※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います。※※
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「その9」までで年表が終わりまして、紹介すべき点はだいたい網羅できたかと。
ここまで書いてみての愚痴になるのですが、一つ一つのエピソードについて、たとえば5人とか10人とかの人が証言しているとして、皆さんバラバラなことを仰られるというか、バシッと一致することのほうが珍しいです。
同じ一つのエピソードであるにもかかわらず、ある人はそれが起きたのは午後4時ごろであるといい、ある人は5時ごろである、ある人は6時ごろであるとか、時間もバラバラ、日付が食い違うことも珍しくなく、誰がどうしたとか、誰が何を言った、物事の起きた順序なども、証言者によって往々にして食い違いがあり、
とにかく、記憶違いや説明不足(言葉足らず)、又聞きゆえの間違いなどで混乱した状態から、各人の証言を丁寧に拾いつつ、情報の取捨選択も行い、整合するように並べて、自分なりに「こうだろう」と思える一つの筋の通ったエピソードとして紹介する、といったやり方をさせていただきました。
本来なら、一つ一つのエピソードについて、すべての証言者の証言を---たとえそれが相互に食い違いというか矛盾が目立つものであっても---余さず紹介するのが望ましいと思うのですが、それをやると書く量が増えすぎて無理ですので・・・。
ともあれそういったことにつき、こちらでこれまで紹介したことが、事実のすべてだとかはあり得ません。
前にも申したのですが、細部について疑義がある~より詳細に知りたい~矛盾しあっていてもかまわないので証言の隅々まで知りたいといわれる方は、独自にググって調べてみていただければと。
お勧めは、やはりどうしてもドイツ本国のサイトになります。(英語のは、この事件に関してはサイト数は多いながらも、大抵は概要の紹介に終始しており、情報量が少なく、間違いも多いと感じました)
次に捜査の部分を書こうと思うのですが、捜査してみたらこれまでこちらで紹介したようなことが分かったというくらいで、結局大したことは分からずじまいだったのですが、そちらに行く前に、少し写真を紹介しようかなと・・・。
下の5枚は、バイエルン州インゴルシュタットの警察博物館に展示されている、ヒンターカイフェック農場建物の模型です。(展示期間は2019年9月までとのこと)
南の空から。
再掲。
南から。母屋の西側には、菜園や金網があった。
西から。
納屋の北側にあるエンジン小屋(中央やや下)。これだと木造っぽいが、実際のそれはレンガ造りだった。修理工はここに入ってエンジンの修理を行った。
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遺体の第一発見者の一人であるローレンツ・シュリッテンバウアー(写真中央、帽子)と、同じく第一発見者の一人であり、ローレンツの長男でもあるヨハン・シュリッテンバウアー(右端)。
この写真は1931年撮影とされているので、ローレンツ57歳、ヨハン25歳ごろと思われる。遺体発見直後、ヨハンは自転車の後部座席から村人たちに向かい、殺人事件発生を叫びまくった。
写真に写っている女性について、左から、シュリッテンバウアーの次女ヴィクトリア(推定)、シュリッテンバウアーの妻アナ(1921年5月の再婚相手)、再婚による三女アナ(再婚後は5人の子供ができた。最初に生まれた女子は、生まれてひと月ほどで死亡)、前妻の母親(前妻の死後も同居していた、撮影時83~84歳)。
ローレンツ・シュリッテンバウアー拡大。インターポールの銭形かと。
遺体の第一発見者の一人であるヤコブ・ジーグル(1891~1972)。第一発見者の一人であるミハエル・ペルの写真は見つからなかった。ペルは遺体発見の2年後に死亡している(享年59)。
1921年夏ごろにメイドのクレスツェンツ・リーガーの部屋に夜這いをかけてきたという、カイフェック出身のターラー兄弟。左が兄のヨーゼフ(1896~1970)、右が弟のアンドレアス(1899~1981)。
この二人は盗みで知られていた。同様にメイド部屋に夜這いをかけてきたとされるビヒラーの写真や、メイドのクレスツェンツ本人の写真も欲しいところだが、見つからなかった。
ヴィクトリアの亡夫であるカール・ガブリエル。1914年12月12日、フランス北部アラス近郊のヌーヴィルサンヴァで戦死。ガブリエル家の6人兄弟の長男だった。
カールの故郷ラークの実家の前で、ガブリエル家の集合写真。
右から、父カール・ガブリエル(長男と同じ名前)、母フランツィスカ、長男カール(20歳ごろ)、次男ヨーゼフ、三男シュテファン、四男クサーファー、五男ヤコブ、六男アントン。
長男カールと三男シュテファン、四男クサーファーは第1次世界大戦で戦死した。
