ヒンターカイフェック殺人事件・その9(1922年4月1日~1922年4月5日未明) | 雑感

雑感

たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

ヒンターカイフェック殺人事件

(犯行翌日の深夜、グレーベルンに住む一人の大工がグルーバー家北側の道を歩いていると、その道わきにあるグルーバー家のパン焼き小屋の煙突から煙が出ており、半開きとなった扉の奥にはかまどの火が見えた。何かと思い立ち止まって見てみると、突然扉が開き、中から黒い人影が現れた。比較的大柄と見えたその人影は、懐中電灯を手にした腕を前方に伸ばし、大工の顔を正面から照らしながら無言で近づいてきた。まばゆいばかりの光に、大工は一瞬目が眩んでしまった。人影は光を浴びせかけながら大工の顔を覗き込んでいたが、それ以上は何もせず、無言のまま農場建物のほうへと立ち去った。大工は恐ろしくなり走って逃げたという。)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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1922年4月1日(土曜日)、この日、7歳のツェツィーリア・ガブリエルは、通っていたヴァイトホーフェンの小学校を欠席した。
教師の提案により、クラスの皆で、ツェツィーリアの健康回復のためにお祈りをした。
ただし、ツェツィーリアは平素から病気がちで学校をよく休んでいたため、教師も生徒も、彼女の欠席を特に訝しく思うこともなく、ヒンターカイフェックまでツェツィーリアの様子を見に行った者はなかった。

 

同日、正午~午後2時ごろ、コーヒーの行商人が、注文のコーヒーを持ってグルーバー家にやってきた(「注文を取りに来た」とも)。
行商人は20代と10代の兄弟で、ヒンターカイフェックの東に約100kmのところにあるシュトラウビングという町---ここはかつてアンドレアスが近親相姦の罪で刑務所に収監されていた町---を拠点に活動していたが、ヴァイトホーフェンやシュローベンハウゼン、ヒンターカイフェックのあるヴァンゲンなど、西方の地域でも彼らは行商の旅を行っていた。
グルーバー家に到着した彼らは、南側の正面玄関をノックし、家人を呼んだが返事はなかった。
誰もいないのかと、何度か窓を叩きながら大声で呼び掛けてみたが返事はなく、建物の周囲をまわって台所や畜舎の窓から中を覗いてみたが、人の姿を見つけることはできなかった。
納屋の西側のドア以外はすべて鍵が掛けられており、音といえば、犬や家畜の鳴き声がするのみだった。
行商人の兄弟はやむなくそこを離れ、グレーベルンの集落に赴いて、シュリッテンバウアーの家族やその近隣の人に「グルーバー家には誰もいなかった」旨を伝えた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(行商人は母屋南側の玄関をノックし家人を呼んだが、返事はなかった)

 

同日(1922年4月1日、土曜日)、ヒンターカイフェックの近くで農作業をしていた男性が、同農場がいつになく静まり返っていることに気づいた。
この男性は、グレーベルン在住のミハエル・ペル(当時56)という人物で、遺体の第一発見者の一人となった人物だった。(ペルは4月3日の月曜日にも、ヒンターカイフェックの近くで農作業中、いつにない農場の静けさを感じたという)

 

同日午後、ヒンターカイフェック西側のエリアで、二人の男性が猟をしていた。(二人は職業猟師ではなく、趣味の猟仲間)
午後3時~5時ごろ、二人はヒンターカイフェックの建物近くにやって来た。
見ると母屋の煙突から煙は出ておらず、敷地内を走り回るニワトリの姿もなく、人や家畜の姿はどこにも見られなかった。

家畜の鳴き声も聞こえなかった。

「まるで死に絶えたかのような静けさだ」
一人が相方にそう言った。

二人のうち一人が空腹を感じていたが、手持ちの食糧が足りなかったので、ヒンターカイフェックで卵でも買おうと建物に近づこうとしたところ、相方が「食料なら買わなくても自分のを分けてやる」というので、二人は森へと引き返した。
その途中、地面は部分的に雪に覆われていたが、地表を覆う雪のプレート上に一続きの足跡があることに気づいた。
それは森から農場建物へと向かっており、建物から森に向かうそれではなかったことが記憶に残った。
二人のうち一人が、森の中に猟のための小屋を所有していた。
夜も更けたころ、二人は他の猟仲間も加えてその小屋で話をしていたが、一人が、

「いま、窓から人が覗いたのを見た」

と言い出した。
こんな時間に、こんな辺鄙な猟小屋に立ち寄る者などいるはずがない・・・他の者たちはそう考えて、誰も彼の言うことを信じなかった。
少し後で小屋の外を調べてみたが、やはり誰もいなかった。
しかし、のちにヒンターカイフェックで殺人事件が起きたことを知ったとき、「もしかしたらあの時、犯人が小屋の外から覗いていたのでは?」と皆で言い合ったのだった。
また事件後、ヒンターカイフェックの建物あたりの様子を思い返したとき、家畜の鳴き声が聞こえなかったことについて、

