ヒンターカイフェック殺人事件・その12(補足情報2) | 雑感

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たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

ヒンターカイフェック殺人事件

(赤ピンの先がヒンターカイフェック。インゴルシュタットやノイブルク、プファッフェンホーフェンなどとの位置関係はこういった感じ。ヒンターカイフェックからインゴルシュタット中心部までは直線で約20km。)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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 カール・ガブリエル(ヴィクトリアの亡夫)のロシアでの生存伝説

 

第2次世界大戦が終わり(1945年)、ヒンターカイフェック殺人事件の捜査が再開された。

 

1951年11月初旬のこと、シュローベンハウゼンやヴァイトホーフェンで子供時代を過ごしたマテウス・エーザーという人物(当時38、以下「マテウス」という)が、インゴルシュタットを本拠とする新聞社『ドナウクーリア』の事務所を訪れ、事件に関連して自身が経験したある「出来事」を紹介した。

 

それによると、マテウスは1945年5月24日に、ドイツ軍の一歩兵として東部戦線から退却途中でロシア当局に捕縛されたが、

そこで出会ったあるロシア警察の高官と思われる人物がマテウスのバイエルン訛りのドイツ語を聞きつけ、「君はどこの出身か?」と尋ねてきた。

 

そのロシア人は、年のころ55~60歳程度、身長は165~170cm程度で、口ひげを生やし、胸には多数の勲章を付け、バイエルン訛りのドイツ語を話していた。

 

「シュローベンハウゼンの出身です」

 

マテウスがそう答えると、なぜか食料をくれるなど、親切にしてもらえた。

 

その後、二人の間で会話が弾んだ折にマテウスが驚いたことには、そのロシア人はシュローベンハウゼン一帯の森の小道の様子といい、どこに誰が住んでいるといったことといい、地域の様子をすべて詳細に知っていたのだった。

 

ロシア人「ヴァイトホーフェンを知っているか?」

マテウス「はい!」

ロシア人「グレーベルンを知っているか?」

マテウス「はい!」

ロシア人「ヒンターカイフェックはどうだね?」

マテウス「はい!知っています!」

 

この調子で会話は弾んだが、最後の質問についてマテウスが、

 

「自分は幼いころ、ひもじい折にはよくヒンターカイフェックに行ってパンなどを恵んでもらいました。しかし、1922年に痛ましい事件があり、犯人はいまだに逮捕されず、農場の建物はもうすでに存在しないのです」

 

と言ったところ、そのロシア人はしばらくマテウスをじっと見つめていたが、やがて立ち去ると何かが書かれた紙切れを手に戻ってきて、それをマテウスに渡し、

 

「故郷の人々によろしく。もし何か聞かれたら『ヒンターカイフェック殺人事件の犯人が釈放してくれた』と伝えてくれ」

 

そう言って釈放してくれたというのだった。

 

帰還の途中、その紙切れを見せただけで、連合軍の設けたすべての検問をパスできた。

 

マテウスはさらに、このバイエルン訛りのあるロシア人について、

 

「自分は幼いころに若かりし頃のカール・ガブリエルを見たことがあったが、年齢なども考慮すると、あの人はカール・ガブリエルだったのではないかと思う」

 

と記者に語った。

 

1914年12月にフランス北部で戦死したとされているカール・ガブリエル(ヴィクトリアの亡夫)が、実は生きており、

1922年にヒンターカイフェックで事件を起こした後、東方(ロシア)に渡り要職に就いている可能性を示したものだったが、この話はすぐに嘘であることが判明した。

 

当時のヒンターカイフェック殺人事件の担当検事が直ちにマテウスに事情聴取をしたところ、マテウスは、カールとロシアの件はすべて作り話であることをあっさり認めたのである。

 

この『ドナウクーリア』の記事が世に出たのと全く同じ時期に、同紙の系列下にあったプファッフェンホーフェンの地方新聞『プファッフェンホーフェナーツァイトゥング』でも、カール・ガブリエルの生存をうかがわせる怪しげな記事が掲載された。

 

そこでは、クサーファー・デアシュ(当時61)という人物による寄稿の中で、ミュンヘン在住のアウグスト・フーバーという人物---この人物はドイツ帝国陸軍の元軍人で、最終的な階級は情報により「大尉」「大佐」と一定しない---の名を出しながら、

