ある雑誌社の企画した会場でのことだった。

そこの秘書の女性がやってきて、ほらあそこにいる人、あの人をぜひ招待すると良いわよ、、と言われて、その意味を図り損ねていた。


あそこにいる人がこちらに来て目の前に立った時、どういうことかピンときた。

その人の尻をなめろ、そういうことである。

そしたらいいことあるから。

 

具体的に何をするのかというと、食事を提供するだけではない。宿泊もさせろ、1か月でも2か月でも好きなだけ、家族と一緒、もし愛人と出かけるときがあればその時も(もちろん口外ご法度)、プールが付いていればなおよい、という意味なのである。

お前見返りが欲しいならそれなりのもの出せよ。

めんどくさい世界である。

もしかしたらどこの世界も一緒かもしれないな、と世の中色々騒ぎがあると思う次第である。

 

 

お金の話をまだちょっと続ける。

数年前、あるジャーナリストがうちに突然来る、と言ってきた。

大手から独立したばかり、新しく媒体を立ち上げたばかりだった。

と言っても今は何でも電子なので、デジタル雑誌なんだろうと思う。

それでも結構名の知られた人らしく、その人に書いてもらえれば御の字、ということだった。

 

連絡があってすぐに来たものの(ほとんどアポなし)、自分のできる範囲で準備した。

が、彼はさっとなめるようにうちを見てすぐに帰ってしまった。

 

彼が望むものはここにはなかったらしい。

 

何がなかったのか、と考えれば思い当たる物は金目のものがなかった、ということだと思う。

 

ジャーナリストの収入は広告なので、広告収入を取れない相手のことは書かない、ということなのである。

例えどんなに良い仕事をしていても、お金のない人間に価値はない。文章にして世界に知らしめる価値がない。

それがこの世の法則なのだという価値基準を持った人間がこの世を動かしている、ということを、たたきつけられた出来事の一つだった。

 

 

今週末ある一家が我が家を訪れる。

貴族ではないが、かなり裕福な家でいわゆる豪邸の類に住んでいる。

私たちも時々招待されたり、あるいは高級レストランに食事に招待されたこともあった。

持っているもので人を図るのは間違っていると思うが、目に見えるものだけでなく教養も含めて雲の上の人である。

にもかかわらず、我が家にとても良くしてくれる。

理由は彼らのために働いているからなので、ご招待も報酬の一部と思って堂々受け取っていいと思うが、

まるで対等な関係で招待して来るので、私たちも対等なふりをしているが、

それでいい、とそれでいいのか、のはざまでちょっと心が揺れる。

特に、うちに遊びに来る、という時は、私たちが何も持っていない、ということをより感じるので、

何を出せば対等になるのだろう、と思う。

 

彼らは私たちの何を見ているのだろうか。

外見ではなく中身だとしても、そんなにたいしたことではない中身に自信を持つのは難しい。

せいぜい誠意だとか、そんなもんで勝負するしかないのかな、と思ったりする。

眺めいているだけならどんなカテゴリーの人でも「あんな人、こんな人」と楽しんで人間観察するだけだが、

深くかかわると自分の外も中身も見せないといけなくなるので、自分自身も変化していくのだと思う。

 

 

職業柄あらゆる種類の人とお付き合いする。

一応頭の中でカテゴリー分けはしている。
カテゴリーによって思考回路や生活スタイルも違うから、ある程度相手に合わせるためにそうするのだが、
でも結局人間の本質の部分では、現実の職業とか家柄、財の有無などはあまり関係ないかもしれない。

 

だが。

 

古い家柄の出、いわゆる貴族出身の人たちというのは結構特殊だな、という印象がある。

特に相手との距離の取り方が独特で、慣れないととても付き合いにくい、と感じるが、これは「そういう人たち」と割り切ってしまうと楽になる。

 

ただ単にお金持ち、というのはまたいろいろカテゴリーがある。

どうしてお金持ちになったかによるのだと思う。

 

どうやってお金を得てお金持ちと言われる種類の人になっているのか、というのは、どういう思考をしているのか、何が人生の目的なのか、というのなので、結構はっきりその人となりに現れると思う。

御家柄がいい人たちがご先祖様から受け取ったご加護を受けて生きているというのと、全然人間の種類が違う。

というように、ただ単に「金持ち・裕福」な人たちも色々である。

結局見なければいけないのは、その人の本質の部分、というのは間違いない。

 

 

この国では子供に責任を教えてる、というところがいまいちなので、
日本人の母親と「だめだよね」とよく言っている。

 

今は宿題を学校に忘れたり、本を学校に忘れるとすぐにWhatsappで写真を送りあう。

そんなん、忘れたんだから本人の責任でしょ?
宿題忘れて怒られておいで、そうしたら忘れないようになるから、と私ら日本人は思うのだが、

最近は子供が写真を送ってもらうように訴えてくる。

 

この間体調が悪くて(たいしたことないのに)休んだ子供が、ネットに今日の授業で何したか先生が書き込んであるから、
見てくれ、というので開けたが書いていなかった。

夕方になっても書かれていなかった。

何度もネットを調べても書いていないので、腹立だしい限りであった。

 

子供はすごく怒っていた。

先生っていい加減だよね。

やったことは書いてもらわないと困よ!

