右奥のインプラントを入れて9年の歳月がたった。それまで違和感は常にあっても特に問題なく、普通に食事をし咀嚼をしてきた。

それがだんだん違和感が強くなり、インプラント前後に何かが詰まるような感じが常にあるようになってきた。恐る恐る口の中を覗き込んでインプラントをした歯に触れてみると、はっきり動くのが見て取れた。
普通自分の歯は、左右に押してみるとちょっとだけ動く。それだけ柔軟にできているらしい。ところがインプラントは全く動かない。動いてはいけないらしい。それはそもそも不自然なことで、違和感の理由かもしれない、と私は思う。だが、そういう仕組みなのだし、そもそも自然じゃないのだから当たり前なのだろう。
それが動いてしまう。焦った。

 

インプラントが色々問題があることは知っていても、どんな問題があるのか探ってしまったら、怖くなってしまってできなくなるだろう、と思って、するときも調べなかったし、した後も、調べなかった。だから、そんなことが起こって初めて焦ったし、怖くなった。
それでもこれが一体どういうことなのか、調べなかった。怖い事には目をつぶっていたかった。

とにかく、歯医者に行かねばならない、と普通に思い、施術をした歯科医Mではなく、Mから乗り換えて通っていた歯科医Fのほうに連絡を取った。
私は歯科医Mに見切りをつけてFにしたのだから、当然のことだと思って何も疑問に思わなかった。

ちょうどコロナが始まった年だった。イタリアは強烈なロックダウンをかけていた最中で、どこに行くのも億劫な時期だった。ようやく予約を取って行ってみると、診察に当たったのは父F歯科医ではなく息子Fのほうだった。

これが私の不幸の始まりである。

ここで施術をしたのか、と聞かれたので、違う、と答えた。

保証書はありますか、と聞かれて初めて、私は保証書も持っていないし、インプラントのメーカーが分からない、と言うことが判明した。それとももらったのに、自分が忘れてしまったんだろうか?
ではまず施術をした歯科医に問い合わせをしてメーカーを調べてみてください、でもとりあえず見ましょう、と口の中を触られた。

メーカーが分からないのに、なぜ口の中をいじったりしたのか分からない。その時点で、こいつはおかしい、と思わなければならなかったのに。
このせいで、ちょっとガタガタがさらに進行した。

私は歯医者に行ったらすぐに治るのだと思っていた。ネジが緩んでいるからガタガタするのだろう、と言うのは想像できたので、それを閉め直せばいいだけの話だろう、と思っていたから。

でもそういう単純な話ではなかった。ネジを締めるためにメーカーが分からないとネジ回しがあわない、と言うことなのだ、と知って大いにショックだった。

でもメーカーが分かればネジ回しは見つかるのだろうから、とりあえず歯科医Mに連絡を取らなければならない。今まで縁が切れていたのに気が重いな、とだけ思っていた。

父F歯科医に無くした小臼歯を補うには、インプラント以外に選択肢はありますか、と聞いたところ、「ありません」と返ってきた。インプラントを入れたくない私はどうしたらいいだろうか?

夫の友人の義兄が歯科技工士だったので、相談をしに言ったら、「良い部分入れ歯があるよ」と勧めてくれたので、そのままそこで義兄技工士に作ってもらうことにした。
日本では歯科技工士が単独で働くことはないのだろうか。私は聞いたことがない。イタリアでも治療はもちろんしないが、義歯を作るだけならお願いすることはあるらしいが、イレギュラーなことなのかもしれない。その辺は決まりごとに縛られるより便宜さを優先するお国柄かもしれない。こういうことはこの国にいると良くあることなので、私は一々追求しないことにしている。
自宅から遠かったが、何度か通って(多分2回で済んだと思う)部分入れ歯が完成した。金属部分がないのでその分違和感が少ないんだそうだ。とはいえ、部分入れ歯は部分入れ歯なので、やはり慣れないと違和感はある。でも取り外せるのがいい。
普通に食べて大丈夫、と言われたが、このタイプの入れ歯は耐久性が低い、と言うことに後々気が付いた。前後の歯に引っ掛ける部分が細いので、その部分が折れやすいのである。
この入れ歯が壊れたのは、ちょうどインプラントがガタガタし始めた直後だった。ということは、5,6年後ぐらいか。左右同時にガタが来たのはショックだったが、よく考えたらこんなプラスチックの破片を口に入れて毎日力をかけていたのだから、良く持ったものだと思う。


