岩手17歳女性殺害事件・その2 | 雑感

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たまに更新。ご覧いただきありがとうございます。(ごく稀にピグとも申請をいただくことがあるのですが、当方ピグはしておりません。申請お受けできず本当にすみません)

岩手17歳女性殺害事件

鵜の巣断崖。中央やや上、白丸内の断崖突端にKはいたという。ちなみに画像右上に白く見える小道は、Kがもしかすると断崖からこの道に降りて姿を消したのではないかと噂されている小道)

 

※※ パソコンからご覧の場合で、画像によってはクリックしても十分な大きさにまで拡大されず、画像中の文字その他の細かい部分が見えにくいという場合があります(画像中に細かい説明書きを入れている画像ほどその傾向が強いです)。その場合は、お手数ですが、ご使用のブラウザで、画面表示の拡大率を「125%」「150%」「175%」等に設定して、ご覧いただければと思います※※

 

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岩手17歳女性殺害事件

岩手17歳女性殺害事件

 

(その1の続き。2008年7月2日早朝からの流れ)

 

2008年7月2日(水曜日)午前5時ごろ宮城県登米市のSA自宅に岩手県警宮古署の交通係を名乗る男性の声で「娘さんはおられますか? 生きてますか?」との電話があった。

父親が「生きてるもなにも、娘はいま寝てますよ」と答えると、相手は「あっ、そうですかぁ」と何かにつままれた様に言って電話を切った。

 

午前7時ごろ、Kの父親がKに「朝8時になったら駐在に行って昨晩の事故を届けろ」と言ったところ、Kは「C警部補と会う約束をしているので、久慈署に行かなければならない」と答え、時刻表を眺めていた。

(テレビ番組での父親の証言によると、Kはこの時「久慈署のC警部補に用事があるから久慈署まで連れて行ってもらえないか?」と父親に依頼したというが)

 

午前7時40分ごろ、それまで携帯をいじっていたKは、朝食も取らずにふといなくなった。

父親は「7時50分の電車で久慈に向かうつもりか」と思い田野畑駅に走ったが、Kの姿はなかった。(父親がKを見た最後だった。)

そのころKはタクシーに乗ろうとしてタクシー会社に立ち寄るも「車が出払っている」として断られた。

そこで(たまたま出くわしたという)親戚に、「車が故障したので、思惟大橋(しいのおおはし)まで乗せていってくれないか?」と依頼した。(思惟大橋は地元のいわゆる自殺の名所)

その時のKのいでたちは、灰色っぽいシャツ、ジーパン、ビーチサンダル。親戚の記憶ではバッグなどは持っておらず、手ぶら。ポケットが膨らんでいる様子もなかった。

Kは後部座席に乗り込み、思惟大橋へと向かう途中で2度ほど行き先を変え、最終的には鵜の巣断崖へと続く一本道で車を降りた。(この時、「知人に会うので(そこまで送ってくれ)」と言ったという情報がある。)

Kが降りたのは鵜の巣断崖まで約2.1kmの地点。鵜の巣断崖は、これも地元のいわゆる自殺の名所。

親戚によると、Kは後ろのドアを開けて車を降りると道脇に立ち、すぐさま誰かと携帯で話し始めた

黒木氏「電話の相手は通信記録などで分かるはず。しかし警察が動いた形跡はありません」

 

岩手17歳女性殺害事件

(思惟大橋)

 

岩手17歳女性殺害事件

(赤ピンの先、Kが親戚の車を降りた地点)

 

岩手17歳女性殺害事件

(親戚の車を降りた地点あたりをやや拡大)

 

岩手17歳女性殺害事件

(ストリートビューより。奥側が鵜の巣断崖)

 

午前8時半ごろ、KがSAの携帯に「俺死ぬから」と、断崖突端の写真付きでメール。

それを読んだSAがKに電話するも、「鵜の巣にいる。30センチ前に出たら落ちる。電池がなくなる」と一方的に切られた。

SAは恐喝事件を担当していた久慈署のC警部補の携帯に2~3回かけたが応答がなかったため、留守電にメッセージだけを残した。

 