「もし餌が与えられていなければ家畜は大声で鳴き喚くであろうところ、そうはなっていなかったということは、家畜は犯人たちによって餌を与えられていたのだろう」

と、猟仲間たちは言い合ったのだという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(「こんな時間に、こんな辺鄙な猟小屋に立ち寄る者などいるはずがない」・・・窓から人が覗くのを見たという証言を、他の猟仲間たちは信じなかったという)

 

同日(1922年4月1日)、グレーベルンに住む一人の大工が仕事で外出した際、行きと帰りにヒンターカイフェック農場の北側にある細道を通りかかった。
その道のすぐわきには母屋から独立したパン焼き小屋が設置されていたが、大工が朝方にそのそばを通りかかったときは、パン焼き小屋の扉は閉まっていた。
ところが同日深夜ごろ、帰りに再びそのパン焼き小屋のそばを通りかかったとき、部屋の扉は半開きになっており、かまどに火が見え、煙突からは煙が出ていた。

煙からはボロ切れを焼くような鼻を突く臭いがしていた。

何かと思い立ち止まって見てみると、突然、半開きだった小屋の扉が開き、中から黒い人影が現れた。

比較的大柄と見えたその人影は懐中電灯を手にした腕を前方に伸ばし、大工の顔を正面から照らしながら無言で近づいてきた。

まばゆいばかりの光に、大工は一瞬目が見えなくなってしまった。

人影は光を浴びせかけながら大工の顔を覗き込んでいたが、それ以上は何もせず、無言のまま農場建物のほうへと立ち去った。

大工は恐ろしくなり走って逃げたという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

(1枚目はドイツの古いパン焼き小屋の一例。2枚目は1902年発行のドイツの某雑誌における懐中電灯の広告)

 

1922年4月2日(日曜日)、グルーバー家の人々はヴァイトホーフェンでの教会のミサを欠席した。
特に聖歌隊のリードシンガーだったヴィクトリアにとっては、ミサの欠席は珍しいことだった。
(ヘッカーによると、朝、教会に行く時間にグレーベルンに住む二人の友人がヴィクトリアを誘いに来たが、誰にも会うことができなかったという)

 

同日、教会でのミサの終了後、一人の少年がラードを買うためにヒンターカイフェックを訪れたが、誰にも会うことができなかった。

 

1922年4月3日(月曜日)、7歳のツェツィーリア・ガブリエルが先週土曜日に引き続き、小学校を欠席した。

 

同日、午前8時30分ごろ、郵便配達人が新聞を届けにグルーバー家にやってきた。(新聞の配達は週3回、月・水・金だった)
郵便配達人とグルーバー家との取り決めにより、配達時には台所の窓(正確には台所の窓とその外側に付いている棒との間)に新聞を挟むことになっており、この日もいつも通り台所の窓のところに新聞を挟んだ。
郵便配達人によると、朝の新聞配達時にはよく台所で乳母車に乗って遊ぶ小さな男の子が見えたものだったが、この日はその乳母車と男の子が見えなかった。
家族の姿は見えなかったが、台所のドアが半開きになっていたので、郵便配達人は、家族は屋内のどこかにいるのだろうと思った。
畜舎の家畜がやや落ち着きなく低い声で鳴いていたが、激しく唸り声をあげているようなことはなかった。
 郵便配達人によると、この一つ前の配達分---3月31日金曜日の配達分---は台所の窓のところに挟まずアンドレアス本人に手渡しをしていたので、「4月3日(月)に配達に来た際に一つ前の3月31日配達分の新聞が台所の窓のところに挟まったままになっていた等の噂話は真実ではない。グルーバーの人々は新聞が来るのを楽しみにしていた。だから、もし4月3日に一つ前の配達分が台所の窓のところに挟まったままになっていたなら、私は怪訝に思って敷地内でグルーバーの人々を探したはずだ」とのことだった。ちなみに郵便配達人によると、「グルーバーの人々は周囲から孤立気味ではあったが、話しかければ普通に話もでき、そうとっつきにくい人々というわけでもなかった」とのことだった。)

 

同日、グレーベルン在住の一人の農夫(先述のミハエル・ペル)がヒンターカイフェックの近くで農作業をしていた。
ペルによるとヒンターカイフェックの方向からは犬の鳴き声すら聞こえてこず、いつにない静寂に包まれていたのが印象に残ったという。

 

1922年4月4日(火曜日)午後5時ごろ、6人の遺体が発見された(事件発覚)。

 

遺体発見日の流れは次のようだった。

 

まず午前9時ごろ、アンドレアス・グルーバーからエンジンの修理依頼を受けていた修理工(当時19)がヒンターカイフェックに到着した。
修理工はヒンターカイフェックから南東に約15km離れたプファッフェンホーフェンという町から、リュックサックに工具を詰め、2時間ほどかけて自転車でやってきた。