 

インプラントなんてもういい、こんな違和感が口の中であちこちあったらたまらない、と思っていたら、最初のインプラントから数年後、また歯を失うというアクシデントに見舞われた。今度は左小臼歯だった。
その時はオリーブの実を食べていた。市販ではなく家庭で漬けたものだったので種があったのである。もちろん種をかみ砕こうなどと思っていたわけではない。自分としては軽く歯が当たった程度の事だったのに、ガツン、と衝撃があって歯の根本まで割れてしまった。

 

当然兄M歯科医のところには行かなかった。インプラントの違和感から不信感があったし、徐々に噂を回収し、弟Mがいなくなっていたことも知っていた。それで私はF歯科医に再び通うようになっていた。

ところが、そのFのところで新しい変化が起こっていた。Fの息子が一緒に働き始めていたのである。
 

兄弟Mが全く違う性格であると噂に聞いていたように、父子Fもまた、全く違うタイプだった。父F歯科医はごく普通の人である。年齢も重ねて経験もあり、おかしなところは別にない。強いて言えば徳川幕府に詳しいことだが、それは父Fが教養ある人物であるということで日本人にとっても良いことだと思う。それに際し、息子は初対面ですぐに神経質さが目に付き、口を開けるのを躊躇させるような、いら立ちを内包している人物だ。

 

根元が折れてしまったにもかかわらず、インプラント施術に移行してほしくないがために、私は「何とかこの歯を残す方法はないか?」と息子Fに聞いた。

息子は「分かりました、ではやってみましょう」と結構あっさり答えた。

 

多分息子Fは「できない」と絶対に言えないタイプの人間なのだと思う。Noと言ったら負けとばかり、何でも引き受けてやってみるのではないだろうか。
その彼の、私から言わせれば医者にあるまじきおかしなプライドのせいで、私は後々ひどく苦しむことになるのだ。

あの時にそれに気が付いていれば。

 

根元を残す治療をしてもらいに予約日に再び医院に戻ると、治療にあたったのは息子Fではなく父Fだった。

 

「じゃ、抜きますね」

と言われて私はびっくりした。根元を残す方向で、とお願いしたんですが、と言うと、

 

「そんなのありえないでしょ、この状態で残したってすぐにまた抜くことになりますよ。今日、抜くべきです」

 

後から考えたら割れた根元など抜く以外ないのだった。私が「残す方法はないのか」と言われても医師は「できない」と答えるのが正解だったのだろう。余計な時間やお金を使わせずにさっさと抜いた父Fの判断は、患者の身に立った判断だった。そして、息子Fの診断を容赦なく切り捨ててくれたおかげで、私は無駄をせずに済んだ。

施術後、アシスタントの女性に、

「先生に任せていたら心配ないわよ」

と声をかけてもらったことで、これで良かったのだ、と納得した。

 

そうだ、この件では救われた。

もしインプラントがおかしくなった時に、父Fが見てくれていたら。

兄M歯科医がどんな人かと言うと、どちらかと言うと医者と言うより職人系、しかも力仕事系の職人の雰囲気を漂わせている。丁寧に患者の気持ちに沿って優しく、ではなく「心配すんな!」とどつきそうな感じ。もちろんそんなことはしなかったけれども。
いよいよインプラントを始めるにあたって、M歯科医にプラス別の歯科医が一緒に担当した。その人がまた歯科医師らしからぬ雰囲気で、ニコニコやたらとお愛想だけがいい。人のことをくすぐっておいて自分でくすぐったがって笑っているような、よくイタリア人にいるタイプで、こういうタイプは信用が成らない、と今はそう結論に至っているが、その時はそこで「やめます」とも言えず、まさにまな板の鯉だった。


「この先生は病院の先生で、彼がインプラントをしてくれるので心配しないように」

 

とのことだった。つまり、兄M歯科医ではなく、ニコニコ歯科医が施術するということらしかった。と思う。なんせ11年も前のことだから、今となっては、どんな風にどちらが担当したのかよく覚えていない。でもわざわざ病院の歯科医がいたのだから、彼が穴をあけたのだと思う。

