私のいる国でもじわじわと感染が蔓延してきている。

北の地域だけだったのが、今朝中部で二人見つかったので、ここで発覚されるのも時間の問題。

死者6名。

 

日本政府の対応が酷い。

重症になるまで検査しないとは。

 

こちらでもテレビでしきりとインフルエンザと変わりない、と言っている。インフルと同じならなぜこんなに必死に隔離しようとしているのか、考えたらそこに隠されたことがあることは分かる。

すでにパニックは始まっていてスーパーの棚が空っぽなところも出てきているのだそうだ。

 

日本政府は「インフルエンザと同じ」をそのまま実行しているらしく、インフルエンザは検査はするのにコロナは検査なし、自宅療養だそうである。これでは助かる者も助からず、感染は恐ろしい勢いで広まる一方だろう。

 

今年は庚子の年。

庚は金、子は水を表し、庚子で船と読める。

金は水を作り、上から下へ流れるので「スピードが速い」。

また金性は「淘汰」の意味もある。

 

あるいは、上のものが下に下る、とも読み「指導者が庶民のレベルに落ちる」とも読める。

もっともこれは今に始まったことではないが。

私のいる国でコロナウイルスの感染者が多数でた。

感染者がいる地域での管理は徹底したもので、また感染者がいない地域の学校の遠足旅行は取りやめになった。

うちの子の学校も明日遠足の予定があったが中止である。

もう感染拡大は免れないかもしれないが、徹底した管理体制を敷いているのであれば安心である。

一方日本はどうなっているのだろう。

病院が検査したくても検査させていない、と言う。

感染者を増やしたくないのであれば検査をしなければいい、ということなのだろうか。

 

一方すでにもう感染は完全に拡大している、しかもかなり前に、という説がやはりまた聞こえてくる。

ある知人と家族はすでに去年の暮、肺炎らしき症状があってすでに治った、ということだ。

今朝、中国でも11月にすでにピークの山があった、という記事を読んだので、もう感染自体はどうにもならないのではないだろうか。

それよりもやはり治療体制を整えることなんだろうと思う。

 

今の日本政府にその気はなさそうな感じ。

 

 

コロナウイルスがすごいことになってきた。

日本は検査をしないで患者数を減らす方針らしく、私のいる国は「対策ばっちりです、心配なし!」の繰り返しアナウンスで、パニックを何とか抑え込もうとしているけれども、多分無理。すでにこちらもネットで消毒液とマスクは消えた。私はぎりぎり購入できたので、来週来るはず。でもそんなものどこまで役に立つやら、である。

ネットでは色々対策方法が出てきたけれども、ちょっと考えると「?」という情報も跋扈している。例えばウイルスは酸に弱いのでレモン水を飲め、とか。レモン水は胃酸より強いのか?っていうかウイルスは胃袋で繁殖するのではないのだが?あるいはウイルスは熱に弱い、26で死滅する説。体温は36度なのだが?と、反論するのもめんどうなものが続々出てきている。みんなさんに役に立てばと対策情報を1回だけ拡散したが、やめた。
 

ちょっと先のことは分からない状況になってきた。

自分はあまり悩みがないほうだと思う。

悩んでいる時間や嘆いたり泣いたりしている時間はもったいない、と思うのであるけれども、

それは解決しにくい問題がないだけ、とある人の話で気が付かされた。

なかなか解決しにくい問題を抱えている人もいるわけで、それも時間でもお金でも解決しない場合も結構あると思う。

 

もう一歩引いて周りも自分も見ないといけない、と思った。

 

新型コロナウイルスの日本での感染拡大はもう止めようもないのだろう。

重症患者が出ること、死者が出ていること、楽観視はしないほうがよさそうだ。

 

これはあくまでも噂だが、この類のウイルスの出現はこれが初めてではないのではないか、という話に私はうなずいてしまう。

噂では2年ぐらい前に似たようなことがあった、というが、まさにその2年前元気だった友人が突然インフルエンザで亡くなった。私と同じくアラフィフの女性だった。

友人が亡くなった直前、私自身がブログで「肺炎のような症状がある」と書いている。
そして翌年、まだ暑い盛りに夫が肺炎にかかった。

夫は白血病を患っているので、即入院となり検査をした結果、動物性のウイルスから来る肺炎と分かったが、それ以上のことは分からなかった。

 