(所属会社からサービスマンとして現地に派遣された形。この会社は1922年の事件当時はプファッフェンホーフェンにあったが、修理工が本格的な事情聴取を受けた1925年には---修理工への本格的なそれはなぜか遅れた---プファッフェンホーフェンの南約7kmのところにある「ライヒャーツハウゼン」という町に移転していた。)

プファッフェンホーフェンを出発した修理工は、途中、朝8時30分ごろにヴァンゲンの区長宅に寄って30分ほど話をし、その中で「これからヒンターカイフェックにエンジンの修理に行く」旨を話している。

 

修理工によると、本来修理予定は前週だったがその期間は悪天候が続き、移動手段が自転車でもあったことから予定が延びてしまい、この日(4月4日、火)ようやく現地に赴き、修理に取り掛かることができたのだという。

修理工はこの1~2年前にもヒンターカイフェックで脱穀機の修理を請け負ったことがあり、ここに来るのは初めてではなかった。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(画像右端のプファッフェンホーフェン中心部から、ホーエンヴァルト、ヴァンゲンを経由してヒンターカイフェックまでは約18kmの道のり。グーグル地図によれば自転車での所要時間は約1時間10分)

 

到着して最初に目指したのが納屋の横にあった(と修理工が言っている)庭の門だったが、そこには鍵が掛かっていた。
そこで修理工は家の北側に回ってみたが、北側の玄関(台所の玄関)も施錠されており、やむなく、誰かいないかとその玄関の両端にある窓(畜舎の窓や台所の窓)から屋内を覗いてみたりしたが、犬や牛の鳴き声がするばかりで人の姿は見当たらなかった。
犬は鳴き声の様子からして畜舎の中に閉じ込められているようだった。

 

牛たちがやけに激しく鳴いていたが、修理工は以前「ここの農場のオーナーは変わり者で、日がな一日野良仕事に出ており、夜まで家に帰らない」と聞いていたので、牛もこうしてほったらかしにしているのかなと思い、特に気には留めなかった。

 

誰も在宅していないように思えたので、修理工は台所の玄関そばにあった果樹の近くに自転車を止め、そこで家人の帰りを待つことにした。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(建物を北から見た図。修理工は北側の玄関そばにあった果樹の傍らに自転車をとめ、家人の帰りを待った)

 

待つ間、近くにグルーバー家の人々がいるなら気づいてくれないかと思い、ときおり鋭く指笛を鳴らしてみたりした。
遠くに目をやると誰かが家畜を使って畑を耕しているのが見えた。

(あれがグルーバー家の誰かだろうか?・・・)

そんなことを考えながら待つうちに1時間ほどが経過した。

その日にはまだ他にも修理依頼が入っていた。
ぐずぐずしていては一日の予定が終わらない、そう考えた修理工は、仕事にとりかかるべく意を決して納屋北側に併設されていた小さなエンジン小屋へと向かった。

 

エンジン小屋のドアには南京錠が一つかかっていた。
修理工は南京錠が掛かっている土台の留め金そのものをドアから外し、エンジン小屋の中へと入った。

作業内容はシリンダーヘッド部分にある液漏れ防止のための部品(パッキン)交換だった。
作業中に鼻歌を歌ったり口笛を吹いたりしたのは、どこかにグルーバー家の人々がいれば気づいてもらえないだろうか、との思いからだった。

 

小屋内には冷却水を入れる深さ1mほどの貯水槽があったが、修理工は一度作業中にその貯水槽にナットを落としてしまった。
ところが運よく(?)というべきか、貯水槽には水が入っていなかった。
(これなら拾える)
そう考えた修理工がナットを拾うべく貯水槽に飛び降り、再び上ろうとした、その瞬間だった。
小屋の外で物音がした。
それはちょうど、人がマントをなびかせながら急ぎ足で通り過ぎたかのような音だった。
(家の人が戻ってきたのだろうか?)
修理工は小屋を出て周囲を見回してみた。
ところが音が聞こえてまだ数秒しか経っていなかったにもかかわらず、そこには誰もいなかった。
台所のほうに目をやると窓には新聞が挟んだままになっていた。
到着時にも目にしていた光景だったが、修理工はそこから「郵便配達人」を連想した。
では先ほどの音は郵便配達人が来て、急ぎ足で去って行ったものだったか・・・そう自分を納得させて小屋に引き返した。

 

作業は4時間半ほどで終了した。
試しに始動させてみると快調なエンジン音が農場に響き渡った。
ここでもやはり、大きな音を響かせればグルーバー家の誰かが気づいてくれるかもしれないとの狙いがあったが、音に気づいて出てくる者は誰もなかった。
修理工によると、より厳密には冷水を用いたテストを行いたいところだったという。
しかし小屋内の貯水槽は空であり、またエンジン自体も快調に動いたことから、冷水を用いてのテストはこの時は断念した。

 

修理工はエンジン小屋を出て入り口の留め金を元通りに直し、そこに南京錠を掛けておいた。
作業の完了報告をしたかったが、家人がいないとそれもできない。困ったことになった。

 