生き残った次男ヨーゼフと、五男ヤコブ、六男アントンは、事件から15年後の1937年、ヒンターカイフェック殺人事件の容疑者として取り調べを受けた。
事件当時のガブリエル家のメイドがいくつかの状況的に、「なんとなく、彼らが怪しいような気がする」的な噂を立てたことに端を発したもので、確たる証拠があったわけではなかった。
五男ヤコブは、実家のラークで家業(農業)を継いでいたが、次男ヨーゼフと六男アントンは、別の土地でそれぞれ良い家を購入して住んでいたので、そういった金はどこから出たのか?・・・といった点も追及されたが、ほぼすべて実家の貯金で賄ったことが判明し、これといった証拠もなく、身柄拘束から3週間後に釈放されている。
右側、ヴァンゲンの区長、ゲオルク・グレガー氏(1867~1947)。
ヒンターカイフェックがあったグレーベルンは、現在はヴァイトホーフェンに属しているが、当時はヴァンゲンに属していた。
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被害者たちの生前の写真---間違いないといえるそれ---はまだ見つかっていない。
死後の写真も、このブログで紹介した警察の手による数枚の現場写真以外は存在していない。(遺体を目視し得る写真は、納屋の2枚と、メイド部屋の1枚、つまり計3枚のみ)
そんな中、唯一、被害者の生前の写真の可能性があるとされているのがこれ。
地元の郷土史の研究家が掘り出したとして、2012年に本国の掲示板で紹介されたもので、もともとは、地域の人々や建造物など、古い写真の収集を趣味とする某教師のコレクションの一枚だったという。
ただしこの写真、裏に手書きで「1922年 ヒンターカイフェック6人殺害事件」とあるのみで、何年に撮影されたのか、また、ここに写っているのが誰なのかについての説明はなく、また、地元のマニアがこの写真についてグルーバー家の子孫に尋ねてみたが、写っているのが誰なのかはわからなかった。
自分としては、初めてこの写真を見たとき、当然にこれは被害者たちの生前の写真だろうと思った。
フェイクでない限り、建物は間違いなくヒンターカイフェックのそれだと思われたし、この建物の住人(つまりグルーバー家の人々)は、村人たちが口をそろえるほどに「近所付き合いが薄かった」というのだから、この建物を背景に「いかにも住人ぽい人」が写っている以上、それは、グルーバー家の人々以外に考えられないのではないかと、
また、ここに7歳ツェツィーリアや2歳ヨーゼフが写っていないということは、残るメンツはアンドレアス、その妻ツェツィーリア、娘ヴィクトリア以外にないのであって、写っているのは、左から順に、アンドレアス、ヴィクトリア、ツェツィーリアということでいいのではないか、と感じたのだった。
しかし---おそらくはこの写真のヴィクトリア(とおぼしき、ドアの前に立っている若い女性?)があまり美人に見えない・・・という事実がにわかには受け入れがたかったのだろう---本国のマニアたちが、写真の細部を拡大して、植物の伸び具合や影の位置を見たり、事件直後の建物画像(警察撮影)と比較して壁の剥がれ具合を見たりしながら展開した、涙ぐましい議論の中身を見るうちに、
ここに写っている人々の正体については、現時点では、どちらかというと、「被害者ではない人々が写っている可能性のほうが高いのではないか」・・・という方に、見方が変わってきている。(あくまで印象の話。)
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とりあえず、画像を色付きの枠で区分けし、(色が映えるように、背景を白黒にした)
それぞれの部分を拡大してみる。まずピンク枠。
左端、建物裏手には樹木があったであろうことが見て取れる。瓦はこんな感じ。
一階部分の二つの窓は、グルーバー夫妻の寝室の窓。
窓枠に斜めの棒が取り付けられている。
郵便配達人は、新聞を台所の窓とそこに取り付けられた棒との間に挟んでいたというが、こんな感じの部分に新聞を挟んでいたのかもしれない。
男性と自転車、男性は左手になにか持っているが、おそらく帽子のつばかと思われる。
水色枠の拡大。
ドアの前、足先を閉じてほしいところ。
このゴツい感じの靴は、木と皮でできた作業靴であり、ズボンをはいているのも、「畜舎作業時における衛生上の観点からだろう」と推測されているが、単に「男だから」としている向きもある。(私には女に見える)
右端の窓、金網によるメッシュが入っているように見えるが、よくわからない。
グルーバー夫妻の寝室と同様、窓は開放されており、生活感がうかがえるかと。
手前のレンガの部分が、これまでに何度か紹介した下の屋内見取り図で、
「地下室の出口(あるいは、地下室の上部構造部分)」としている部分。
このレンガの部分、上部は金網で囲まれ、その中に板が置かれたり細木が生えたりしているようにも見えるが、ここから地下室への出入りはできたのだろうか?
