦八苦しているような状況で、「絶対にこの場所」という位置は定まっていないながらも、いくつか候補とされている位置はある。

 

なぜそれらの場所が候補に挙がっているのか、詳細な理由は割愛させていただくが、以下の図で言えば、黄色の位置のどれかの上方にある梁から、藁縄がぶらさがっていたと推測されている。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

 

 「犯人によって掘られたとみられる穴があった」というシュリッテンバウアーによる証言

 

事件の3年後(1925年)の春のこと、ヴァイトホーフェン在住の一人の教師(当時38)が、ミュンヘンで役人をしている義理の父親から請われて、二人でヒンターカイフェックの現場を訪れた。
ヴァイトホーフェンの方角から、魔女の森の中にある小道を抜けて行ったという。

 

森を抜けると、かつて農場の建物があった場所にたたずみ、やや前かがみの姿勢で下を見つめている男の姿が目に入った。
現場はすでに取り壊され、基礎の部分と地下への入り口の部分をわずかに残すのみだったが、男はどうやら地下へと延びる入り口を熱心に見つめているようだった。

 

それがシュリッテンバウアーだった。

 

彼は当初、熱心さのあまりか二人の到来に気づかなかったが、二人が6m前後の距離に近づいたときにようやく気付いて、(教師の印象では)仰天したように顔を上げた。

 

やがて教師が(事件について)何も言わないうちから、シュリッテンバウアーは、「地下室の壁は非常に厚いものだった」ということに始まり、「遺体発見時に各遺体がどこにあったか」など、事件に関することを早口に語り始めた。

 

その中で、彼は教師を4遺体が発見された納屋内の飼料置き場があったと思われる一区画に連れていき、
「犯人はここに遺体を埋めるための穴を掘ろうとしていたのだ」
「私は掘りかけの穴を見た」
などと説明した。

 

それは教師が初めて耳にする情報だった。

現にそれは、以前には当局でさえ関知していなかった情報だった。

 

驚いた教師は、「それなら犯人は近場の人間に違いない。よそ者による犯行なら、(遺体を埋める穴など掘らず)できるだけ早く逃げればいいだけだからね」と言ったところ、
シュリッテンバウアーは「いやいやいや!」と首を振りながら、「犯人はよそ者だ! 近場の人間ではない!」と、教師の見解を興奮気味に否定したという。

 

シュリッテンバウアーはほぼ一人でしゃべり通していたが、やがて突然に話を打ち切ると、

 

「キツネがよくうちのニワトリを盗むので、息子たちが森に罠を仕掛けている。それを見に行ってくる」

 

と言って、シュローベンハウゼンの方角にある森へと立ち去った。

 

「遺体を埋めるための穴」の件については、後日にシュリッテンバウアーは警察から聴取を受けた。

 

「ヴァイトホーフェンの教師が、建物の取り壊し跡であなたに出くわしたと言っている。その時あなたは『犯人は現場に穴を掘ろうとしていた』と言ったんだって?」

 

この警察の質問に対して、シュリッテンバウアーは、

 

「それは確かに言いました。司法委員会が現場に来た日の後のことですが、納屋の中の4人の遺体が発見された場所の近くに、シャベルで掘ったような穴を見つけたのです。

その穴はまだ新しく、藁で覆われていました。

私は今でも、犯人たちが遺体を埋める穴を掘ろうとしたが、地面が固くて諦めたのだろうと思っていますよ」

 

と答えている。

 

この穴については、「捜査当局がそれを見落とすことは考えにくい」として、シュリッテンバウアーの供述そのものを疑う声も(後世には)ある。

 

 また、この教師がシュリッテンバウアーと建物の取り壊し跡で出会うシーンについては、教師本人ではなく第三者による又聞きの情報として、

 

「教師が建物の取り壊し現場に行ってみると、シュリッテンバウアーがもともと地下室があった場所の地面のくぼ地に身をかがめ、がれきの中から何かを探すようなしぐさをしていた。教師はしばらくシュリッテンバウアーを見ていたが、やがてシュリッテンバウアーは見られていることに気づいて仰天したように顔を上げた。教師が『何をしているの?』と問うと、シュリッテンバウアーは『探し物をしている』と答えたが、具体的に何を探しているのかは言わなかった。