本当に誰もいないのかと、母屋西側の菜園経由で前庭に出てみた。
すると畜舎内にいるものとばかり思っていた犬が、なぜか南側の玄関わきに繋がれていた。
そこから納屋に目をやると、西側の戸が開けっ放しになっていることに気づいた。(これは修理工が農場に到着した時には気づかなかったことだと本人は言っている。)
修理工はその開いた戸の手前3mほどの位置に立ち、納屋内をざっくり眺めてみたが、特に何も見つけることはできなかった。

 

次に母屋の(南側の)玄関のほうに引き返し、ドアノブに手をかけ開けようとしたところ、玄関には鍵が掛かっていた。
そばに繋がれている犬は激しく吠えたてていた。
しかし修理工は1~2年前の訪問時からこの犬がよく吠えることは知っていたし、また農家に行けば番犬が吠えているのは当たり前の風景だったので、特に気にはしなかった。

 

南側玄関の左右の窓(グルーバー夫妻寝室・ヴィクトリアと子供たち寝室)からも室内を覗いてみたが、人の姿はなく、不審な点も見当たらなかった。

 玄関わきに繋がれていたという犬について、この犬は、遺体が発見されたときは畜舎内に閉じ込められており、なおかつ、右目あたりに殴られたかのような重傷を負っていた。しかし上述の通り、修理工はこの犬が南側の玄関わきに繋がれているのを見たというのであり、しかも他の多くの証言者らが語っている「犬の右目付近の怪我」については一切語っていない。)

 

ここでようやく修理工は家人に会うことを諦め、次の依頼主のもとへと向かうことにした。
次の依頼主はフォルダーカイフェック(カイフェックの別名)の某農場主であり、作業内容はキャブレターの修理だったが、修理工はその前にグレーベルンの集落に寄り、とある家で畑仕事をしていた二人の娘に、

「ヒンターカイフェックでエンジンを修理してきたのだが、家に誰もいないんだ。修理は完了しているということを、グルーバーの人々に伝えておいてくれないか?」

と依頼したところ、二人の娘はこれを快諾した。

(この二人の娘はシュリッテンバウアーの娘だった)

 

修理工はさらにその足で朝方にも話をしたヴァンゲンの区長宅に赴き、ヒンターカイフェックでのエンジン修理は完了したが家には誰もいなかったということ、また、グレーベルンで二人の娘たちにグルーバー家への伝言を依頼してきたこと、これからフォルダーカイフェックに行きエンジン修理をするが、そこでの仕事を終えたら帰りにまたグルーバー家に立ち寄ってみるつもりだ、といったことなどを話した。

 

その後、フォルダーカイフェックでの仕事を手早く片付けた修理工は、そこの依頼主に対し、「先ほどヒンターカイフェックでエンジン修理をしてきたのだが、家には誰もいなかった。皆どこに行ったのだろうか?」と尋ねてみた。
すると相手は、「あそこは日中はよく子供を連れて森で薪や材木を作っている。暗くならないと家には戻らないだろう」と答えたという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

(1枚目、建物の図の部分はドイツ本国の方々がこの事件を検証している掲示板からお借りしたもの。この日の修理工の動きが点線で表されている。④の「果樹の横に自転車を止め」について、この画像には描かれていないが、同時代の人による農場のスケッチによれば、④のあたりも含めて建物北側には数本の樹木が立っており、修理工はそのいずれかの樹木の横に自転車を止め、家人の帰りを待ったものと思われる。2枚目はヒンターカイフェックとその周辺の集落との位置関係。)

 

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一方、修理工からヒンターカイフェックへの伝言を頼まれたシュリッテンバウアーの二人の娘は、その話を父親に伝えた。
それはちょうど午後の休息時間のことだった。
シュリッテンバウアーは軽い食事をとっている最中だったが、娘たちは先ほど聞いたばかりの修理工の話と合わせて、3日前(4月1日)にもコーヒーの行商人が同じく「ヒンターカイフェックに人がいなかった」旨を話していた、ということを父親に話した。

 

不審を覚えたシュリッテンバウアーは16歳の長男ヨハンと9歳の次男ヨーゼフを呼び(9歳のほうは前年に結婚した新しい妻の連れ子)、ヒンターカイフェックへ行って、もし人がいれば「エンジン修理は完了している」旨を伝えてくるよう命じた。

 

息子らは直ちに出発した。
グルーバー家まではおよそ580mの道のりだった。
すぐに到着し、鍵のかかった玄関をノックして呼び掛けてみる~畜舎のドアを押してみる~家の周囲を回って窓から中を覗いてみる等、一通りのことをしてみたが、畜舎の中から犬の鳴き声が聞こえるのみで、家族の姿はなかった。
森に向かってアンドレアスやヴィクトリアの名前を叫んでみたが、返事はなかった。
台所の窓には新聞や郵便物が挟んだままになっていた。

息子たち二人は引き返してグルーバー家の不在を父親に伝えた。

 