私も周りの人間も移らなかったので感染力の点では新型コロナとは違う。が、症状はよく似ている。

 

それ以上の憶測は全くできないが、否定もしないで頭に置いておくと、また新しい情報が入ってくると見えてくるものがあるかもしれない。

 

もう一つ予測した通り、この度流行り病のおかげで、二酸化炭素排出量が激減しているそうである。

私は残念ながらあまり自分を嫌いになったことがない。だからと言って自分が大好き、と思ったことも一度もない。
なので自分が嫌い、と言っている人の気持ちはあまり分からない。自分が好き、と言っている人の気持ちもわからない。

もちろんダメだと思うことは毎日のようにある。ダメなら何が自分にできるのか、ということも毎日考える。

毎日自分が成長するために(成長していてほしいけれど)やることがある。
調子に乗らない日もある。失敗もする。だから反省はする。でも今日はだめだったら明日がまたある、と切り替える。
そう思って毎日を過ごせるのは楽しい、と思うことはある。

そこで自分が嫌いとか好き、と言っている人の心理を考えてみる。

多分、人と比べているからではないだろうか。

人と比べるとどこかが劣っているように見えるものだ。するとここが嫌い、だめ、となるのかもしれない。
好き、と言っている人は、あまりいないのかもしれない。嫌い、と目の向け方が違う気がする。多分、多分だけれども、、、他人を見るのをやめよう、とした時の感情なのかな。それもまた他人を意識したものだと思う。
いずれにせよ、他人と比べるのはやめたほうがいいし、意味がない。特にに劣っている、と思うのはやめたほうがいい。

人間はみな違う。能力も感情も見た目も生い立ちも考え方、みんな違う。そこで優劣を見出そうとするのは疲れるだけだ。

 

もし見つめるとしたら、自分に対してだけ目を向けるといい。

それも客観的な、つまり外から自分を見るべきだ。感情は抜き、理論的に判断する。

私はここがだめ。

ここを改善したい。良くなりたい。

では、次に何をすればいいのか?何ができないのか?どこが自分のコアの部分で変えられないのか?それが見えてくる。
何が楽しいと思うか、ということも大事なことだ。嫌いなことよりもっと大事なことで、楽しいことから人生は作られていくのだから。


結局自分しか自分のことは分からない。

他人に対しても客観的な目を向けるといい。他人が自分と同じではないことを忘れると、自分と違う部分が許せなくなる。自分より優れていても嫉妬で苦しみ、自分より劣っていると思ってもイライラする。

宇宙から自分も他人も見つめれば、他人の鼻につくところも大したことはない。

これは私が普段自分に言い聞かせていることである。
 

 

 

 

続けてまたお金の話をする。


私のいる世界は非常に厳しい競争世界である。どんな世界でも勝者を決めるためには必死にならないといけないのだと思うが、

いったい何が勝者なのだろうか、と時々思うことがある。

 

まずは名前を知られることが一番なので、賞を狙う。

賞を取ればマスコミが取り上げてくれる。名誉を頂く、というのは勝利であるといえないだろうか。

 

私は普通に自分たちの仕事に対する評価が賞だと思っていた。

ところが、実はそれは違う、ということに最近気が付いて愕然とした。

みな賞を取るためにお金を積んでいるんだそうである。

毎年毎年こんなにお金を貢いでいるのに、なぜ賞が取れないんだろうか、と嘆いている話を他の会社の人から聞いて私は腰を抜かしてしまった。
そんなことしているの、と聞いたら、当たり前だ、と。

政治の社会ではアウトであるが、巷でそれが当たり前なら、政治家がしないわけがないのだった。

さてそこは、貢いぐことである程度の評価をもらったが、最高の賞が取れないことを嘆いているのであった。
多分貢ぎ方が足りないんだろうか?でもそれ以上は自分たちはできない。これが限界である、と。

 

お金の貢ぎ具合も仕事のうち、実力のうちらしい。

 

 