午前8時半過ぎ、Kが高校時代の恩師であるYに、「いま鵜の巣断崖にいる。飛び降りるところだ。世話になったな。来るなよ」と連絡。

(ちなみにKは金に窮すると家に戻ってきて「俺はもう死ぬ」などと金の無心をするようなところがあったため、「死ぬ」というKの言葉は、普通の人がそれを言った場合ほどには周囲から深刻には受け取られないみたいな空気があったという)

 

午前9時5分ごろ、Kの父親が久慈署のC警部補と電話で話していると、「いま本人から連絡が入りました」と言われ、一旦電話を切った。

 

午前9時~9時10分ごろ、Yが缶コーヒーを2本買って、スクーターで鵜の巣断崖に駆け付けた。

その時Kは断崖の突端でしゃがみこみ誰かと携帯で話していた。談笑するなどしており緊張感は感じられず、また会話の内容が前の日にY宅で久慈署のC警部補相手にしていたのと同じような内容だったため、Yは「Kが話している電話の相手は久慈署の刑事だ」と思ったという。

KはYに対して「今から警察が来る。三男が来るから誰にも言うなよ」と口止めした。

Kの様子には自殺を思わせる緊張感がまるでなかったため、Yは「自殺することはないな」と安心し、「ここに置くから飲めよ」と缶コーヒーを置いて現場を離れた。(これが判明しているKの最後の目撃)

 

岩手17歳女性殺害事件

(リポーターの女性後ろ側に見える柵の向こうの突端にKはいた)

 

岩手17歳女性殺害事件

(柵を超えた海側、赤丸あたりの先端部にいたと思われる。遥か下にはまさに怒涛が逆巻いている)

 

午前9時27分、弟への最後のメール「サヨウナラ 迷惑な事ばかりでごめんね」(「弟」とは次男のことか?)

 

午前10時30分ごろ、Kから父親に最後の電話「父ちゃん、色々と面倒かけてすみません。あとは宜しく頼みます」

 

午前10時40分ごろ、Kから弟(三男)に電話「今、自殺の名所にいる。来たら飛び降りる」

これがKからの「最後の電話」だった。(この日、次男は資格取得のため村外にいた。)

 

午前11時頃、三男から連絡を受けた父親が、鵜の巣断崖に向かった。父親が鵜の巣断崖に到着した時には、既にKの姿はそこになかった。

 

午前11時50分ごろ、父親がY宅を訪問。

YはKから「誰にも言うな」と口止めされていたため、Kが鵜の巣断崖にいたことや、前日もこの家に来ていたことなどは話さなかった。

 

この日の午前中、「川井村で発見された女性遺体(後にSBと判明)」の司法解剖が行われていた

 

正午ごろ、三男が久慈署のC警部補に電話し、前の日の夜にKが単独事故を起こしたこと、そして現在行方不明であることを話した。

この時C警部補は三男に対し、「午前中にKから連絡があった。Kは『いま鵜の巣にいて、高校の恩師(Y)も近くにいる。SB(被害女性)の捜索願は出ていないですか? なんだか俺が疑われているんですよ』などと不安を口にしていた」と伝えた。

 

午後5時過ぎごろ、久慈署のC警部補からSAの携帯に連絡が入った。

SAはC警部補に、「Kが鵜の巣にいました。死ぬようなことを言っていたので、見に行ってください」と伝えた。

C警部補は「ああ、わかった」と返事をし、「じゃあ」と電話を切った。それきりSAへの連絡はなかった。

 

午後5時~6時ごろSBの捜索願が出されていた宮城県警若柳署からSBの自宅に、「(SBと似た)遺体が発見された」という連絡があった

これは、遺体のプライバシーに関わる身体的特徴を報じた夕刊が発行されて間もなくのことだった。

 

同じく午後5時過ぎごろ、Kの父親が最寄りの駐在所にKの捜索願を提出した。黒木氏によると、「Kを容疑者とする連絡が(その)駐在に入ったのは、まさにこの時です。」

 

2008年7月3日(木曜日)午前中SBの両親が岩手県警宮古署に安置されていた遺体を確認、正式に遺体の身元が判明した

 

午後4時ごろ鵜の巣断崖を清掃していた役場の職員が、断崖の突端近くでKのものと思われる遺留品を発見

遺留品は断崖の柵の外側に点々と残されていた。内訳は、車のカギ、黄色のハンカチの上に財布、免許証、缶コーヒーの空き缶、7本残っていたタバコ(セブンスター)、裏側にSAの名前が書かれた腕時計、携帯電話の電池(本体はなし)、AUカード、サンダル。

