シテキフクオカ


 くゆりなく、続く、黄色のイメージ。


輝き、きらめいて、明滅して、半―永遠となる。


 福岡のきれいなイメージは天神に集約させられる。

そしてそのような福岡と天神とをいったいに結びつけたときのそれのイメージは、黄色である。


 明るい黄色。温かみを持った黄色。日和見的な黄色。温和な黄色。平和な黄色。

赤でも青でも緑でもない。 天神、福岡は黄色というイメージに集約させられる。


 天神は、日本の繁華街においてもっとも歩きやすい街なのかもしれない。

東京ほどではない。大阪ほどではない。人ごみは人ごみである。しかし大した人ごみではない。


天神地下街。天神地下街のイメージは、上空の華麗な花模様に集約させられる。


 どこを歩いても、上の薔薇が咲き続け、それらは私たちの歩む道をずっと拡がり、咲いて、彩りつづける。

 白/黒の抑えられたモノトーンの配置も見逃されてはならない。壁は白、天空は黒といった風に。


綺麗な道のりならば、天神南から天神まで歩くのも大儀にはならないだろう。

 もうすでに歩くだけで私たちの目は、視線は、きれいなもの、色とりどりのもの、美しいものに癒される。



天神地下街であろうが、普通の道であろうが、舗装された道がまたポイントだ。


きらめき通りは日本の市街地で最も気高く美しい通りの一つである。

 あそこにシャネルやバーバリーの店が立ち並んでいなくとも、きらめき通りを歩く人は誰でも清らかでうきうきした気持ちになれるであろう。


あちこちに植えられた木。四つの季節によって、その花や葉が彩りを見せる樹木は分かたれている。

 この街では植えられた植物も歩く私たちもほとんど一体だ。集積して一つの景色をかたちづくっている。


 どれも有名なビルディング(これについては後述する機会があるかもしれない……)。


特に、天神VIVREと大丸、それからPARCOは私のお気に入りだ。



* 詩的、私的、誌的、 福岡。



(書いても終わらないし、まったくうまくないどころか破綻をきたしている文章なので、このへんで筆を置きます。)

ちょっと思いいたったことがあるので、短くはあるが、書きとどめておこうと思う。


 それは、近代(の精神)と、資本主義の過剰は、根本的に結び付かないのではないか、という主張である。


 というのも、近代の人間の(理想)像は、責任を持ちつつ自由を希求する、理性的で、何と言っても「主体的な」人間である。


主体的人間。 それはしばしば、自己の確立をともにする。


いわゆるアイデンティティ、自己同一性というやつだ。


自己同一性が確保されて初めて、人は個人として主体的に、責任を以て振る舞う事が出来る。


 ただし、主体的に行動することが、自己同一性の必要条件かどうかは、さらなる思考が要るであろうが。



さて、過剰な資本主義の社会では、人はしばしば、というかますます、プライヴェートと仕事のモードを切り替えるようになっている。


私的(圏域)モード / 公的=社会的(圏域)モード の、「峻別」(厳しく区別すること) というわけだ。



 僕も実体験として、アルバイトですら、普段の時の意識から完全に「モード」を切り替えて、「仕事の時間の精神」で、仕事をしている。



ということはだ。 これは、自己同一性を大きく揺るがすことではないのか。


 つまり、私的な圏域での「私」の精神と、公的な圏域での「私」の精神とは、端的に分裂しているのである。


「私の中に幾つものちがった主体がいる・・・。」


私が「加速する資本主義、過剰な資本主義社会」とかいった言葉で指し占めているのは、現代のことである。現代の、ますます加速していく資本主義のスピード。


それは、端的に、近代の割と大事な前提である、個人の自己同一性を、分裂的なものにしてしまう、脅かす。


過剰な資本主義社会体制が、近代の精神を壊す可能性がある。



そうではないだろうか?


(素描)


 気合を入れて思考している分、文章は後から見るとむちゃくちゃなものになるだろう。恥さらしの意味合いでも消さないで残しておこうと思う。



考えたいのは、〈森〉である。 〈森〉とは私の用語であるが、つまり概念化したいからそう表記しているだけなのだが、端的には、あの森、山とか林とか(林はあまりにも人工林のイメージかもしくはヨーロッパ的なイメージが強く、私はあまりオススメできない)、若しくは「自然」「環境」と場合によっては同じ意味の森である。


森= 諸々の差異の存在からなる総体



これである。以上終わりとしたいくらいである。


 これはつまり、哲学にたしなみのある人なら、〈一=多〉の思想と呼び変えても良い。多様体だ。手塚治虫の『火の鳥』をイメージしてもらってもよい。


森には、土があり、草があり、樹があり、空気があり、石があり、カミキリがいて、人間の建てた小屋があって・・・


そう、それでおしまいなのである。


もっと別の観点から言う。


 生成し、消滅する諸々の存在がある。


 世界史を見ても、火の鳥のからだの中をみても、森をみても、様々な商品の集成から成る資本主義的市場をみても、明らかではないだろうか?