フーバーがロシア抑留から解放されたときに一役買ったのが当時ロシア当局で高位にあったカール・ガブリエルその人であり、カールはフーバーを解放する際、自分がヒンターカイフェック殺人事件の犯人だと名乗った、というのだった。

 

ところが、ミュンヘンの警察が直ちにこの実名を挙げられていたフーバーに聴取したところ、「全くのでたらめである」と記事を全否定した。

 

一方で、プファッフェンホーフェンの警察が、記事の寄稿者であるデアシュ本人に聴取したところ、

 

「あれは知人からの又聞きや事件当時から伝わる噂をもとに多少の創作も加味して書いたもので、事実である確証はない。フーバー氏が話を否定しているというのなら、私自身が偽情報を掴まされた被害者だったということになる。

自分自身それなりに事実だと信じて書いたもので、警察の捜査を混乱させようなどという意図はなかったが、今にしてみれば、これほどの重大事件について、すでに亡くなっている人(カール)を犯人呼ばわりしたのは軽率だったと思う」

 

として反省の弁を述べている。

 

 殺害方法や不思議な足跡についてのシュリッテンバウアーの証言

 

事件の2年後(1924年)のこと、ヴァイトホーフェン在住のある大工がグレーベルンの宿屋(兼居酒屋)で店主と語らいながらくつろいでいると、そこにシュリッテンバウアーがやって来た。

 

時刻は午後の4時半ごろだったが、店内には3人のほかは誰もいなかった。

 

そのころにはすでに、シュリッテンバウアーは地域住民の多くからヒンターカイフェック事件の犯人ではないかと疑惑の目で見られていたが、

 

はじめ3人は事件には触れず別のことを話していたところ、ある話題の最後にお金の話になり、大工が「ああ、ヒンターカイフェックにあったとされる金が手に入ればなぁ」と言ったところ、シュリッテンバウアーは「あそこには皆が言うほど金はなかったよ」と言った。

 

地域から疑惑の目で見られているシュリッテンバウアーを前にして空気を読んでいた大工と宿屋の主人の遠慮もここで途切れてしまったのか、二人は露骨に事件について言及を始めた。

大工と宿屋の主人が、

 

「一人の人間が一度に6人も殺害できるものだろうか? 犯人は少なくとも3~4人(2~3人とも)はいたに違いない」

「それにあの足跡はどうだろうか? 農場に入ってくる足跡はあったが、立ち去るそれがなかったとのことだ」

 

などと言ったところ、シュリッテンバウアーは、

 

「なに、訳はないよ。私は、一人また一人と順番に入ってくるのを待ち構えて殺したんだ。足跡については、まず(建物に向かって)前向きに進んで、次に前向きの姿勢のまま後ろに下がったんだよ」

 

などと、「私」を主語にして答えたのだった。

 

シュリッテンバウアーが犯行の手口を我が事として語ったことに大工と宿屋の主人は仰天し、二人はほとんど同時に、「ローレンツ! 君がやったのか!」と叫んだという。

 

その瞬間シュリッテンバウアーの顔は青ざめ、「いやいや! 私がやったと言ったが、そうじゃない、私が言っているのは、あれをやった犯人についてだよ」と言った。

 

しばらくの沈黙の後、シュリッテンバウアーが「もうその話は聞きたくない」と言ったので、その話はそこで打ち切られた。

 

すぐ後で大工が小用のため外に出ていると、宿屋の主人も外に出てきた。

 

「あれをどう思う?」

 

大工が尋ねると、宿屋の主人は、

 

「何も言わないほうがいい。もう何も知りたくないよ。下手に関わるとここで商売もできなくなる」

 

として、それ以上深入りすることを拒んだ。

 

しかし大工は諦めきれなかったのか、その後また宿屋の主人と会った時に、

 

「他にも何人もの人々が嫌疑を受ける羽目にあっている。やはり我々は今回のことを警察に言うべきだ」

と言ったところ、宿屋の主人は、

 

「逮捕するのは警察の仕事だよ。彼が逮捕されれば、どのみち我々も事情を聴かれるだろう。その時に話せばいい」として、再度、深入りを拒んだという。

 

その宿屋の主人が、1930年4月にこの世を去った。

 

大工が6年前のあの会話のことを警察に証言したのは、同年8月のことだった。

 

「それを聞いたときに同席していた宿屋の主人は、今年の春に死にました。しかし彼も家族にはこの件について何かしら打ち明けていると思いますよ」

 