 

岩手17歳女性殺害事件

(遺留品は柵の外側に点々と残されていた)

 

2008年7月4日(金曜日)、鵜の巣断崖周辺でのKの捜索がなされた。

ただし遺留品の発見から一日遅れで、付近の検問なども行われず、陸上の捜索は警察官15人程度、消防団への捜索要請もなかった。

警察犬が使われていなかったため、Kの父親が、「警察犬を出せないですか?」と刑事に尋ねたところ、「お父さん、警察犬は数十分単位でお金がかかりますよ。高いですけど、お父さん支払えますか?」と言われ、結局警察犬は使われなかった。そのあたりの事情を知らない父親は、その時は納得していたが、後に黒木昭雄氏から、「警察犬の出動に対して、一般市民が金を払わなければならないという事実はない」と教えられたという。

この時から7月29日の逮捕状請求・全国指名手配・公開捜査開始まで、警察はKの弟(次男)の家に毎日のようにやってきては、Kからの接触がないかを確認し、また、Kの両親には内緒で、両親の口座の金の動き(逃走資金めいたものが出されていないか)をチェックするなどしたという。

 

2008年7月29日(火曜日)、SBの殺人死体遺棄事件について、岩手県警宮古署捜査本部は、Kが7月1日午後9時ごろに自損事故を起こした際に路上に放置した車の中から見つかった遺留品の鑑定などから、KをSB殺害の犯人と断定、Kの逮捕状を取り、同日、全国指名手配し、公開捜査を開始した。

警察の見立ては、Kが6月28日の深夜にSBを誘い出し、田野畑村に戻る途中の車内でSBの首を絞めて殺害、遺体を川井村田代の松草沢に遺棄し、鵜の巣断崖に所持品を遺留し投身自殺を偽装して逃走したというもの。

Kが陸中海岸シーサイドラインで自損事故を起こして放置した車の中から見つかった「遺留品」については、SBの「毛髪」「履き物」とするものもあり、これらに加えて「血痕」を挙げているものもある。(ウィキペディアには「血痕」の文字が出ている。黒木昭雄氏は「毛髪」「履き物」としており、「血痕」は挙げておらず、
SBの毛髪や履き物がKの車から出たとしても、それはSBがKの車に乗ったことの証明にはなっても、SBがそこで殺害された証拠にはならない、と述べている。)

また警察はKについて、「17歳(当時)の少女を殺害した犯人です」と表記したポスターを作成し配布した。

この「犯人です」と表記した部分については、翌年の2009年7月に作成されたポスターについては、「17歳(当時)の少女を殺害した事件です」と訂正されている。

 

2008年7月30日(水曜日)、Kの名前と顔写真が新聞朝刊に掲載された。

 

2008年10月7日(火曜日)、警察庁刑事局がKに懸賞金をかけることを起案した。

(黒木昭雄氏によると、この起案日から推測すると、岩手県警が警察庁に対し懸賞金手配の要請を行ったのは2008年9月末だと思われる、とのこと。Kの逮捕状を取って早くも約2か月後にはKを賞金首にすることを警察庁に要請した形

 

2008年10月30日(木曜日)、警察庁はKを「警察庁指定特別重要指名手配被疑者」に指定した。

 

2008年10月末、Kの父親が久慈署に出向いて、「息子(K)から『恐喝と傷害、銃刀法違反』容疑での被害届を受理したかどうかを教えてほしい」という旨の質問状を出した。

これに対し久慈署の副署長は、「答えられない」と口頭で回答した。

Kの父親によると、「自宅に近い岩泉署に呼ばれて(容疑者Kの父親として)話を聞かれたとき、Kが出した被害届があるのを確かに見たのです。」

 

2008年11月1日(土曜日)、警察庁はKの検挙に結びつく情報の提供者に対して、上限100万円の捜査特別報奨金(公的懸賞金)を支払うことを公告した。

 