世界は、森である。森が在る。 自然哲学は、これだけを言えれば十分なのである。



 間違いがある。主にはキリスト教的なありっとあらっゆる概念、思考法、生活様式、全部である。


あいつらは、まず、その森を最初に作った「神」というものがいる、そう言ったのである。


 そう、つまり、世界構成を、作るもの/作られるもの の二つに分けてしまったのだ!


神の存在証明という哲学的にも有名な話題があるが(それは現代においてもちょっと残っているが)、私が思うに、神なんてものは人間が頭の中で作り上げたものに決まっているのだ。


 神を持ち出すと説明が楽になるからね。


しかし、神なんて見たことある人マジでいないし、マジでいない。


 むしろ問題はここからだ。


つまり、人間なくして神はない。


しかし、もしかしたら人間が神かもしれない…。



これには、ちょっと考えることがあった。


 そう、この知識を持った人間と指し示されている、この私たちが、神だとしたら?


神= 作るもの


 確かに、人間は家を作るし、建造物を作るし、スパナを作るし、陶芸品もつくる。


しかし、リスだって子供を産む。


この考え方はあまり有効でなさそうだ。


 結局、人間も含めて、世界は生成しては消滅する存在の総体、つまるところの森、それだけなのでないか…。



 森の存在様式は、水平的に伸びていく。  Aが生まれ、その対抗Bが生まれ、A”が生まれ、非―Cが消滅し、そしてDが生まれ、・・・・・・・・



 これに対して、人間は、まるで神の代理人であるかのように(実際西洋人はそう言ってきたわけだが)、森、つまり自己以外の諸々の存在を対象として把握する。


 ここに、二分法が生まれる。 管理する者と、管理される者、支配する者と、支配される者、植え付けるものと、植え付けられるもの。


 これらは、二分法、つまり思考の様式=認識から生まれる差異である。 これを認識論的差異と呼んでおこう。



話はずいぶん変わって、ドゥルーズは差異の哲学を主著『差異と反復』以降展開し、そこから21世紀の思想の中心ワードに「差異」も入ってくるわけだが、


 この差異というのには、私は認識上(ここややこしい)、 区別しなければならないものがあると思っている。


何も難しいことではなくて、それはまず1、 認識論的差異、つまり人間が頭=思考の中で創り出した差異。  支配する者/支配される者、抑圧する/抑圧される 賃貸人/賃借人 ありとあらゆる二分法



それから、2 、存在論的差異 、 つまり〈森〉のなかでの、土とカミキリの違いとか、フンと切れ端のロープの違いとか、まぁそういうことである。



 そして、1の認識論的差異を尊重=重視する思考にハマっていくと、人間はありとあらゆる「対象」をわがものとし(つまり従属化させ)、やがては、千葉雅也の言う「存在論的ファシズム」へと走っていく。


 共産主義への夢、桃源郷、世界共和国・・・。   これは、私は「垂直的」な動きだと思っている。


やがて人間は〈一〉になる、とでもいうような。


つまり、世界=人間=神 とでもいうような。


 これこそが、まさに「死せる神」である。 なんだろう死せる神って。



それに対して、やっと本稿の最初に立ちかえるのであるが、


〈森〉のなかの諸々の生成しては消滅していく存在を、水平的に、在る意味平等的に?(このコトバはアヤしい)、見るというか、捉えるというか・・・。



なんか、要は、管理しようと思っても思ってなくても、勝手に死んでいく奴は死んでいくし、予定調和じゃないけど、自然てそんな感じよね、という話になってしまいそうだが・・・  そんなわけではない。


それではただの「弱肉強食の思想」、「食物連鎖の哲学」になるし、そう呼べばいい。


この食物連鎖とかいうのは、生物学の大発見だと思うんだけど。


そうじゃない・・・


まず、 1 創る神は存在しない

     2  存在だけがある

     3 認識論は窮極には人間を超えない (しかし人間の歴史を調べるにはこれほど便利なものはない)