夫曰く、病院務めの歯科医ぐらい怪しいものはないんだそうだ。
歯医者にかかるのはイタリアではすべてプライベートで保険がきかない。だが、もし保険を使って治療しようと思ったら病院に行く。確かに治療は受けられるが、使う素材も腕もいまいちなのでよっぽどお金に困っていなかったら行かない、と言うことである。
そいえば日本でも総合病院に歯科はあるが、そこでわざわざ治療する人と言うのは話に聞かない。理由は似たようなことなんだろうか、それとも別なのか。総合病院の中に歯科がある意味は分かるのだけれども。

病院の歯科医と言われたら首を傾げよ、というのは、後から考えたらなるほど、と言う憶測なのだが、そんなことは思いもせず、すでに診察椅子に座っていて、何か言えるわけでもない。

 

そのニコニコ歯科医に会ったのは、その日その時一回きりだった気がする。

 

穴をあけ、インプラント体を埋め込み、歯を取り付け、すべての行程がうまく行った。骨もしっかりついて問題はなかった。

 

ただし、何とも言えない違和感があった。それが何だか分からない。できればもうインプラントはしたくない、と言うのがインプラントをした後の感想だった。

後から起こってきた問題から考えると、多分噛み合わせの問題だったのかもしれない、と思っている。

 

セカンド、サード、と言わず、もう少し分かりやすく名前を歯医者につけることにする。
歯を抜いてもらったFと言う歯医者に通っているのだ、と友人に話したところ、そこは評判が良くないからやめなよ、いい歯医者を知っているからそっちにしな、と勧められた。
私はそんなに悪いと思っていなかったのだが、そう友人に言われてそうかもしれない、と思った。小さな虫歯や歯を抜くならともかく、インプラントをしてもらうなら良いと勧められたほうにしたほうがいいかもしれない。

Fと言う歯医者は、最初に私が治療に行ったときに突然「徳川時代が好きだ」と言い出し、治療をしながらなかなかの日本通ぶりを披露してくれた。私としては治療しながら徳川家康の話をされては落ち着かないから治療に集中してほしかった、と言う気持ちはたしかにあった。そういうところがF歯科医のいい加減さを物がっているのかもしれない、と友人に言われてから思った。

今考えてみたら、日本人の私が来たから親しみを込めて話してくれただけで、彼の歯科医の腕とは関係ない話だったかもしれない。

 

友人に勧められた通りMと言う歯医者に行った。そこでインプラントにいくらかかるのか聞いたところ、F歯科医よりわずか100ユーロ安かった。当時その100ユーロが惜しかった。まして友人に勧められたのだから、私は迷わずMを選んだ。

 

だがじつは、友人の勧めたMは弟のMで、私が見てもらったのは兄のMだった。友人が見てもらった当時いた弟のほうはうつ病で医院を去ってしまっていたのである。そんなことを当時の私も友人も知る由もない。そして良くあるように弟はずば抜けて優秀だったが、兄は全く別、と言うのが後から聞いた話だ。

 

そうじゃなかったとしても、友人はせいぜい虫歯の治療しかしていなかったのに、どうしてその医師がインプラントをしてもらうのに適切な医師だとわかるだろう。虫歯の治療とインプラントは全く別の事だし、治療を受ける側もそれを理解していたほうがいいと、今は思う。
そんなことは当時私も友人も全く分かっていなかった。

 

もしあの時、その友人が私にM歯科医を勧めていなかったら。もしあの100ユーロを惜しまなかったら。そう思わないわけではない。

 

それから私はこのインプラント問題で何度も歯医者に通うことになった。そして不思議なことにその予約があるときにばったりと途中で友人に会うことが多い。

友人のせいではないのは分かっていても、何とも言えない寂しい気持ちにはなる。

子供を産んで歯のトラブルを持つ人は多いのではないだろうか。

母は良く「子供たちにカルシウムを取られた」と言っていたが、実際はどうやらつわりが原因らしい。

確かに私も母もつわりは割ときついほうで、長い事食べ物を戻してしまっていた。
あの時せめてすぐに口をしっかりゆすげば。できたら歯磨きをして、しっかりケアをしておけばよかったが、当時の自分にそう言ったら「そんな余裕はなかった」と答えることだろう。