2009年5月13日(水曜日)、Kの親族と被害女性(SB)の遺族の一部、SAなど事件前後にKと接触を持った関係者等8名が、岩手県警と岩手県公安委員会、警察庁、国家公安委員会などに70枚に及ぶ「情報提供書」を提出した。同日、情報提供者中6名が岩手教育会館(盛岡)で記者会見を開いた。

この情報提供書は、SB殺害事件や普代村での日本刀による恐喝事件にまつわる関係者らの聞き取りをまとめ、警察に捜査を尽くすことを求めたものだったが、これら情報提供者に対して、警察からはなんらリアクションはなく、黙殺された形となった。

 

2009年6月19日(金曜日)、Kの父親が日本弁護士連合会に「人権救済」の 申し立てを行った。SB殺害事件について、息子を犯人と断定した指名手配の停止と必要な捜査を尽くすことを求めたもの。父親は弁護士会館(東京都千代田区)で記者会見に臨み、

「私は息子が犯人なら犯人でもいいと思っている。そしてもし本当に犯人ならば、場合によっては死刑でもいいと思っている。しかし関係者の証言や黒木昭雄氏による調査を見ていると、下手すれば息子はどこかで殺され、(SB殺害の犯人にされて)埋められているのではないかとも思う。自分だけのことを言えば、正直こうした申し立てをするのは嫌だった。弁護士の先生や黒木氏にも、こうした申し立てをするのはやめてくれとも言った。しかし仕事を辞め村を出ざるを得なくなったKの弟たちや、孫たちのことも考えて、この申し立てを行うことにした。息子から出されていた恐喝の被害届に関する対応など、捜査には不自然な点が多すぎる。最近、冤罪が晴れた菅家さんの事件では結局、真犯人は逃げ延びた。この事件でも真相を究明してほしい」と訴えた。

 

2009年7月2日(木曜日)、Kの父親らは久慈署を訪ね、再度、恐喝事件の被害届(を受理しているかどうか)について質問した。

久慈署の副署長は「被害届は出ています。ただ、受理したかどうかは(SB殺害)事件と関係あるので、お答えできません」と被害届の存在を初めて認め、県警が恐喝事件と殺人事件の関連を認識していることをにおわせた。

しかし、その点について重ねて尋ねると、「(二つの事件が)関連があるかないかは、捜査に関することなのでお答えできません」と前言を翻したという。(黒木昭雄氏)

 

2010年6月30日(水曜日)、Kの父親が、公開捜査によって犯人と断定され家族の名誉が傷つけられたとして、国と県を相手取り、公開捜査の差し止めと600万円の損害賠償を求める訴訟を盛岡地裁に起こした。

 

2010年11月1日(月曜日)、Kに懸けられた公的懸賞金が300万円に増額された。

 

2014年4月11日(金曜日)、Kの父親から起こされていた公開捜査の差し止めと損害賠償請求訴訟について、盛岡地裁は当該公開捜査には情報提供を受けるための捜査手段として相当性があるとして、原告側の請求を棄却した。

一方で、指名手配のポスターでKを「犯人です」と表記したことについては、有罪判決を受けるまでは無罪として扱われる「無罪推定の原則」に反すると結論付けた。原告側は控訴せず、そのまま確定した。

 

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 その他特記事項

 

橋と遺体と川床の位置関係について: 

7月1日の午後4時半ごろ、遺体が川井村田代の山中(下鼻井沢橋の下の沢)で発見された時の状況について、黒木昭雄氏によると、

「川床から高さ約3メートルに架かる橋から、遺体がうつぶせに横たわっていたとされる地点までの距離が約5メートル。」

(橋の高さについては、川床から4~5メートルとする記事もあり、また、遺体が橋と5m離れていたということが言われているが、それは橋の上から遺体までが直線で5mなのか、それとも橋の真下の川床から遺体までが5mなのか、自分にはよくわからなかった。)

 

Kの車から押収されたものについて:

Kが7月1日の夜9時ごろ、陸中海岸シーサイドラインで単独事故を起こした時、警察はKの車を押収した。警察はSB殺害の関連でその車を調べたが、黒木氏によると、

「県警は、SBの殺害現場を『Kの車の中』と特定している。『SBの毛髪と履物が見つかった』ことがその理由という。しかし、SBが車に乗った証しにはなっても、そこで殺された証拠にはならない。しかも不思議なことに、車内から見つかったのは、SBの遺族が『娘のものではない』という赤いパンプスだった。あの日、SBが履いて出かけたのは『キティちゃんのサンダル』だったという。

