まどぎわロードショー -3ページ目

まどぎわロードショー

寝て、起きて、聞いて、観る

「近頃の若者はあいさつができない」という言葉をしばしば耳にする。

 

この話はなにも若者に限ったことではない。近所の大人どうしがすれ違いざまにあいさつする光景は都会ではあまり見られない。


物もサービスも豊かで便利な現代は人と関わらずともそれなりに生活が送ることができてしまう。

 

あいさつは真心をあらわすもっとも手っ取り早い手段だ。しかしあまりに当たり前すぎるがために、あいさつは形式化している。しかし、そんな当たり前のことだからこそ意識して行うとちがった世界が見えてくる。

 

 

留学していた頃、とにかく生活の不便が多く、自然に人と接する機会が多かった。ひとりで解決できないことが多かったため、否が応でも人とコミュニケーションを取らなければならない。
ある日、洗濯をしようと寮の共有スペースを訪れたとき。僕が洗濯所に入ると中東風の出で立ちの男が入れ違いで出て行くところだった。すれ違いざまに何気なく「やあ」とあいさつした。すると、彼は洗濯機の操作がわからず諦めて部屋に帰るところなんだが、君はわかるかと尋ねてきた。


それから数十分間、ぼくたちは話し込んだ。機会の操作の説明からはじまった僕たちの会話はお互いの故郷の話や、留学先での行きつけの店、交友関係をぐるぐると周り、しまいには好きな異性のタイプにまで行き着いた。

 

この、ウクトゥという名のトルコ人とは後にキャンパスで再会した。それから数度彼の行きつけの安いトルコ料理屋に連れられ、いくつかのトルコ語を教わった。

帰国してしばらく経って、地元の近くのトルコ料理屋に友達と行く機会があった。ウクトゥのことを久しぶりに思い出したぼくは教わったトルコ語でトルコ人の店主にあいさつをした。店主は非常に喜んでくれた。

 

店主と懇意になったぼくはよくこのトルコ料理屋に足を運んだ。そうして、このお店の常連の多くの移民たちと知り合った。移民の数が比較的少ない日本の郊外では、こういう外国料理屋が彼らの憩いの場になっていることを知った。彼らと話すうちにぼくはだんだんと日本の移民政策について興味を持ちはじめた。

 

今、政治経済の資料に並ぶ文字を目で追いながらふと考える。自分がなぜ今この本を読んでいるのか、なぜ勉強しているのか。そのはじまりを辿るとあの寮の洗濯場でのウクトゥとのささいな会話、もっといえば「やあ」というあいさつに行き着く。

 

 

「当たり前」のあいさつがなければ、ぼくは地元のトルコ料理の存在などつゆ知らず、まして移民などにも関心をよせず、政治には興味をもたずじまいだったかもしれない。たしかにこのことですら些細な運命かもしれない。しかし、ふと自分の辿ってきた紆余曲折を辿るとしばしばあいさつの役割の大きさに気付かされる。

 

なんてことはない、「やあ」くらいの言葉。こんな些細な言葉が、もう一生関わることなく記憶の奥に消えていくはずだった人々と強くつながるきっかけとなった。

 

「たかがあいさつくらい」と思うかもしれない。しかし、もしあなたが、些細なつながりしか持たない人に偶然会ったとき。あいさつするかしないか迷うくらいの仲の人とすれ違ったとき。その人が笑顔ですすんであいさつをしてくれたらどう思うだろうか。誰もが単純にうれしいはずだ。

 

たかがあいさつ、されどあいさつ。当たり前すぎるからこそ、あらためて意識すると、当たり前の習慣があなたの世界を広げるきっかけになるかもしれない。

 

あいさつは、あなたのもっとも身近にある、冒険の世界への鍵になるはずだ。