あちらでもこちらでも「宇宙元旦」と言う言葉が躍っていて、
なんのこっちゃと思ったら、春分の日をそう呼ぶらしい。
これから夜より昼が長くなり、陽の気が強くなる。
西洋では日の長さと満月を超えた最初の日曜日が復活祭となり、
春分の日は確かに一つの区切りだ。
今年は復活祭どころか、家を一歩出るのもおぼつかないが、
家の中で静かに祈りをささげることはできる。
あちらでもこちらでも「宇宙元旦」と言う言葉が躍っていて、
なんのこっちゃと思ったら、春分の日をそう呼ぶらしい。
これから夜より昼が長くなり、陽の気が強くなる。
西洋では日の長さと満月を超えた最初の日曜日が復活祭となり、
春分の日は確かに一つの区切りだ。
今年は復活祭どころか、家を一歩出るのもおぼつかないが、
家の中で静かに祈りをささげることはできる。
周りの焦りのようなものを感じている。
このままでは干上がってしまうので、何とか自分たちを忘れないように、とでもいうように、
宣伝を出す人がちらほらいる。
が、そんなことをしても誰も家から動けないのである。
私のいる世界はイベントで食べている人も多い。
その人たちも大変なことになっているに違いなく、もちろん私たちに所にも影響が出てくるだろう。
いつまで続くかわからない中、学校もオンライン化を急ぐ。
もともとソフトはあったようだが、どうやら真面目に作ったものではないらしく、
うちのように通信インフラがいまいちの場所ではダウンロードができなかった。
それで急遽ZOOMと言うアプリを使ってみたのだが、父兄の中にダウンロードができない人が数名いて、
結局使わないことになった。
それで今度はWhatsAppと言う日本でいうところのラインを使うことになったのだが、
これは大人数でビデオが使えないらしく、結構不便である。
でも今は贅沢を言っている場合ではない。
そんなことで子供たちはおとといから夕方オンライン授業を1時間ほど受けている。
何もしないよりはましである。
そんなことをしているうちにネットの制限を超えてしまうので、使えなくなると思う。
そうなったらどうしたらいいのかも考えないといけない。
もう一つ、私たちが契約している会社が、新しくサイトを作り変えているらしく、毎日サイトの仕様が変わる。
開けてようとしても開かなくて、残りの使用量が分からない。
なぜこのややこしい時期にこういうことをしているのだろうか。
郵便事情。
これが見えないのである。
対面の受付はしないが、サービスは再開した、と言うが、対面なしのサービスで物が届くのか、
あやしい。
もう少し様子を見たほうがよさそうだ。
この生活状態は1か月では終わらないだろう。多分2か月を目安にしたほうがよさそうだ。
しかし大きな山は越えても問題はそのまま継続すると思う。
それが終わるまでどのくらいかかるだろうか。
私は2年、と見た。
科学的根拠からの見解ではない。
そのことを私の師匠に尋ねてみた。
今年は難しい、と言うのが同意見で、来年はどう見るか、と尋ねると、
しばし沈黙の後「難しいね」と答えが返ってきて、やはり2年、と思っているのではないだろうか、と思った。
そういっているそばから「2年」と言う字がネットの記事に出てきた。視点を変えても2年、ということだろう。
だが、このまま2年何もしないわけにもいかない。
今は動けないが、状況に応じて自分の在り方も変えていか ないといけないだろう。
どう変えていったらよいのだろうか。
それでもこの波に飲み込まれるかもしれない。
その時は。
その時の答えも自分の中に準備して前に進まなければ。
ヨーロッパ今やコロナウイルス感染地の中心になってしまったようだ。
私たちも国の方針に従い、家でおとなしくしている。
一応期限があって4月3日までと言うことになっているが、先の中国の様子、今のヨーロッパの状況を考えると、
恐らくそれ以上の時間がかかる可能性がある。
と言うのもこの法令に大きな穴がある。
自宅に帰る場合は、外国からも国内でも割と自由に行き来できるのである。
それゆえ、最初に封鎖された北部からものすごい人数が家族のいる故郷へ移動。