黄色枠の拡大。
中央下に、皿が二つ見える。
犬用かニワトリ用か、それとも他の家畜用か、使われているのか、それとも使われていないのか、この写真からはわからない。
皿の後ろ、地下に潜る入り口かと思えるものも見える。
こんなところから出入りするものだろうか、これもよくわからない。
緑枠の拡大。
中央やや左が畜舎のドア。建物の向こう側(北側)の窓が見えている。
右端のドア、これが、遺体発見時に唯一カギが掛かってなかったドアで、第一発見者らはここから納屋に進入した。
瓦の様子はこんな感じ。
事件後の捜査で、こういった瓦の2か所がずらされ、その隙間から中庭を覗けるようにしてあったことが判明している。
人物拡大。
明らかに男性であるとわかるもので、アンドレアス・グルーバーの可能性も指摘されている。
私も初めて見たときは、当然にそうだと思った。
少し腑に落ちなかったのは、アンドレアスが1年間服役したシュトラウビング刑務所の記録(1916年)によると、アンドレアスの身長は165cm(体格がっしり、暗めの金髪、広い額、横に広めの鼻、茶色の目)となっており、
また、事件後の証言の中に、1921年ごろのアンドレアスの風貌についてのものが一つあるが、それによると、身長は165~170cm(体格がっしり、立派な口ひげあり、白髪)だったとし、
当時6歳だったツェツィーリアの同級生の記憶では、「アンドレアスは大男で、身長は190cm、非常に強く乱暴な男だった」とされており、
6歳女児の証言は、恐怖を呼び起こすような殺人事件の記憶の中で、「アンドレアスは大男だった」ということになっている可能性があるのであえて無視するとして、背は165~170cmだったとしても、「がっしりしていた」という部分は無視できないと感じるのだった。
また事件後に二人の証人が、アンドレアスについて、60を超えていたが壮健で強い男だったとしている。
ところが写真の自転車の男性は、どちらかというと細身のなで肩で、壮健で強いがっしりとした農夫にはまったく見えないのだった。
そもそも、他の二人が仕事着と思われるのに、この人は仕事着ですらなく、帽子片手にチャリを支えた姿だった。
家長として家族の集合写真に納まる姿としては、確かに、不自然なものがある気はする。(写真家が気を使って撮影前にチャリと帽子を片付けさせる・・・ということもなかったものと思われる)
しかし、体格のことも含めて、「たまたま写真ではそんな風に写ってしまったのだろう(よくある話)」と、私は深く考えもせず片づけてしまっていた。
他の二人を拡大。
当初、ドアの前の人物については、金髪つまり髪色が薄いから、こんな風に皮膚と一体化したかのように写っているのかと思った。
しかしこうしてみると、髪を後ろに束ねておでこを全開にしているようでもあり、単に禿げているかのようでもある。
髪を後ろに束ねておでこ全開・・・といったところが妥当だろうか。
ドイツ人たちの間では、「おでこが広すぎる」と指摘されている。
これは、シュトラウビングの刑務所で「広い額」と記載された父アンドレアスの遺伝子だからそうなのだろう、だからこれはヴィクトリアなのだ、とする向きもある。
この時代の家族写真?にもかかわらず、仕事着のような格好で、手を前で組んでかしこまっているような態度に、「本当にヴィクトリアか?(メイドではないか?)」と、疑問を呈する向きもある。(ヴィクトリアは一応、名義上はヒンターカイフェックのオーナー)
ニッコリ笑っているようにも見えるが、これも、この時代の家族写真としては珍しいとの指摘があった。真偽はわからない。
さらに、右側の人物について、私は当初、これはアンドレアスの妻ツェツィーリアなのかなと。
しかし、本国のマニアたちの議論には別の見方もあり、そもそもこれは女ではなく、男(眼鏡とエプロン着用)であると、