それから3年後、最初の歯を失くした。
その時通っていたのは今現在インプラントのセカンドオピニオンになっている歯医者だった。どういう過程で抜いたのかは記憶が曖昧である。
どうしてそこにしたのかは、友人に勧められたから、ぐらいで大した根拠はなかった。その友人は勧めておいてそのうち通わなくなった。夫も私も新しく住む土地で、長く住んでいるのに義姉は全く歯医者に詳しくなかった。義母はすでに歯医者が必要なくなっていたし、総入れ歯にする前は別の場所に住んでいたから、やはり歯医者の情報がなかった。
それで、もっと確かな「絶対にこの歯医者」と誰かが勧めてくれる場所があったら変わってもいい、と言う気持ちもあった。別にそこが悪かったわけでもない。インプラントなんてもちろんしたことがなかったし、知識もない。そもそもその当時は経済的にも厳しかったから少しでも安くやってくれる所に行きたい、とも思っていた。

 

 

昨日セカンドオピニオンの医者に行ってきた。セカンドではなく実はサードなので、昨日行った歯医者はサードと呼ぶ。
インプラントはメーカーが違うと施術が難しいので、良い返事はもらえないだろうという覚悟していた。
と言うのも、施術をした歯医者がメーカーを意地でも教えないからである。

一月前に同じくガタガタした際、かろうじて一筆書いた紙一切れもらってきたが、そこに書き込んであるメーカーが見つからないらしい。それはセカンドオピニオンの歯医者にも言われた。

案の定、とりあえずガタガタを直してもらいに元の医者に行って時間稼ぎをするように言われた。

 

そこでは歯科技師と歯医者の両方が見てくれて、歯医者がちょっとつついたせいか、帰り道に義歯はクルクルと回り始めてポロっと取れた。

サードの歯科院を出た後すぐに施術した歯医者の予約は取ったが、明日の朝まで待たないといけない。インプラントの義歯が外れたらすぐに歯医者に行った方がいいんだそうである。何でも細菌感染しやすいんだとか。

これで噛めなかった右側で噛めるかと思ったら、そういうことではないらしい。なるべく柔らかくて歯に負担がかからない物を選んで食べようと思う。

 

2月の中旬にガタガタし始めてたインプラントのネジを締めに行った。帰ってきてすぐにこれはだめだな、と思った。たいして持たない。すぐにガタガタし始めるだろう。
インプラント側で噛むととても違和感を感じるので噛むのをやめた。それでもダメになる日はすぐに来ると思っていたら、一昨日の夜、またもやガタガタし始めた。1か月ちょっと持ったことになる。短すぎる。
ガタガタしているだけならいいのだが、1日も経つと歯茎が傷みだす。それが日を追うことに辛くなる。今回は週末を挟んだのでいつ歯医者の予約を入れられるだろうか。

 

ガタガタするたびに歯医者に行く、をこの2年間一体何度繰り返しているのだろう。

解決策はないんだろうか。

大事にしていたものが壊れてなくなっていく。
美しいものが奪われて消えていく。

ニュースはそんなことばかりだ。

 

そんな中でも宇宙はいつも色々な色と光を放ってそこにある。
私達が大事にしていたことが何もかもなくなっても、宇宙はそこにある。

 

地球から最も遠い星の話がニュースの最後に出てきた。
今朝一番心が動いた話だった。

私から手紙なんて、思っても見なかったでしょう?しかも日本語!でもわかると思っています。
急にあちらに旅立ってしまったので、私たちみんな本当に驚いているし悲しんでいます。

話だと自分で決めたのだとか。本当ですか?本人に聞けばわかることなんだけど、こちらで分からないから検死するのだと聞いてる。もう終わっているはずだけど、連絡もらっていません。多分お別れも済んでるのかな。
この国で自分で旅立つ人がどんなふうになるのか、ちょっとわからない。私の育った国とは違うのかな、と思ったりしてる。
旅立ちに立ち会えるのなら、私たちも行こうと思っていたんだけど、無理なのかな。
これが最後の手紙だと思わないで、また連絡します。
こんな事になるならもっと聞きたいこと聞いておけばよかったな。