大工はそう証言している。

 

翌年3月、シュリッテンバウアーはミュンヘン警察から呼び出しを受け、事情を聴かれた。

 

「あなたは居酒屋で、自分のことをヒンターカイフェック殺人事件の犯人と呼んだそうだが?」

 

警察のこの質問に対して、シュリッテンバウアーは「その通りです」と認めたうえで、

 

「しかしふざけてやっただけです。あの頃、役場の書記をしていたデアシュという男が、居酒屋で居合わせた私に対して、人々の前で『ヒンターカイフェックの殺人者!』と面罵したことがありました。

そんな状況だったものですから、例えば、私が別の機会に居酒屋で自分のズボンを破ってしまい近所に持ち込んで直してもらった際にも、直してくれた人に、『あなたは"ヒンターカイフェックの殺人者"のズボンを直してくれたわけだね』などと冗談を言ったりもしていたのです。

居酒屋で私が自分のことを犯人であるかのように語ったのは、そんな事情からであって、ふざけてやっただけのことです」

 

と釈明している。

 

 1923年の建物取り壊しと、つるはしやナイフ、鉄の輪の発見

 

ヴィクトリアの亡夫カール・ガブリエルの実家は、ヒンターカイフェックにほど近いラークにあった。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

 

ガブリエル家の家長カール・ガブリエル(長男と同じ名前)は、事件直後にはヒンターカイフェック農場をめぐる相続権については主張しない旨を明言していたが、約2か月半後(6月14日)に翻意して相続権を主張し始めた。

 

この人物は、被害者である7歳ツェツィーリア・ガブリエルの祖父であり、

 

「検死をした医師の見立てによれば、孫のツェツィーリアは、大人たちが死んだ後も2~3時間は生きていたとのことだ」

 

ということを根拠に、

 

「であるから、農場の全財産は最後の瞬間に私の孫のツェツィーリアに帰属し、そのツェツィーリアが死んだ瞬間に祖父である自分に帰属するはずである」

 

として権利を主張したのだった。

 

訴訟となり、結論として裁判官は「被害者家族は全員同時に死亡した」として、祖父ガブリエルによる単独相続権の主張を認めなかったが、

 

ガブリエル家とグルーバー側遺族とで法廷外で話し合った末に、前者が農場を譲り受けると同時に、後者に対して金銭を支払うということで決着した。

 

しかし、ガブリエルは建物については引き継ぐ気はなかったようで、1923年の2~3月にかけて、親族のみならず友人知人の手も借りてこれを取り壊し、その時に出た部材を用いて、ラークに大きな畜舎を建設した。

 

凶器とみられるつるはしやナイフ、鉄の輪が発見されたのは、この取り壊しの時だった。

 

つるはしについて、発見者はガブリエル家の次男ヨーゼフ・ガブリエル(ヴィクトリアの亡夫の弟、当時31)であり、発見地点は、台所の屋根裏部屋の床下だった。

 

つるはしには乾いた血のようなものが広範囲に付着しており、やや変わった形の柄にボルトとナットでヘッドの部分が固定され、ナットからボルトが突き出てしまっていた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

(2~3枚目、屋根裏の床下に隠されていたとは、こういった感じのイメージとのこと。2枚目は、ドイツで放送された検証番組による作成)

 

つるはしはミュンヘン警察の鑑識に送られ調査された。

その結果、付着していた乾いた血のようなものは、間違いなく人間の血である、とのことだった。

 

また、そこには人間の髪の毛も付着しており、猫かウサギのものと思われる毛も付着していた。

 

指紋も調べられたが、検出はされなかった。

(当局のレポートには「指紋は検出されなかった」とあるのみで、誰の指紋も全く検出されなかったのか、それとも、犯人のものと思われる指紋が検出されなかったのか、そのあたりについては述べられていない。指紋はすでに犯罪捜査に利用されていたが、検出技術の高低はまた別の話ではあった。)

 

付着していた人間の血や髪の毛、床下に隠されていた状況などから、明らかに凶器の一つであろうとされ、

また、一部の被害者の頭部に見られた、鉛筆程度の太さの円形・星形・三角などの不可解な傷跡は、これらのボルトやナットに起因するものであろうと推測された。

(ただし、検死を担当したアウミュラー医師による、切り離された頭蓋骨を用いての再検査があったのかどうか、また、あったとしてその見立てがどうだったのかについては、情報が存在しない。)