年を取っているようだが、骨組みはがっしりしているようであり、オデコが広いことから、これが畜舎での仕事着を着ているアンドレアス・グルーバーその人ではないか、
カメラに向かってろくにポージングもしない不愛想な態度から、この人物こそが家長であることがうかがえるのではないかとか、そういった見方もあった。
(この人物を仮にアンドレアスとした場合、自転車の男性は「郵便配達人」ではないか等々の見方がある)
右側の人物がアンドレアスかどうかは別としても、
「これは女ではなく、男である」
「エプロンは仕事着」
という見方は、ドイツ人の目からしてそう荒唐無稽でもないようであり、
以前に少し言及したドイツの地方新聞『ドナウクーリア』にも、「この男性はアンドレアス・グルーバーなのだろうか?」との一文が見られた。
そこで、仮にこの人物を「男」として考えてみるとすると、その候補としては、
1.「アンドレアス・グルーバー」
2.「アンドレアスの一つ前のオーナー=ツェツィーリアの前夫(1885年5月に32歳で死亡)」
3.「アンドレアスの二つ前のオーナー(1877年4月に農場の権利を24歳の息子つまりツェツィーリアの前夫に譲り渡した)」
4.「名無しのお手伝いさん(雇い人)」
5.「カール・ガブリエル=ヴィクトリアの亡夫の父親=ガブリエル家の家長」
このあたりになるかと。
1について、普通に可能性があるだろうと。
2について、32歳で死んだ前オーナーは、写真の人物(60前後?)とは年齢的に合わないと思われるので、これはないだろうと。
3について、仮に3だとすると、この写真の撮影年は「1877年4月以前」の可能性が高くなるが、事件後の証言の中に、「事件のあったあの家は、1908年~1909年にかけて建てられた」というものがあり---建物自体は1860年代から存在したので、1908年~1909年にかけて行われたのは「建て替え」と思われるが---その建て替えを経た建物が1877年4月以前に撮影された写真に写っているというのはおかしいので、これもないだろうと。(同じ理由で、2も再び否定されるかと)
残るは4、5の可能性だが、4はともかくとして、5は何なのか?
なぜ突然に、ヴィクトリアの亡夫カールの親父さんであるガブリエル家の家長「カール・ガブリエル」が、候補として出てくるのかということについて、
実はこの人物を候補にする理由が大ありで、この人物は、1923年春(つまり事件の1年後)にこのヒンターカイフェックの建物を取り壊した張本人なのだった。
事件後、主を失った土地建物をめぐって、グルーバー側の遺族とガブリエル側の遺族とで相続をめぐる争いが起きたが、
結果的には、土地建物は、敷地内の森も含めてガブリエル側が受け継ぐことが決まり、グルーバー側には金銭的な補償がなされることになった。
(1922年9月、当該土地建物の名義は、ガブリエル家の次男であるヨーゼフ・ガブリエル<当時31>のものとなり、ガブリエル家からグルーバー側に300万マルクが支払われた。この時点でインフレがかなり進んでいたものと思われる。)
当然それ以降は、ガブリエル家の人間は「オーナー」として、ヒンターカイフェックには出入り自由の身となったが、実はそれ以前にも、家畜の保全を気にかけたガブリエル家のメンツが、事件を知った直後からヒンターカイフェックに赴いて家畜の世話をしたという、当時のガブリエル家のメイドの証言があるのだった。
このメイドには虚言癖があったとされ、のちに「ガブリエルの3兄弟も含めた数人に対して虚偽の訴えを起こし、その人々を困難に陥れた」として処罰されているので、その証言をどこまで信用していいかは不明ながら、
少なくともガブリエル家の人間は、事件の半年後に名実ともにヒンターカイフェックのオーナーになる以前から、徒歩15分ほどのところにある同農場に足を運んでは、建物の維持管理、家畜の世話、農作業などを行っていた可能性があると思われるのだった。