また、自損事故後、運転席上の日除けにはさんであった名刺入れから県警刑事らの名刺が抜き取られていた。車のドアに残されていたのは、Kがふだん使っている鍵ではなく、なぜかスペアキーだった。」

 

鵜の巣断崖突端で発見されたKの遺留品について:

7月3日の午後4時ごろに鵜の巣断崖突端付近で発見されたKの遺留品について、黒木氏によると、

「7月3日、断崖の突端からKのサンダルやタバコなどが見つかった。サンダルは、Kが履いていた白ではなく、青地に赤い縞模様だった。

タバコにも謎がある。父親によれば、Kは家を出た2日の朝、タバコを持っていなかった。車で(Kを断崖へと続く一本道まで)送った親類も、『途中では買っていない』と証言し、降車地点の近くに売店や自販機もない。なぜ、タバコが残されていたのか。」

 

2008年6月29日~7月2日までのZのアリバイについて:

2007年5月1日にKを日本刀で恐喝したとされる普代村のZについて、黒木氏はこのZも取材している。

Zが黒木氏に答えたところによると、ZがKに最後に会ったのは「2008年の正月」。

ただし、この当時Kの彼女であったSAによると、「2008年の正月ごろは、宮城県内にいた」として、Zの答えに疑問を投げかけたという。

また、「恐喝の被害届を取り下げるように、Kに求めたのではないか?」との黒木氏の問いに対して、Zは「Kが被害届を出していたことさえ知りませんでした。だから、私が取り下げさせようとしたことはありません」と答えた。

2008年6月29日から7月2日までのアリバイを問うと、Zは、「6月29日は日曜日で、体調が悪く自宅で寝ていました。6月30日からも2~3日、会社を休んで家にいました。その間、近くの病院に行ったりしました。」と答えた。

この時、黒木氏側から、「では一緒に病院に行って(本当にその日に病院で受診していたか)確認してもらえるか?」ということになったらしく、黒木氏と、Z、そして黒木氏とともに取材していた週刊朝日の記者が、Zのいうその病院に確認に行った。

病院でカルテを見たところ、Zが最後に病院に来たのは「2008年5月29日」であり、事件の約1か月前だった。Zは「ああ、勘違いでした」と受診日については訂正したが、問題の期間あたりは会社を休んで家にいた、という説明については変えなかった。

この説明に黒木氏はZへの疑念を膨らませたが、同行していた週刊誌の記者は、その時見せたZの自然な態度から、(SB殺害事件へのZの関与について)黒木氏とは逆の印象を持ったという

ちなみに、Zの人物像について、「何かしらの力を背景として、警察の捜査を免れているのではないか」ということが噂されてもいるが、黒木氏によると、Zについては「暴力団構成員なのかというと、多分そうではない」「私の目から見て、警察がビビるには全然値しない」「経済力があって警察を買収するとかは絶対無理です」

 

Kから出されていた恐喝の被害届について:

KはSAに逃げられた2008年6月28日から、この被害届を取り下げることを口にし始めた。

6月30日の正午過ぎにKが知人に宛てたメールに、

「久慈の警察に電話して被害届を取り下げようとしたらダメだった。県警が事件扱い処理したからって。明日か明後日呼ばれそう」

と、被害届の取り下げができなかったことが書かれている。

自分一人で訴えていても埒(らち)が明かないと考えたのか、Kは6月30日夜には父親まで動員して被害届の取り下げを試みている。30日夜、父親は久慈署のC警部補に電話し、「本人が取り下げたいと言っているのだから、応じてもらえないか?」と頼んだが、C警部補から「Zのような奴を放置しておくと、K君のように被害にあう人がまた出る。あと2~3日で逮捕するし、家族の安全は警察が守るから、ここは頑張って取り下げないでもらいたい」と説得され、取り下げを断念したという。

このように、恐喝事件については前向きとも思える姿勢を(少なくとも表面上は)見せていた警察だったが、なぜか川井村でのSB遺体発見後はその姿勢を一変させ、「Kからの恐喝被害届は出されてはいるが、受理はしていない」と言い始めた。