不審の思いを強くしたシュリッテンバウアーは、隣人のヤコブ・ジーグル(当時30)に声をかけ、また息子のヨハンをもう一人の隣人ミハエル・ペル(当時56)のもとにやり、
「さきほどエンジンの修理工がうちに来た時も言っていたのだが、どうもヒンターカイフェックに誰もいないようだ。もしかすると一家心中の恐れもあるし、何か起きているといけない。とりあえず皆で様子を見に行ってみないか」
ということを提案した。

 

これを聞いてジーグルには思い当たる節があった。
事件前日の3月30日(木曜日)、ジーグルの義父(当時50)が、シュローベンハウゼンで行われる家畜市に行く途中でアンドレアス・グルーバーと立ち話をした際、アンドレアスから「雪上に残った怪しい足跡」のことや、家の鍵が失くなったこと、「悪党どもが家に入り込んでいるに違いない」といったことなどを聞いており、ジーグル自身も同日中に、シュローベンハウゼンの家畜市の場で、義父からこの話を聞かされていたのである。

 

思い当たる節があったのはもう一人の隣人、ペルも同様だった。
ペルはヒンターカイフェック農場の近くに農地を持っており、4月1日(土)と4月3日(月)には同農場のごく近くで農作業をしていたが、その間、グルーバー家の方角には人の姿も犬の走り回る姿もなく、いつになく静まり返っていたのが印象に残っていたのである。
 ジーグルは事件直後の聴取で、「シュリッテンバウアーは我々二人を誘ったとき、『もしかすると一家は首を吊っているのかもしれない。また、他の何かが起きているかもしれない』ということを言った」と証言している。ところが、シュリッテンバウアーを犯人呼ばわりして裁判沙汰になるなど争いを経た後の1952年になされた聴取では、「シュリッテンバウアーは我々を誘いに来た時、『一家は首を吊っているかもしれない。また、全員殺されているかもしれない』ということを言った」と、証言内容を微妙に変えている。)

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(現在のグーグル画像から当時存在していなかった家をいくつか消去し、第一発見者らの家の位置関係を示したもの)

 

3人はヒンターカイフェックへと出発した。
時刻は午後5時ごろ、シュリッテンバウアーの二人の息子も一緒だった。

 

一行は建物北側の道わきに設置されているパン焼き小屋のところを左に折れ、グルーバー家の敷地内へと入っていった。
調べてみると、納屋の西側のドア以外はすべて施錠されていることが分かった。
その納屋の西側のドアから5人は中に進入した。

(シュリッテンバウアーの息子ヨハンによると、このドアは鍵は掛かっていなかったが、閉まってはいた。このあたり、「納屋の西側のドアが開けっ放しになっていた」とする修理工の話と食い違いがある。)

 

入ってすぐ左側に、飼料置き場へと通じるドアがあった。
そのドアは内側からつっかえ棒がされており固く閉じられていた。
3人はドアを蹴破って飼料置き場へと進入した。
先頭にシュリッテンバウアー、次にジーグル、ペルの順で進み始めた。

 

ペルが後ろに控えていた少年たちを振り返り、

「前に一度首吊り死体を見たことがあるが、いいものじゃなかったよ。君らは外にいたほうがいい」

と言った。
しかし彼らは聞かず、大人たちの後に続いた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(建物内部の間取り。×が遺体が発見された場所。青で着色している部分はドアで、通り抜けができる)

 

初春の午後5時過ぎであり、室内はすでに薄暗かった。
飼料置き場の中央付近には手動式の干し草裁断機が置かれていた。

 

飼料置き場の左奥に目をやると畜舎へと通じる小さなドアが開けっ放しになっており、そこから、畜舎にいるはずの若い牛が、紐から放れた状態で顔を覗かせていた。

先頭のシュリッテンバウアーが畜舎のドアに向かって進むと、それに応じて飼料置き場に顔を出していた若い牛も畜舎側へと退いた。

 

目指す畜舎のドアの手前には藁や古い戸板が積まれ、小山のようになっていた。
シュリッテンバウアーはそれらに足を取られながらも、構わずそれを踏み越えて畜舎へと進入した。

 

すぐ後ろを歩いていたジーグルも畜舎のドアの手前でつま先になにかが触れるのを感じたが、床に寝ている仔牛の足にでも触れたのだろうと考え、シュリッテンバウアーの後を追おうとしたその時、後方に続いていたペルが、

「おい、足があるぞ!」

と叫んだ。

ペルもこのとき、先行する二人と同様に自分の足が何かに躓くのを感じたのだったが、ペルの場合は躓いたその物体を自分の目で見極めたのだった。

 

「おいおい、いくらなんでもそれはないだろ・・・」
先頭ですでに畜舎側に入っていたシュリッテンバウアーも、そう言いながら飼料置き場まで引き返してきた。

 

問題の物体の上には藁や古い戸板が乗せられていた。
シュリッテンバウアーがそれらをどけると、うつ伏せになった人間の足があらわになった。
それを掴んで見やすいところまで引きずり出し、裏返してみるとアンドレアス・グルーバーであることがわかった。
顔にひどい怪我を負っており、着衣はシャツとズボン下のみだった。