 

つるはしの所有者が誰であったのかについては、事件の前年(1921年)に3か月ほどヒンターカイフェックで農作業手伝い(以下、「元使用人」という)をしていたという人物の証言により、アンドレアス・グルーバーの所有物であるとされた。

 

その証言によると、元使用人が同農場で働いていた時期にアンドレアスがこのつるはしの柄を自作し、ヘッドを取り付けたというのであり、

 

素人仕事のため、柄の形は、ある部分は丸く、ある部分は平らであるなどいびつであり、またヘッドを固定するボルトもナットから突き出てしまっていた。

 

柄の2か所にある特徴的な木目にも見覚えがあり、元使用人自身も、このつるはしで仕事をしたことがあったのだという。

 

元使用人の知る限り、この種の農具は、当時、納屋内の通路のところに置かれていた。

 

事件の58年後のこと(1980年)、生き残っていた数少ない証人の一人(アンドレアス・シュヴァイガーという人物)が、このつるはしについて新たな証言を行った。(証言時、83歳)

 

それによると、このつるはしは、もともとはシュリッテンバウアーの所有物だったというのである。

 

シュヴァイガーによると、1923年2~3月に建物が取り壊され、このつるはしが発見されたとき、シュリッテンバウアーは、「ああ、やっと私のつるはしが見つかった。これはグルーバーに盗まれていたのだ」と言ったというのだった。

 

グルーバーがつるはしを盗んだ経緯について、シュヴァイガーは、

 

「グルーバーの森とシュリッテンバウアーの森は隣接していた。日中に森で仕事をすると、夜には仕事道具を穴の中に入れ、上から草を被せて隠しておくのだが、その時に盗まれたのだ。

シュリッテンバウアーはつるはしが見つかった時、『私のつるはしだ。返してくれ』と言ったが、警察が差し押さえたので彼の手には戻らなかった」

 

と言っている。

 

ちなみに、後世による考察の中には、シュリッテンバウアーがそのつるはしのもともとのオーナーであることを主張した点について、

 

「もしそのつるはしから自分の指紋が出てくるとまずいので、もともと自分の所有物だったと主張したのだろう」

 

として、シュリッテンバウアー犯人説の根拠の一つと捉える向きもある。

 

ただし、シュヴァイガーの証言は、例えばヴィクトリアのことを「継娘」であると称するなど、明らかな間違いも多く、

この「つるはし=シュリッテンバウアーの所有物」という話にしても、シュヴァイガー以外に証言している者は皆無であり、しかもそのシュヴァイガー自身も、1951年に行われた過去の聴取では、この件について一切触れていない。

 

個人的には、このシュヴァイガーの証言は極めて疑わしいのではないか、という気がする。

 

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同じくこの取り壊し時、納屋からはナイフと鉄の輪が発見された。

 

ナイフと鉄の輪の双方に血が付着していた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

(ナイフは仰々しいものではなく、この画像のような、小型で折り畳み式のものだったらしい。鉄の輪については、後世でも文字通りこういった感じの「鉄の輪」としてイメージされている)

 

これら2点が納屋のどの部分から発見されたのかについては、当局による記述が今一つ曖昧なため後世に議論があるが、いずれも、「納屋の4遺体の発見現場に近い場所」であったとされ、

 

特にナイフについては「床下」から出てきたとされており、

その「床下」とは、「犯人の寝床であった可能性が指摘された藁床やその近くの梁から吊るされた藁縄に近い地点のそれ(床下)」だったとされている。

 

ナイフも、つるはしと同様にミュンヘン警察の鑑識で調べられたが、指紋は検出されなかった。

 

また、そこに付着した血痕について調べるため、ミュンヘン大学の法医学研究所に送られたが、何も判明しなかった。

 

ナイフの所有者について確定はしなかったが、前メイドのクレスツェンツ・リーガーから、「ヒンターカイフェックで働いていた時にこのナイフを見たことがある」との証言が得られ、

 

また、グルーバーの親戚からも、「ヒンターカイフェックを訪れた時に、これと似たようなナイフを見たことがあった」との証言が得られたことから、グルーバーの所有物であろうと推測された。

 

鉄の輪についての情報は少ないが、これも、犯人の寝床であった可能性が指摘された藁床の近くから見つかったとされている。

(これについては、「床下から出てきた」等の記述はない)