そして国外からの帰国は全く制限されていない。
その人たちが保菌者の可能性が大きいのにもかかわらず、である。
なので、一部は抑えられたが一方で相変わらずウイルスは拡散しているとみてよい。
もし中国と同じように鎮静化していくとしたら、1か月ではなく2か月見たほうがいいのかもしれない。
もちろん科学的な根拠から言っているのではないので、本当はどうなるかわからない。が、思った以上に長期戦になる可能性が大きいのではないだろうか。
今年のキーワードが「淘汰」であると言ったが、まさにその通りになっている。
体が弱い人が亡くなるだけでは済まない。これから困難な状況に追いやられていく人が、どんどん増えていくに違いない。
もちろん私たちも例外ではないので、憂慮している。
それでも生き抜かなくては。
世の中には他人の気持ちと同化しやすい人、と言うのがいる。
医学的に名前があるようだがそれは置いておくとして、
人のことを他人のように感じてしまう。いいこともあるだろうし、大変なことも多いのだろうと思う。
子供の時は教室で誰かが怒られていると、自分のことのように思って泣いてしまったり、
そんなことで繊細過ぎると大人にまた怒られることになってしまったり、
結構生きにくいのかもしれない。
私にもそういうところがあるが、その扉が開いたり閉じたりしているように思える。
子供の時のほうが開閉が激しく、自分でコントロールできなかった。
コントロールできないでいると何が起こるかと言うと、究極は憑依だと思う。
何かが乗り移った時、自分でわかる。自分と違うものが自分の感情をコントロールしているので、
自分が泣いているのに、もう一人の自分がそれを驚いてみている、と言う感じになる。
そしてそれがすっと抜けると、さっきの感情が嘘のように抜けてしまう。
今はそういうことはなくて、閉じていることのほうがほとんどのような気がする。
が、災害など不幸などの非常時が起こると無意識に開いてしまう。
これは危険だと思うので、意識して閉じる。
今はそういう時期かもしれない。
あなたなんでそんなことを、と言いたい相手がいる。
同じ国に住み郷里を同じくするものであるが、直接は知らない。あくまでもネットを通して発信するものを見て、ちょっと腹を立てている。
その人が発信するものを見たらおおよそその人の人柄と言うのは見えるものだ。
その人が間違いなく負けるのが嫌いな人だろうな、と言うのは分かる。
そこで、負けず嫌いを負かすぐらいのエネルギーを使うメリットが自分にあるのか、考える。
答えはNOである。
私はその人の言っていることもやっていることも間違っていると思うし、社会にとって有毒だと思う。
だがその人は自分が正しいことをやっていると思っていると思うので、私が言ったところで聞く耳を持たないだろう。
放っておこう。
そのうち分かる。
その時自分の行為を大いに恥じてほしい。
大体自分の国を離れて住む人間は、たいてい懐に刀を持っているものだ。
海外にいたらそのぐらいの覚悟をみなもっている。
自分の中に芯を持って生きている、と言っていい。
だからそういう意味で同族なのである。
刀の大きさも鋼の強さもまちまちだが、自己防衛と攻撃の本能を鍛えた人たちが海外に残り生きている。
もちろん私も持っていると自覚している。
だが、こんな戦いに使うのは疲れるだけなので、別のところで使うことにする。
私は今回は当事者なので、世の中で回っているニュースが真実を語っているのか、
フェイクなのか、判断のしようがある。
知っている、とは言えない。
現場の人間ではないから。
でもそんな話は聞いたことないことが、まことしやかに真実の仮面を被ってで回っていれば、
確かめられるし、違う、とはっきり言える。
それは私がいる国で60歳以上は延命することをあきらめた、と言った趣旨の記事だった。
それを始めて見たのはだいぶ前で英語版。
そして一昨日あたりから日本版を目にするようになり、
今度はなんとテレビがまじめに取り上げている、と聞いて腰を抜かした。
フェイクニュースをまじめに論じている日本のマスコミよ。
どこに言われてそんな仕事をしているのだ?