その後、建物の取り壊しが完了し、跡地にはすでに供養碑が建っていた時のこと、教師が再びその近くの森を通りかかると---やはり周囲には誰もいなかったが---シュリッテンバウアーが供養碑のそばに置かれた祈祷用の椅子に跪いて祈っているのが見えた。

この時、教師はシュリッテンバウアーに声を掛けることはしなかったが、自分の見たことを手帳に書き留めた。」

 

というものがある。

 

「建物取り壊し跡での探し物」の件については警察による後日の聴取で聴かれているが、シュリッテンバウアーはこれに対して、「確かにそういうことはありました」と認めたうえで、

 

「アンドレアス・グルーバーに貸したままになっていた切断用の砥石(いわゆる切断砥石)を探していたのです」

 

と答えている。

おそらく、建物取り壊し跡地での教師とシュリッテンバウアーとの会話は、当初、「何を探しているの?」といった会話から始まり、

次に、教師が何も問わないのに、シュリッテンバウアーのほうから、地下室の厚い壁のことや、事件に関することを語り始めた・・・ということではないかと思われる。)

 

 雪上の足跡

 

クサーファー・マイエンドレスという元刑事が1948年に記した覚書によると、3月29日(水)の夜から雪が降ったと、そしてその雪の上に、森から農場建物へと続く足跡が残っていたが、農場建物から森へと向かう足跡はなかった、との目撃証言が得られた。

 

マイエンドレスによると、その足跡はフォルダーカイフェック(カイフェックの別名)の方角から続いていたというので、ここでいう「森」とは農場南側にある「魔女の森」で間違いないと思われるが、
足跡については一人分とも二人分とも言ってはいない。(わざわざ「二人分(ないしそれ以上)」と言っていないところを見ると、一人分だったのかもしれない。)

 

これとは別に、4月1日(日)の午後3時~午後5時ごろに猟をしながら農場建物の近くまで来た人物が、残雪の上に森の方角から農場建物へと続く足跡を目撃している。
(例によってここでも、逆方向つまり「農場建物から森の方角へと向かう足跡」はなかった、ということになっている。)

 

この人物やその猟仲間が使う猟小屋が、農場建物から西に約2km離れた地点にあり、その日の夜はその猟小屋で休んだというので、
この人物の言う「森」とは、農場建物の西に広がる(シュローベンハウゼンの方角へと広がる)森であって、南側の「魔女の森」ではないのかもしれないが、
しかし、「足跡は建物の西側の森から続いていた」とも言ってはおらず、この人物が目撃した足跡は、先のマイエンドレスが言及している足跡---魔女の森から?農場建物へと続いていたと思われるそれ---と同じものだった可能性もあるかとは感じた。
(この人物も、足跡について一人分とも二人分とも言ってはいないが、わざわざ「二人分ないしそれ以上」と断っていないところを見ると、一人分だったのかと思われる。

単語が単数形か複数形かで判断し得るかとも思ったが、「一人分」であれ「二人分ないしそれ以上」の足跡であれ、足跡はもともと地面に多数残るものなので、一人分であっても複数形で表したということも考えられるし、二人分ないしそれ以上の足跡でもまとめて単数形で表すことも考えられるかと思い、その方向からの判断は控えた。)

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(足跡の方向を赤矢印で示してみた。森から建物へと続いていたという足跡は、まずカイフェック方面からのそれがあり、次に、猟をしていた人物が4月1日に目撃したのもそれと同じかもしれないが、もし違うとすれば、それは西側のシュローベンハウゼン方面の森から続いていたのかもしれない。ただ、森のどのあたりかも含めて判然としないので、シュローベンハウゼン側からは、候補として2本矢印を引き、「?」を付けた。)

 

 

農場北側の小道からエンジン小屋(およびその横の飼料置き場)に続いていたとされる足跡については、警察による、

 

「あなたは『事件の1~2日前に、アンドレアス・グルーバーとともに、新雪の上に残った二人分の足跡を見た』と言っている。しかし他の証人の中には、『アンドレアスが農場敷地内で何度か一人分の足跡を見たと言っていた』と証言している者もいるが?」