Kの父親に対し、電話で「被害届は受理していない」と言い張る久慈署のC警部補の動画を、Youtubeで見ることができる。

いうまでもなく、遺体で発見されたSBは、恐喝事件において120万円の連帯保証人として名前を書かれたSAの同姓同名同年齢の友人であった。

「警察は、一度受理した被害届については、被害届を出した者が『やっぱりやめます』などと言い出したからと言って、そう簡単に取り下げさせるようなことはしない」という話があり、それが事実であるとしても、この岩手のケースの場合は最終的に担当警部補は「被害届は受理していない」と言い出したのであり、それならばなぜ、受理していない被害届についてKや父親に「取り下げるな」と説得したのか、という疑問は残る。

 

SBの死亡推定時刻について:

岩手県警は、SBの死亡推定時刻を、「6月28日深夜から7月1日午後4時半ごろまでの間」としている。

これは、SBが6月28日夜にKから誘い出され、「SBの生前最後の姿となった6月28日夜11時ちょうどのコンビニ防犯カメラ映像の直後」から「川井村で遺体となって発見された7月1日午後4時半ごろ」までの「65時間半」の間に死亡したという、「犯人 = K」という結論ありきの見立て。こうして死亡推定時刻を幅広くとることで、「6月29日午前9時半ごろにKが田野畑村の弟宅に現れた時以降のアリバイ」などは、一切考慮しなくていいということになる。

一方、この事件を追っていた黒木昭雄氏は、SBの死亡推定時刻については一貫して「6月30日から7月1日(に遺体が発見されるまで)」という姿勢を貫いており、それを前提に、「KはSB殺害の犯人ではありえない」との主張を展開している。

Kは、6月29日午前9時半ごろに弟宅にやってきてから7月2日に失踪するときまで(遺体発見現場となった川井村の山中から片道約2時間離れた)田野畑村で過ごしていた、ということが、その間に共に過ごしていた親族や高校時代の恩師らによって証言されており、しかも、右手には人を扼殺などできそうもないほどの負傷を負っていた(6月29日午後7時過ぎに済生会岩泉病院で受診)ということから、仮に黒木氏が前提とするSB死亡推定時刻「6月30日から7月1日(に遺体が発見されるまで)」が確かなものであれば、「Kにはその間のアリバイがあり、SB殺害の犯人ではありえない」との黒木氏の主張も、説得的と言えるかとは思う。

ただ少し気になったのは、黒木氏が主張する死亡推定時刻の根拠はSBを司法解剖した岩手医科大学法医学講座による遺体検案書である、とのことで、ネットでもその遺体検案書の写しを見ることができるが、そこには、SBの死亡推定時刻として「6月30日頃から7月1日頃」となっており、必ずしも「6月30日0時0分から7月1日午後4時半ごろの遺体発見まで」ということではなく---いわゆる「死後変化」というものは日付の変わり目に合わせて起きてくれるものではないので当然ではあるが---「6月30日"頃"」というからには、「6月29日(何時かは別として)」も死亡推定時刻の候補にはなりうるという趣旨ではないかと思うのだが、どうなのだろうか。

この点、黒木氏は、「6月29日」については一貫して死亡推定時刻からは排除しており、これは、警察とは逆の意味での「結論ありき」の姿勢ではないかという気もした。

私は、黒木氏の言いたかった「結論」の部分については、どちらかというと「正しいかもしれない」という印象を持ったのだったが、しかしそこに至るまでの、時に強引とも思える前のめりな論法に違和感を覚えたのも確かだった。

「お前は俺のブログかっ!」と、何度も叫びそうになったのである。

黒木氏がその無理やりな論法に気づいてなかったとも思えず、気づきつつも、ご自身の信じるところの結論の妥当性を優先して、あえてそうされていたのではないかと想像する。

(先日来、「黒木氏によると・・・」として、こちらで多くの情報を紹介させてもらったが、しかし本音としては、それらの全てについて異論がないということではなく、むしろある部分には異論もあり、突っ込みどころも多いのでは?・・・と感じながら、しかし「氏の示された結論自体は、正しいかもしれない」という印象を受けたということ。特に、「Kはすでに殺されているかもしれない」という氏の指摘については、確かにその通りかもしれないなと・・・。)