 

アンドレアスと重なるように、妻ツェツィーリアや、娘ヴィクトリアの遺体も藁の中から出てきた。
この二人は仰向けで、いずれも頭部に重傷を負っていたが、着衣は日中の普段着のままのようであった。(この二人については発見時の位置から引きずり出され移動させられるということはなかった。)

 

ヴィクトリアの娘で7歳のツェツィーリアの遺体は、4人の中では畜舎のドアに最も近いところの壁際で、藁に覆われ横たわっていた。
下顎に重傷を負っており、顎の下に横広がりの傷が大きく口を開けていた。
着衣は寝間着と思われるキャミソールのみだった。

 

シュリッテンバウアーは7歳ツェツィーリアの遺体を、飼料置き場の中央に据えられていた干し草裁断機の左側約1.5mの位置まで移動させた。
アンドレアスの遺体を移動させた行為に加えて、これは現状を変更する行為だった。
慌てた様子も一切見られなかったことから、これらの行為はのちにシュリッテンバウアーに疑惑の目が向けられる一因ともなった。

 

この時の行動や心持ちについて、シュリッテンバウアー自身はのちの警察の調べに対して、
「アンドレアスと7歳ツェツィーリアについては、まだ息があるかを見るために藁から引っ張り出した。また4人の遺体が見つかったこの場所に私の息子ヨーゼフもいるかもしれない、そしてまだ息があれば助けることができるかもしれない、あの時はそう信じていた(だから藁を掘り起こし遺体を移動させた)」
と供述している。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(飼料置き場、畜舎へのドアの手前あたり。4遺体の発見現場)

 

納屋の遺体は全部で4人であり、そのすべてに息が無いことが確認された。
シュリッテンバウアーは「俺の息子はどこだ?」と言いながら、怖気づく様子もなく、さらに奥に進入する構えを見せたが、

ジーグルは、「もうこれ以上奥に入るのは無理だ。いったん外に出るので、母屋まで行って内側から玄関を開けてくれないか」とシュリッテンバウアーに依頼した。
ジーグルとペル、シュリッテンバウアーの息子たちは、この時点で納屋から中庭へと出た。

 

シュリッテンバウアーは一人、畜舎内へと歩を進めた。
畜舎を通り抜ける途中で、餌を入れる長桶の中につるはしが立てかけられているのを見た。
(このつるはしは血で汚れている等は見られなかったもので、翌年の建物取り壊し時に発見された凶器と断定されたそれとは別物。)

 

すぐに台所に到達し、そこを左に折れ、突き当りにある玄関の鍵を内側から開け、中庭に待機していたジーグルとペルを再び屋内へと導き入れた。
この時、あとで問題視された行為があった。
シュリッテンバウアーが玄関の鍵を内側から開ける際に用いたのが、数日前に行方不明になっていたはずのグルーバー家の鍵だったのである。
シュリッテンバウアーによると、決して自分が盗み持っていたとか合い鍵を作っていた等ではなく、なぜかその鍵は玄関の内側にあったのだ、とのことだった。

 

3人は玄関を入ってすぐ右側の部屋に向かった。
ジーグルがその部屋のドアノブに手をかけ、下ろそうとしたが下りなかった。
「下すのではなく、上げるのだ」
シュリッテンバウアーが指摘し、その通りにするとドアが開いた。

 

部屋の右奥には大人用のベッドが二つ見えており、その足元には乳母車があった。
乳母車の天井の布は裂けて陥没しており、中を見ると幼子が頭部を砕かれ殺害されていた。
2歳のヨーゼフだった。
脳の組織が天井の布や隣のベッドまで飛び散っていた。
二つある大人用のベッドのうち、左側のそれの上には衣類を入れる箱がいくつか置いてあり、またそこには子供の貯金箱や、空の財布も置かれていた。
箱のふたが開けられているようではあったが、中が物色されているような感じではなかった。
ジーグルによると、シュリッテンバウアーはこの部屋でロウソクを探し、亡くなった2歳の息子のために火を灯したという。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(ヴィクトリアと子供たちの寝室。2歳ヨーゼフの遺体発見現場)

 

その間にジーグルは北側にある台所へと向かった。
そこは整然としており、荒らされた形跡はなかった。
ストーブの上にはスープの入ったホーロー皿が置かれていたが、ジーグルの印象では、誰かがそこから飲んだ形跡があるようには見えなかった。

 

台所の左隣には小さな部屋があった。
それがメイド室だったが、そこへと通じるドアが開いていた。
メイド室を覗くと、床の上に格子柄の布団が広げられており、その下から靴を履いた2本の足が覗いていた。
「ローレンツ! ここでも誰か殺されている!」
ジーグルが叫ぶと、シュリッテンバウアーが部屋に入ってきて、遺体の上に被せられていた布団を引きはがした。
「知らない人だ」
遺体の顔を見るなりシュリッテンバウアーはそう呟いた。
遺体はキューバッハ出身で3月31日に採用されたばかりだったメイドのマリア・バウムガルトナー(当時44)だった。
左わき腹を下にして横たわり、右の側頭部に重傷を負っていた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(台所隣のメイド部屋。マリア・バウムガルトナーの遺体発見現場)