(ガブリエル家の畜舎は小さかったとのことで、ヒンターカイフェックの家畜はガブリエル家の畜舎に引っ越しをさせず、そのままヒンターカイフェックで管理していた可能性が高いかと。)
では、写真の人物について、「カール・ガブリエル」の可能性はあるのか、
この点を考えてみる場合、まずは、写真が撮影された時期を推測してみる必要があるのかなと。
そこでこちらの画像、
上半分の白黒部分が、事件直後のミュンヘン警察撮影のそれ(1922年4月5日撮影)、
下半分が、郷土史家が発掘したとして、2012年に紹介されたそれ、
双方ともに、畜舎のドアの上あたりの屋根瓦の部分となる。
シミかコケかはわからないが、黒いドットの位置が多くの個所で一致しており、双方の撮影時期は近接していたのではないかという推測が働く。
さらにこの画像、
これも、上半分の白黒部分が、事件直後のミュンヘン警察撮影のそれ、
下半分が、郷土史家が発掘したとして、2012年に紹介されたそれ(以下、「セピア」という)、
建物の壁の剥がれた?痕もそっくりだが、水色矢印の付け根の部分を、目を凝らして見てほしい、木の枝とおぼしきものが、薄っすら写っているのがわかると思う。
さらに水色矢印の先端を見ると、そこにも木の枝とおぼしきものが写っており、白黒のそれと形も長さもよく似ており、ここでもやはり、撮影時期の近接がうかがわれるかと。
植物の葉は、おそらく白黒のほうは、葉が落ちているのではないだろうか?(撮影は遺体発見翌日の4月5日で、まだ雪やみぞれが降る時期だった)
セピアのほうは、植物に葉がついているが、しおれて散りかけているようにも見えることから、秋っぽい気がするがどうだろうか。(服装も、暑い季節ではないように見える)
さらにピンク矢印の先、これは畜舎の窓だが、ガラスがはまっていたのかどうかはわからないが、白黒のそれとセピアのそれとで、欠け方が違うことが見てとれる。
写真の写り具合で、たまたまそんな風に写ってしまっただけかもしれないが、少なくともこの画像からは、セピアのほうが欠け方が大きいことがわかり、これを素直に解釈すれば、セピアのほうが時期的にはより後に撮影された、と言えるのではないだろうか。
つまり、セピアのほうは、グルーバー家の全員が殺害された後に撮影されたものだ・・・と解釈しても、そう不自然ではないということになるのではないかと。
ではグルーバー家の人々が全員殺害された後に写っている、これらの人々は、いったい誰なのか?と・・・。
この点、あるドイツのマニアの方が、人物画像を用いて興味深い指摘をしていたので---その画像は少し粗いものだったので、私が見やすいものを作り直した---以下、その方の見解を紹介してみたい。
それによると、画像の人物は、やはりガブリエル家の家長であるカール・ガブリエル(1861~1931)その人であり、
ドアの前で手を前で組んでいる女性(とおぼしき人物)は、カール・ガブリエルの妻フランツィスカ(1867~1941)だというのだった。
左が、ガブリエル家の集合写真から、家長のカール・ガブリエル(47歳ごろ)を拡大したもの、
右がもしカール・ガブリエルであり、撮影年が1922年の事件後だとすれば、この時の年齢は61歳ごろで、生え際が後退し、年齢相応に眼鏡を着用していたということになるかと。
右手人差し指をやや突き立て気味にするところにも類似がみられる、と指摘されているが、そのあたりは自分にはよくわからない。
同じく、ドアの前の女性と思しき人物、
左が、ガブリエル家の集合写真から、妻フランツィスカ・ガブリエル(41歳ごろ)を拡大したもの、
右も同人だとすれば、55歳ごろということになる。
写真撮影時に、左手で右手の手首をつかむ本人なりのスタイルがあるらしいことは一見してわかるが、しかし、右側は本当に55歳の女性だろうか?