それなりに年齢を重ねたご夫婦から聞いた話である。

仕事で知り合った若い知人が結婚し新居を買ったというので、お祝いにある絵をプレゼントした。

それは有名な画家の絵で、金額にすれば相当なものであり、ちょっと若い夫婦にプレゼントの新居祝いにそれ相当の金銭に直し手渡したとしたら、ちょっと破格と言ってもいいぐらいのお値段であった。

 

だがご夫婦は、金額の問題ではなく、気持ちとして渡したいと思ったのだそうである。

良い物を身近において人生を楽しんで、というメッセージもあったのではないかと思う。

 

その絵を渡された若夫婦は、それなりに喜んで受け取ったあと、絵を鑑定士に渡した。

どうやら本物かどうか疑ったようである。

そしてそれが本当にその作家のものであり、その価値を聞いて大喜びして、老夫婦に報告した。

 

「実はちょっと疑っていたんで、鑑定士に見てもらったんです。本当にあの作家のものだったんですね。いやすごい物を頂きました」

 

と。

老夫婦はその話を聞いてものすごくがっかりした。

その程度の人間か、と思ったそうである。

 

なぜ人に価値を判断してもらうのだろうか?

好奇心で鑑定してもらうのは分かるが、それはその絵の説明の一部でしかない。分かったところでそれは胸にしまい、なぜ老夫婦がその絵を渡してくれたかを、浮かれあがる前に考えるべきだった、と私は思う。

友人がやたらとテレビや雑誌に出ていて、うんざりさせられたことがある。

彼の仕事には価値がある。だが宣伝のやりすぎである。

一時期テレビのチャンネルをひねると出てきた。

気が付けば彼は有名人である。
有名人とはかくして作られるものか、と思った。

やがて彼はどこに行っても声をかけられるようになっていた。

 

だが、結局評価されるのは宣伝ではなく仕事なのである。タレントでも何でもないので、評価されるのは顔でもしゃべりでもない。
そして案の定、宣伝を辞めたら周りの大騒ぎは静かになった。

それが本当の彼の姿だと思う。

 

どんなに時間がかかっても、やはりコツコツ積み上げるしかない。

テレビ雑誌の宣伝は、効果があるようで大したことはない。
人の信頼はマスコミの宣伝では買えない。もっともよいのは人々の口から口へ伝わる評価だ。

 

 

 

これは同じお金持ちでもやくざ系の話である。

もうかれこれ10年近く前の話になる。

なかなか自分たちで独立するのに苦戦していたところに現れた。

 

だがもちろん自分はそっち系の人間だなどとは言わないし、一見そんな感じにも見えない。

教養がある。お金がある。頭もいい。社会的地位も高かった。いや、むしろそこが曲者かもしれない。
だが一皮むいたらすごいものが出てきそうな感じだが、軽い付き合いなら嫌なものを見ないで済むかもしれなかった。

援助を申し出られ、本気で困っていた私たちは受け入れることになった。もちろん頼まれた仕事はした。

仕事はさせてもらえるが、私たちの名前は一切表に出さない、というのが条件だった。
つまりゴーストを頼まれたのである。
 

小さな話がだんだん大きくなり、当時の自分たちにはありえないほど大きな仕事になった。

 

ところが、その仕事が終わった後、その人物の具合が急に悪くなった。

 

その人が具合が悪くなったところで、家族はいるのだから支払いはしてもらわないと、本当に金銭的に苦しい時期だったので後が続かなかった。何度電話をし、自宅を訪れても「具合が悪い、入院中だ」の一点張りであった。

その時に初めて、その人が実は裏の世界の人ではなかったか、と考えた。

思い当る節はあった。

 

最後に玄関で追い払われたとき、これ以上追っても無駄だと判断し、涙をのんだ。

 

だが、その後、私たちが独立し、いよいよ自分たちの名前を世間に出すとき、

その人がやったプロジェクトにつけた名前をそのまま私たちのプロジェクトにつけることにした。

もちろん本人には断りなどしていない。

もらえなかった物は名前で取り返した、と思うことにしている。

そしてこの出来事を一生忘れないためにも、この名前を見るたびにあの悔し涙を思い出し、明日への頑張りに変えている。

悔し涙だって生きる糧になる。