 

その後3人は居間(兼グルーバー夫妻の寝室)にも行ってみた。
そこは整然としており、荒らされたような形跡はなかった。

 

この時点で、シュリッテンバウアーは、中庭で待機していた息子のヨハン(当時16)に、「ヒンターカイフェックの全員が殺されている」ということをヴァンゲンの区長に知らせてくるよう命じた。

 

ヨハンは9歳の弟ヨーゼフを伴い、直ちに出発した。
ちょうどそこに知り合いの農夫(当時28)が自転車で通りかかった。
ヨハンはその自転車の後部座席に乗せてもらい、道沿いで作業中の農夫や家々の住人たちに向かって「ヒンターカイフェックの全員が殺されている!」と叫びまわった。

 

息せき切って飛び込んできたヨハンの話を、ヴァンゲンの区長は、当初まったく信じなかった。
しかし何度も訴えるうちにようやく信じて、ホーエンヴァルトの警察に電話連絡した。(午後5時半ごろ
ここでヨハンはヒンターカイフェックへと引き返した。
区長もその後、ホーエンヴァルトの警官2人と合流し、3人でヒンターカイフェックへと向かった。

 

少年たちをヴァンゲンの区長のもとに走らせた後、シュリッテンバウアー、ジーグル、ペルの3人は畜舎へと行ってみた。
畜舎には番犬のスピッツが繋がれていた。
見ると誰かに殴られたものか、右目のあたりにかなり酷い怪我を負っていた。

 

家畜たちについて、ジーグルは「自分も家畜の世話をする農夫だが、その自分の目から見て、家畜たちは何日も餌を食べていないようには見えなかった」と述べている。
そこには母牛もおり、一度かそれ以上も食事を抜けば大声で鳴き叫ぶはずのところ、そういった様子は見られなかったのである。
生後8週間の子豚たちもいたが、こちらも静かなものだった。

 

しかしシュリッテンバウアーは何を思ったか、ジーグルたちに、「納屋に上って干し草を下ろしてやってくれ。一刻も早く家畜に餌をやらなければ」などと言った。
ジーグルとペルは、「家畜に餌をやるのはやめて、現場をそのままにして警察の到着を待ったほうがいい」と答えたが、シュリッテンバウアーは耳を貸さず、地下室に降りてミルクをとってきて豚に与えたりしていた。
 当時捜査に当たった主任捜査官によると、シュリッテンバウアーは明らかに飢え渇いているとみられる子豚2頭を引き取ることを申し出た、この申し出に対してヴァンゲンの区長が承諾したので、シュリッテンバウアーは2頭の子豚を自分の畜舎に引き取った、とのこと。またシュリッテンバウアーの息子ヨハンによると、「弟と二人でヒンターカイフェックに伝言を届けに行った時には家畜は鳴いてはいなかった。餌を与えられていたかはよくわからないが、渇いていたので鳴けなかったのではないか」と推測を述べている。家畜については「激しく鳴いていた」「静かだった」等の証言が交錯しており、また、仮に静かだったとしても「餌を与えられていたから」「飢え渇いて鳴く元気がなかったから」等、見方が対立しており、一概に「家畜は餌を与えられていた」と決めつけて考えないほうがいいような感じではある。)

 

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ジーグルとペルがまだシュリッテンバウアーとともに建物内に留まっていたとき、早くも数人のやじ馬がやってきた。
最初のやじ馬は、グレーベルン在住の農夫(当時25)と、その姉妹、メイドの3人だった。
彼らは、自転車の後部座席から事件発生を叫びまわったシュリッテンバウアーの息子たちの声に驚き、野良仕事を途中で放り出して駆けつけてきたのだった。
シュリッテンバウアーら3人は、やじ馬たちを各遺体のところに案内した。

 

その後、シュリッテンバウアーは、やじ馬の一人であった農夫(当時25)に、
「ヴァイトホーフェンへ行って、そこから電話で、殺された者たちの関係者---遺族たち---に事件のことを知らせてくれ」
と依頼して送り出した。

 

農夫は直ちにヴァイトホーフェンへと出発した。
途中でラークに寄り、ヴィクトリアの亡夫の実家であるガブリエル家の人々に事態を告げたが、最初は信じてもらえなかったという。
ヴァイトホーフェンに到着すると、まず教会の神父のもとに走って事態を告げた。
しかしここでも「気は確かか?」と信じてもらえず、やむなく郵便支局員のもとに行き、検察やミュンヘンの警察などに電話連絡を入れてくれるよう依頼した。
ここでも最初は信じてはもらえなかったところ、運の良いことにヒンターカイフェックから事態を知った一人の人物(家畜商)がそこにやってきたため、ようやく農夫の話は信じてもらえ、ミュンヘンの警察などを含む当局に通報がなされたのだった。