これが35歳のヴィクトリアだといわれても、「若く見える」というのが自分的な感想だが(下手をすると16歳ぐらいに見える)、
ここで、このおでこの女性の候補に挙げていいと思うのが、ガブリエル家の当時のメイド(マリア・ミッセルという女性)ではないかと思う。
このメイドが1922年当時、16歳なのだった。
いずれにしても、先の眼鏡着用とおぼしき人物がカール・ガブリエル(61)であり、ドアの前の女性と思しき人物がその妻フランツィスカ(55)、またはメイドのマリア(16)だったとすれば、
この写真が撮影されたときには、カール・ガブリエルがその妻(または16歳のメイド)とともに、ヒンターカイフェックにおいて、1923年春の建物取り壊しに向けて何らかの準備作業を行っていた・・・と見ることができるかもしれない。
(ガブリエル家では、取り壊しの際に出た部材を用いて、ラークに大きな畜舎を建設した)
では、最後の自転車の男性はだれなのか?というと・・・、
ヴァンゲンの区長ということになる。(髪の分け方、口ひげ、顔立ち、細身、なで肩、服装、帽子。区長の写真は当記事内で紹介済み)
もし本人であれば、セピアのほうの撮影時には、55歳ごろだったということになる。(1867年生まれ)
先の2名はともかくとして、この自転車の男性については、「ヴァンゲンの区長で間違いないのでは?」という気がする。
区長は1923年(事件の翌年)にその職を辞している。
もしこの自転車の男性が区長であれば、「建物が取り壊される前に一枚」ということで、カメラマンとともに訪れた・・・といったところだったかもしれない。
ガブリエル家のメンツは撮影を予告されていなかったので、撮影用に着飾ることもなく仕事着のまま、メガネの人物(この場合はカール・ガブリエル)に至ってはポーズも取らず、
撮影のテーマはあくまで「(取り壊し予定の)建物そのもの」であり、人間に重きは置かれていないので、区長も、帽子片手に自転車を支えながらの、肩ひじ張らない気楽な撮影となった・・・といったところが想像できるかもしれない。
最後にこの写真、
これは、ドイツのマニアが集う掲示板で、2008年7月、「ヒンターカイフェック事件について関心を持ち調べている」と称する人物が、
「私の知り合いのおばあちゃんの家を探していたら、こんなクラス写真が見つかった。撮影は1921年9月で、写っているのはヴァイトホーフェンの小学校の生徒である。おばあちゃんは2008年4月末に94歳で亡くなったが、この人は、殺害されたツェツィーリア・ガブリエルと同じクラスだった。どの女子かは分からないが、この写真の中にツェツィーリアが写っているはずだ」
として公開し、議論を呼んだもの。
(実際の写真公開に至るまでの経緯はもう少し念入りで、写真を公開したその人物は、「ツェツィーリアと同じクラスだった」というそのおばあちゃんの存在や「おばあちゃんへの聞き取りで判明した」と称する情報については2007年9月から言及を開始しており、
その後、2008年4月に、「今朝、悲しい知らせを受け取った。私に事件のことを教えてくれていたおばあちゃんが、94歳で死んだ」と報告し、その約3か月後に、「亡きおばあちゃんの家を捜索したら、このクラス写真が出てきた」として写真を公開した。)
写真の公開を受け、そこに写った女子の顔と、ツェツィーリアの父親(つまりカール・ガブリエル=ヴィクトリアの亡夫)の顔写真とを比較しながら、どの女子がツェツィーリアであるのかを特定しようとする動きも一部に見られたが、
結論としては、この写真は、1931年にヴァイトホーフェンから北東に遠く離れた「ポンメルン」という地域---この地域は第2次世界大戦終結以前はドイツ領だったが現在はポーランド領となっている---の「クライン・ルーノウ」という小村で撮影された小学校のクラス写真であり、
右端の足を組んでいる男性は「カール・ツィールケ」という、当地最後のドイツ人教師であったということが判明している。
ツェツィーリアの画像をググると上のクラス写真が出てくるので、先の経緯を知らない人は、このクラス写真の中にツェツィーリアが写っているものと、鵜呑みにしてしまう可能性がある。
この事件は、実際の遺体写真ではないものが遺体写真として出回っていたり、ヴィクトリアの亡夫カール・ガブリエルではない人物の写真がカールのそれとして紹介されていたりするので、なにかと注意を要するかと。
(クラス写真は、ヴァイトホーフェンから北東に直線で約750km離れた小村クライン・ルーノウ@ポンメルンで撮影された。ポンメルンは、犬のポメラニアンの原産地としても知られる。ポンメルンのドイツ系住民は、第2次世界大戦後に強制退去させられ、クライン・ルーノウは現在、ポーランド名「ルノボ・スワビエンスキエ」とその名を変えている)