 

遺体に残った傷跡が多様なものであったことから、つるはし、ナイフのみならず、この鉄の輪も、何らかの形で犯行に用いられた可能性が指摘されたが、

 

そこに付着していた血液が被害者のものか、犯人のものか、また他の何かから移った---現場はそもそも血塗れだったわけだから---ものかも含めて、具体的なことはわからずじまいだった。

 

つるはしとナイフについては、ミュンヘン警察の鑑識やミュンヘン大学法医学研究所による調査ののち、双方ともにシュローベンハウゼンの警察署に送られて一般公開され、新聞紙上でも、人々に対して署への来訪が呼びかけられた。

 

ヒンターカイフェック殺人事件

ヒンターカイフェック殺人事件

 

上の画像1枚目、中央の白黒の部分は、1951年当時の捜査主任ヨハン・ヴェーヌスによる作成。

(2枚目は、1922年4月4日---遺体発見日---に発見された第一のつるはしがどういう場所で見つかったのかについてのイメージ画像。)

 

1枚目の画像、中央の白黒の図中に数字や文字、記号が見られるが、これらについては、一つ一つ捜査主任による解説がなされており、

犯人が寝ていたかもしれないくぼみ付きの藁床や、梁からぶら下がっていた藁縄、ずらされていたレンガの位置も示されている。

 

ただ、こういったもの(藁床、藁縄等々)の正確な位置については、前の記事で「後世による議論がある」と書いた。

 

なぜこうして1951年当時の---事件の約30年後だが---捜査主任による図示(および解説)まであるのに、藁床や藁縄の位置について、後世による議論が絶えないのか、

 

理由の一つは、初期の当局のレポートや証人らによる証言の中での、記述の曖昧さにある。

 

つまりそこでは、藁床や藁縄の位置について、

 

「機械室の北半分に小さな屋根裏部屋があり、そこの床に藁床が敷かれ・・・」

「納屋の北側のドアの近くの梁から藁縄がぶら下がっており・・・」

「犯人は、車置き場の天井からぶら下がっていた藁縄を伝って床に下りた」

 

などと記述されているのだが、

どの区画を指して「機械室」と呼び、どの方向を指して「北」と呼び、どこからどこまでを「納屋」と呼び、どれが「北側のドア」であり、どの区画が「車置き場」なのか・・・といったことに関する定義が曖昧なままなのだった。

 

当時の当局関係者や証人らにとっては、それでよかったのかもしれない、なぜなら各部屋の名称や藁床、藁縄の位置など詳細が記された図があったに違いなく、

それを見ながらレポートを書いたり聴取したりしていたに違いないと思うのだが、困ったことに---後世に議論がある理由その2---それらの図が失われてしまっているのだった。

 

事件発生の直後~せめて1923年の建物取り壊しの前に作成されたそれがあれば議論の余地もないことだったと思われるが、それらの図は一枚も残されていない。

(1923年作成の屋内見取り図が一枚残っているが、非常におおざっぱなもので、藁床や藁縄の位置については全く触れられていない。)

 

ちなみに、先の1951年作成の図には、エンジン小屋へと続く二人分の足跡が図示されているが、それについては捜査主任により、

 

「1922年3月30日木曜日、アンドレアス・グルーバーは新雪の上に、建物方向へと続く二人分の足跡を発見した」

 

という説明書きが付されている。

 

しかし、1924年にシュリッテンバウアーが大工や宿屋の主人に説明したという、

 

「まず前進し、次に前向きの姿勢のまま後退する」

 

という方法によれば、「入ってくる足跡はあったが、出ていく足跡はなかった」という状況について一応の説明はつくし、

 

彼の言うやり方だと、農場北側の道からエンジン小屋に向かって、前進 → 一歩横にずれて後退 → 一歩横にずれて前進 → 一歩横にずれて後退・・・と繰り返せば、「入ってくる足跡」のみを何人分でも偽造できるということになる。

 

現在の科学捜査では、この方法は通用しにくいと思われるものの、

シュローベンハウゼンへと続く北側の道は他の村人も徒歩や自転車、馬車で通るので、北側の道に残った偽装足跡はそれらに紛れることも期待できるとすれば、

 

この方法は100年前なら通用したかもしれず、また、前進や後退をするごとにサイズの違う靴に履きかえれば結構完ぺきだったかもしれない。