と、ここで私が叫 んでも、決してマスメディアの目には止まらないであろう。
こうしてデマが平然と両手を振って闊歩し誰かに利用されている、と言うのを目のあたりにして、意気消沈した数日であった。
日本人は農耕民族で、西洋諸国は狩猟民族である。
そこから日本人らしさ、例えば和を大切にし、自然信仰が生まれ、日本独自の文化が生まれたと言う話は、
いつから言われてきたのか知らないけど、学生の時の教科書、入試問題などで、それ以外でもテレビラジオ、何度も目にし何度も耳にし、疑う人がいないようである。
私が学生だった頃から何十年もたっているのに、それ一辺倒である。
今は「和」についてのみ話を進めてみる。
実際に西洋で暮らしてみると、
しかも農耕をしている人たちと接してみると、たいして日本の農業を営む人たちと変わらない。
西洋人も農耕をずっとしてきたわけで、日本人は農耕民族ゆえに和がある、というその説が真実から歪んでいる、と気が付くのである。
まず、狩猟と農耕の歴史を見たら、人類史の中で狩猟の歴史が先、農耕が後という過程をみな経ている。日本も狩猟の時代を得て農耕を始めた。
農耕の歴史だけを見ると、日本はかなり後進国である。
西洋諸国が狩猟民族、と言っているが、狩猟だけで食べている国などない。日本人が稲を植えることをやっと覚えたころ、ほかの国はとっく何千年も前に農耕を始めていた。
ただ、日本は狩猟をする人たちを宗教的な意味で、あるいは政治的な意図で、いつの間にか別の集団として分けてきたことは間違いない。
狩猟と農耕文化がうまく融合されておらず、意図的に分断されてきたのだと思う。
では、日本が稲作だったのでより協調関係を求めた、そこで和を乱さない文化を生んだ、と言うのはどうだろうか。
確かに田んぼに水を引くのには、すべての田に水を得るために、はみ出し者を許さないのかもしれないが、西洋の農耕もお互いに協力し合わなければ成り立たなかったはずだ。畑だって水が必要なのだし、昔は家を建てること一つとっても、協力関係なしに生きられなかったはずである。むしろ、もし彼らが狩猟民族なのであれば、そのほうが協調関係を求められるだろう。狩りは一人でやるわけではないのだから。
もし日本が和を重んじる文化だというのであれば、、それは島国だからだろう。
よそ者を自分たちの色に変える強制力が強い、と言うのが和を重んじる正体だ、と思う。
西洋諸国は多民族である。日本の様によそから入ってきたものが常に弱者で必ず強者に飲み込まれていくものあるのに対し、他民族の力と拮抗する中、相手と簡単に融合するのが難しい故、自分を確固と持ったうえでの協力関係をどう求めるのか、と言うのが常に西洋諸国の課題であると思う。
ただ一つ、日本人は農耕民族と呼ばれたいのではないか、と、そんな気はしている。
自分の立場とか、所属している場所から、どう判断するか、と言うのをいつも決めるのだが、
それとは別に、もう一つ別の視点をもって今起こっていることを見るようにしている。
空から自分たちの住んでいる世界を見る感じ。
隣にあるものは普段は比べてどちらが正しいか、とか、どちらがより良いか、と考えるが、それをやめる。
全体でどう見えるのか、と言う感じ。自分はどこにも所属していない。空の人。
それから「今」という時間からも遠く離れて見てみる。
自分の人生を考えるとき、人と比べたらこのぐらいだから、このぐらいほしい、と言った比較で目的を決めるのはやめたほうがいい。
比べるとないことが苦しくなる。自分で苦しみを作ることはない。比べないで深く深く自分の中に降りていき、自分の叶えたいことを探す。
何度も言うけれども。
でも人生は叶う前に終わることがある。
そう言う想定もしてみる。
もしここで終わっても自分は満足できる人生を送っただろうか?
災害が起こっても、
今回のようなことがあっても、
自分は毎日充実して送っているのか、振り返り図ることのできる良い機会、ととらえたい。