 

との質問に対して、シュリッテンバウアーは、

 

「それについては知りません。いずれにせよ、私が見たものは二人分の足跡だったのです」

 

と答えている。

 

ここで警察が言っている「アンドレアスが農場敷地内で何度か一人分の足跡を見たと言っていた」と証言した人物は誰なのか、

また、その証言内容の詳細はどういったものだったのか、多数残る調書の中に探してみたが、見つからなかった。たぶん無いと思うが、調べ方が悪いのかもしれない。

 

おそらく、当時そういう証言をした者がいたが文書にされなかったのか、それとも、文書にはされたが、第2次大戦中の連合国によるドイツ空爆の際に焼けてしまった可能性もあるのかと感じた。
(実際、ミュンヘンやアウクスブルクの空爆で多数の書類が焼失したのは事実のようで、被害者たちの首さえ行方不明になっている。)

 

 警察犬

 

遺体発見日の翌日(4月5日)、ミュンヘンからは2頭の警察犬もやって来た。

 

ヒンターカイフェックには4月5日の約10時間しかおらず、同日中にミュンヘンに引き返して2度と再び現場に来ることはなかったという当時の捜査主任ゲオルク・ライングルーバー@ミュンヘン警察のレポートには、
「警察犬は、雪や雨など折からの悪天候のため、犯人の痕跡を追跡できなかった」
と記されている。
(昨今の事件を見る限り、仮に天気が良くても、警察犬の鼻はなかなか機能しないのが現実かもしれない。ましてやヒンターカイフェック事件では、大勢のやじ馬が敷地内を踏み荒らし、警察犬にとってはあまりに不利な状況でもあった。)

 

 ニュルンベルクの霊媒のもとに送られた6人の首

 

遺体はグルーバー家中庭での検死後に、首が切り離され、ミュンヘン大学の病理学研究所に送られて標本処理が施され、その後に、ニュルンベルクの霊媒のもとへと送られた。

 

3人の女性霊媒に事件に関する見立てを聞いており、実施日は、1922年5月の2日、3日、8日、9日となっている。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(ニュルンベルクは、ヒンターカイフェックの北方約100kmの位置にある)

 

ノイブルクの地裁から派遣されたアウミュラー医師による事件現場での検死と、それに伴う頭部の切断が4月6日(木)~4月7日(金)、
首のない遺体がヴァイトホーフェンの教会墓地に埋葬されたのが、4月8日(土)。

 

ミュンヘン大学に首が送られたのが何日なのか、また、標本処理にどれくらいの日数かかったのかは不明ながら、いずれにしても、結構早い段階で霊媒のもとへと送られているのがわかる。

 

この事件は被害者らの頭部への打撃が顕著であり、傷口も、小さな星形や丸形、三角のものが混ざるなど謎が多く、

主たる凶器はつるはし様のものであるとしながらも、他にいくつかの凶器が用いられたものと推察され、しかしながら、遺体発見直後にはまだこれといった凶器が見つかっていなかった。

 

凶器を特定するには、頭蓋骨を証拠として保存しておく必要があると考えられた、との情報があるので、おそらく首の切断について、当初はその目的だったのだろうと思われる。

 

それがなぜ、霊媒に依頼するといった流れになったのか、調べてみたが分かりにくかった。

 

どうも、もともとの始まりは、バイエルンの教育文化省の役人で、心理学や教育学の専門家でもあったオスカー・フォーゲルフーバーという人物が、先の3人の霊媒のうちの一人---非常に優れた霊媒として世評が高かったという---に関心を寄せており、事件解決の助けになるのではないかとして当局に薦め、当局がこの話に乗ったのが始まりのようではあった。

 

遺体の首や遺留品の数々を霊媒のもとに持ち込み、検事、警察官、司法助手、超心理学の研究家(兼獣医)なども立ち会う中で聞き取りが行われたが、

めぼしい結果は得られず、捜査には肯定的にも否定的にも影響を与えることなく、以後、この方面からの捜査は打ち切られた。