 

一方、ジーグルとペルは人々に事態を知らせるべく、グレーベルンの集落へと引き返した。
ヒンターカイフェックから引き返す道すがら、ジーグルとペルは無言だった。
シュリッテンバウアーが現場の状況をひどく変えてしまったこと、また、シュリッテンバウアーがやけにグルーバー家の建物の内部に詳しそうにしていたことが印象に残っていた。
ジーグルが思うに、シュリッテンバウアーはアンドレアスが存命のころにはグルーバー家の建物にそれほど入ったことはなかったはずであり、グルーバー家の内部についてあそこまで詳しいというのは一体どういうことなのだろうかと思われてくるのだった。

 

グレーベルンに戻る途中にも、殺人事件発生を叫びまわった先発隊(ヨハンたち)の声に反応したのか、ヒンターカイフェックへと急ぐ数人の村人たちと出くわした。
「全員殺されてしまっている」
ジーグルとペルは彼らにそう伝えた。

 

やじ馬たちが現場に到着し、南側の玄関から中に入ってみるとシュリッテンバウアーが一人でそこにおり、家畜に餌を与えるなどしていた。
シュリッテンバウアーはここでも彼らを納屋や母屋の遺体のところに案内した。
その途中、桶に入った味付け肉が目に留まると、シュリッテンバウアーはやじ馬の一人に「とって食べていいよ」と言ったりした。
2歳ヨーゼフの遺体があった部屋ではベッドの上に置かれていた空の財布なども人々に見せたが、人々の目の前でタンスのたぐいを開けて中を見せる等はしなかった。
シュリッテンバウアーに動揺している様子は全く見られなかった。

 

そうこうするうちに、さらに多くのやじ馬が集まり始めた。
このとき集まったやじ馬の一人の証言によると、自分が来た時にはすでに40~50人は集まっており、その大半はグレーベルンの村人たちだったという。

 

先にシュリッテンバウアーの案内で遺体を見て回ったやじ馬の一人が、
「人々が現場の痕跡を荒らすのはまずいんじゃないだろうか?」
と、なにかしら手立てを打つよう言ってみたところ、シュリッテンバウアーは、「もうこれだけ人々が来ているのだから、どうすることもできないよ」と答えた。

 

同日(1922年4月4日、火)午後6時ごろ、ホーエンヴァルトの警察官2名がヴァンゲンの区長とともに現場に到着した。
(シュリッテンバウアーの息子ヨハンによると、「警察が到着して人々を現場から締め出そうとしたが上手くいかず、多くの人々が建物の中に入った」とのことだが、ヨハンの言う「警察」とはこの最初のホーエンヴァルトから来た二人の警官のことかと思われる)

 

同日午後6時15分ごろ、ミュンヘンの警察やノイブルクの検察局に事件発生の電話連絡がなされた。

(当方が参照した「ヒンターカイフェックネット」というサイトによると、この電話連絡はシュローベンハウゼンの警察署からなされた。

ではそのシュローベンハウゼンの警察署には誰から一報が入ったかについては、同サイトによると「事件発生を知らせにヴァイトホーフェンへと走ったグレーベルンの村人によった」とのことなので、例の郵便支局員のもとへと走った野次馬の一報が、郵便支局員経由でシュローベンハウゼンの警察署にもたらされ、そこからミュンヘン警察へ・・・ということかと思われる。)

ともあれその後、シュローベンハウゼンの警察署からも警官が到着し、これ以降は現場に野次馬が立ち入ることはできなくなった。

 

同日午後9時半ごろ、ミュンヘンの警察から6人の警官と警察犬2頭がヒンターカイフェックへと出発した。(6人の内訳=刑事2、巡査3、鑑識1。巡査のうち2人は警察犬のハンドラー)

 

同日午後10時ごろ、シュローベンハウゼンの地裁から司法委員会のメンバーが現場に到着した。

また同じ頃にノイブルクの検察局から、検事やその助手、ノイブルク地裁所属の医師らが現場に到着した。

(2007年にミュンヘン西方のフュルステンフェルトブルックにある警察学校の生徒らが作成した論文には、司法委員会の現場到着は「4月5日、時刻不明」とある。

ただ、司法委員会のメンバーであるコンラート・ヴィースナー上級判事自身が1922年4月6日に作成したレポートには、同委員会による現場検証が4月4日の夜10時に開始されたことが記されており、またそもそもシュローベンハウゼンと事件現場は直線で5km程度と近いので、警察学校の生徒らの論文は、その部分に関しては事実誤認ではないかと思う。)

 

4月5日(水曜日)午前1時半ごろ、ミュンヘンを出発していた6人の警官と2頭の警察犬を乗せた車がヴァンゲンに到着した。一行はその夜、ヴァンゲンの区長宅に宿泊し、朝5時半ごろにヒンターカイフェックの現場へと向かった。

 

その後100年未解決となるヒンターカイフェック殺人事件の捜査がここに幕を開けた。