 

先生も何か質問すると「ネットに書いてあります!」という割に、無責任である。

昔はネットなんぞなかったので、休んだ一日分の遅れも宿題の遅れも子供の責任で、よい担任はそこを上手にフォローしたものだが、

ネット時代にそんなフォローはない。責任はネットにある。


だから面倒なんだからさ、君はちょっと体調悪いぐらい押して学校に行きたまへ、と思う。

子供も自分で何とかしようと思わないし、先生も何とかしてあげようという気がなんだか薄い。

良い指導者に巡り合えるのが難しい時代だと思う。

 

せめて親が鬼にならなければ、と思う。

日本では定期的に大麻所持で有名人が逮捕され、メディアが大騒ぎしているようだ。

定期的に、というのにはどうやら裏があるらしいが、らしい、なので真実は分からない。
それはともかく、逮捕のニュースが流れると、そんなに大騒ぎすることなのか?といつも思う。

もちろん日本では犯罪なので、所持していれば犯罪者、ということになるのだが、

私が住んでいる国では大麻を所持しているぐらいでは、逮捕されたりしない。

もし所持=逮捕なら、私の周りに人がいなくなる。

そのぐらい大麻は珍しいものではない。みなタバコと同様に吸っている。

そんな程度のものである。

ただし、これが売買にかかわると犯罪となる。

私の周りでもお縄がかかった人が何人かいる。

持っているということはどこかで手に入れたのだから、それは当然そういう人も出てくる。

それなら所持者も逮捕でしょ、と思うけれど、その辺はどうも緩くてあってないような変な決まり事だと、正直思う。

ちなみに逮捕された知人たちは一週間もしたら普通に生活に戻っている。

私も特に根掘り葉掘り聞いたりせず、普通に接している。

 

 

自分が劣等感の塊で、私はダメダメと思い続けて、自分を変えようと努力したり、悩んでいたのだけれど、

ある日「自分は自分でいいんだ、変えなくていいんだ」と気がが付いて楽になった、という話はよく聞く。

 

私はそれはちょっと違う、と思っている。

変えなくていい、ではなく、変えられないことに気が付いた、ということではないだろうか、と。

 

魂の色は生まれた時にすでに決まっている。

その色は変えようにも変えられない。

変えようとすれば苦しんで当然だ。

 

なぜ変えようと思うのだろう。

それは周りの環境が自分にあっていないからではないだろうか。

 

例えば。

一番わかりやすいのは火と水だろうか。

 

自分自身が火であったとすれば、周りが水ばかりでは自分は消される存在であり、それは苦しく生きにくい。
それなのに、自身を変えようとして、水になろうと思っても無理である。だって火は火でしかないのだから。

 

自身を変えるのではなく、火は水を取り除く努力をするべきなのだ。

もしその水を取り除けないのであれば、少しでも水が自分を消さないように木を植えれば、木は水を吸ってくれて自分は少しだけ生きやすくなる。
水があれば木は成長する。もし自分がその木を育てる太陽になれるのであれば(だって太陽は火の塊なのだから)、木はもっと成長するだろう。

しかし、木は成長すると枝が伸びる。

伸びた枝は切らねばならない。

もし自分が枝を切る斧を持っていないのであれば、探さねばならない。

もし枝を切り取ることができたなら、その枝は自身を燃やし続ける薪にできる。

 

だから、魂は変わらなくても、自分の魂を輝かすためにはやらなければならないことはある。

やることは変えねばならないし、やらねばならないことは日々変化していくのだ、と思っている。

 

 

お金はきれいなのだろうか、汚いのか?

 

お金は土に例えるとよくわかる。

土そのものが手につけば汚いが、土には物を育む力がある。
そのままでは汚いし、大事なものは埋もれて隠されてしまうかもしれないし、雨が降れば土砂崩れして人に迷惑もかける。
しかし土から何かを生み出すとき、それは美しいものに変化し(もし美しいという表現を使うならば。私自身はきれい、美しい、という表現はしっくり来ていないのだけれども)、土の価値はかけがえのないもになる。

 

というのが、私のお金に対する考え方である。

 

地球温暖化は本当のことだと、認識せざるを得ない状況になってきた。

今年の冬も天候は不安定だ。

寒いと思ったら春じゃないのかと思うような暖かさになる。


最近南北極の氷がなくなるとどうなるのか、という記事を読んだ。

氷で冷やされた水は下に沈み、そのおかげで海流が生まれ、海に酸素を運び多くの命を育んでいるのだそうで、

その海流が止まると、まずは海底の動物たちが、そして、やがてすべての動物たちが死に、

その体が海底に沈んでいく。それが石油の正体なんだそうだ。

考えてみたら、石油が動物の死骸であることは知っていたけれど、なぜどんなふうに大量に地下に溜まっているかなど、

知らなかった。

 

そういったことは地球の過去の歴史の中で何度か繰り返されたことらしいので、

これはこのままいくとそういうことになっていく可能性は高いのじゃないだろうか。

動物の死骸がゆっくり海底に沈んでいくのを想像する。

死骸とともに、いま世界の海を回流しているプラスチックごみも沈んでいくのだろうか。


とりあえず今日は風がある。

まだ地球の動きは止まっていない。

 

死者と交流する魂がある。

ご先祖様の声が聞こえる人、と言い換えてもいいかもしれない。

 

最近突然フジコ・ヘミングのピアノが聞きたくなり聞いていたのだが、彼女にはそういう星がある。
インタビューで、

「あちらに行く準備を毎日している」
というようなことを答えていて、なるほどな、と思った。

 

近隣のある陶芸家は全くあちらのことを意識していないし、むしろそういう話は毛嫌いしている。

ところがある日突然陶器の骨壺を作り始めた。ヨーロッパで骨壺とは、いったいどこから発想が来るのだろうか、と思って驚いたのだが、

古代ローマ時代がその前とか、骨壺の需要があった時代があったそうで、そこから自分の作品を作ったのだという。

 

これもまた死者との交流なのだと思った。