心配した新しい年号は、思ったより良かったんではないだろうか。
少なくともみんなが心配していた最悪なものではなくてよかった。
最悪の名前だったらキッパリ年号と決別して生きて行こう、と思っていたのだが、
「私は昭和、平成、令和を生きた」と言っても良いかな、と思える。
「令」の字が気になる人が多いらしい。令嬢の令ではなく、実は命令の令なんじゃなかろうか、と思う人も少なくないらしいが、
それは心して否定して「令は’よい’の意味」と思って過ごす方が良いと思う。
が、こちらイタリアのネット配信を見ていると「令とは命令のこと」と書いている記事が出回っている。
困ったことに、きっとなまじ日本語ができるイタリア人が書いているに違いないが、そこに深く文化を知るということの難しさを見るのである。
ちょっと日本語ができたら命令の令でいいが、令には他の意味もあるかもしれない、と思ってもいないのだろう。
誰かがその記事を訂正してくれることを期待する。
しかし一度正式に記事として出てしまうと、たとえ日本人が「それ違います」と言っても誰も聞く耳持たないのである。
コメントで「違う」と言ってもそれはほとんどの人の目に留まらない。
「なるほど、それが日本の伝統ですね」
とか、
「興味深い」
とそれ一色のコメントになる。
同じようなことが先日他の場所でも起こっていた。
その人は日本に住む某イタリア人であったが、春分と節分を間違えて紹介していた。
なんと春分に「鬼は外、福は内!」と言っているので、それはさすがに私も黙っていられない気分で見ていた。
だが、それには私より前に気が付いたイタリア人が「え?春分じゃないですか?」と指摘する人が居た。
それに対して、彼はこう答えた。
「確かに、だが、節分とは季節を分けることを意味するので、同じことだ」
そらあんた、いくらなんでも乱暴な。
確かに節分は季節を分ける日を言うが、正確には立春、立夏、立秋、立冬の前日のことなので、言い訳しても間違っている。
そこまで詳しくなくても良いにしても、「鬼は外福は内」は是非節分に口にし、イタリア人的にソラマメを春の味覚として味わうのはよろしいが、ついでに牡丹餅も食べてほしい、と思った。
結局その投稿は、間違いを正した数人のコメントをかき消す勢いで、他の日本のことなどほとんど知らない普通のイタリア人に、
「伝統、素晴らしい!」とか「面白いですね!」と言った内容のコメントと、イイネ!を多数獲得して終わった。
日本人としてはなんだかなー、と思ったが、イタリア人が節分と春分が分からなくても大したことではないな、と忘れることにした。
そしてもう一歩踏み込んで言えば、そいうことが起こるということは、逆に日本人が勘違いしたイタリアについての記事も一杯で回っているということだ。
私もきっとそう言うことをやってしまっているかもしれない。
あとから何年もたって「それって実はそう言う意味だったんだ」と気が付くこともあるのだから。
そして再度思う。違う文化を深く知る、と言うのはそう簡単ではないのだ、と。