    もし、ドゥルーズの思想が、私が上で呼んだような「認識論的差異でなく、存在論的差異を」みたいなテーゼにも親和性があるのだとしたらそれはどうなのだろう。


 もちろん、私はいまの世界の人口の割合とか、資源配分のすごい困難な問題のことを念頭に置いて考えている。 存在が無限に増えると仮定したら大変だからだ・・・。



近年、自然哲学への回帰みたいなことがバカバカしく叫ばれている。 簡単に自然哲学いうなボケとか思う。少なくとも自然哲学を本気で専攻・勉強してない研究者が「これからは自然哲学だ!」とかいうノリで言いだしたら蹴っ飛ばしてやる。


 自然なんて言葉は使わない方がいい。確かにそれは示唆に富んでいる。nature 示唆に富みすぎているだろう、「本質」なのだから。エッセンシャル。 しかし日本人がそれをやるためには、具体的にある木とか、花とか、森とか、山とかいう馴染みのある言葉をもっと使った方がいいと思うよ。 自然と言う言葉は多義的だからあんまりよくないと思う。


 柄谷行人の自然哲学への注目・回帰(『哲学の起源』)は、なかなかいいセンをいってると思う。


柄谷は、山を歩きまくった柳田論も完成させたわけだ。彼はこれから帝国論を仕上げるらしいが、ぜひ一度、近くの、あまり手入れされていない山に登山でもしてみたらいいと思う。


 自然哲学というのは、要するに森とか山のことを考えることであり、そしてヨーロッパの山と日本とかの山はまた全然違う訳だから、日本人が自然哲学を頑張ると、なかなかいいと思うのである。


私はそれをやるけどね。 これも序説の素描だ。 しかしなんだか私なりのチョー適当な西洋哲学の全体的まとめみたいになってしまっている気がする。




もう思考がまとまらないので止める。 

 最後に一つ付言しておきたい・・・ 私はビッグ・ダディに生理的な嫌悪感を感じる1人の人間である。 経済的に子供に豊かな暮らしが見込めないかもしれない状況で、理性もある大人が子供をたくさん作ってそれでお前らはファミリーじゃー!とか 言うのは第一趣味が悪すぎる。


 端的に、子供の数は今の日本の経済状況では限界があるだろう。



なんというか・・・  漫画『ブラック・ジャック』の悪役・ドクターキリコ(安楽死医師) のことを真面目に考える時が来た気がする。 しかしそれもまた「認識論的差異」に基づく思考ではないのか。ううむ


(了)

私の哲学の基本の1人は、ホッブズの政治哲学である。


 今回、リツイートに暴力論を出すにあたって、デリダを直接的には扱うけど、結局これはホッブズの延長戦でもあるし、もっといえば僕が政治哲学を考える時は、いつもホッブズが念頭にある。


 やはり、大学2年の時に、ホッブズ『リヴァアイアサン』の第二部を精読した講義が大きい。

それから、僕が発表をやった時、教授から第一部の「人間について」を読むように言われ、それを買って読んだ後もずっと考え続けた。



 まぁ、ホッブズ関連でいえば、田中浩先生の研究ははやく参照したい所だ。

図書館で、『甦るリヴァイアサン』というのを予約した。近年の若手によるホッブズ研究では傑作らしい。


 そして、レオ・シュトラウス。彼がちらほらしている。 シュトラウスの一連の著作も、次にリクエスト出そうかな。



それ以外としては、いま、レヴィナスの『全体性と無限』の第一部を読み終えたので、とりあえずシュミットの『政治的ロマン主義』を読んでいる。



 僕は思う事があるんだけれども、第二次安部内閣の一連の挙動については、シュミット政治哲学から見たときかなり面白いことが浮かび上がるんじゃないかという気がしている。

 既読文献である『独裁』も読み直して、『独裁』『政治神学』『議会主義のなんちゃら』あたりと、仲村昌樹先生の『カール・シュミット入門』あたりをベースに、安部政権の動向を研究してみたい。



これはぽっと思ったこと。



シュミットは難しいがとても斬新な視点で、面白い。


あと、アーレントの著作も借りているので、しかしこれらはひとえにデリダの政治哲学の勉強から派生したことである。


おしまい

 『Liteer 2014春号』に載せた「実存主義の新たな形式」は、内容もちょっとは加えるけど、とりあえず「個人と幸福」というタイトルに改変したい。


 そしてそのうえで、今日ちょっと、手を止めていた『複数の性の原理』 がどうなりそうかについて考えが深まったので、それを併せると一つの本のようなものの構想が浮かび上がってきた。


 僕は何といっても本を出したいのだ。まずは。


だからしっかり取り組んだものを、たとえば馬鹿正直に出版社を回ってみるのもいいのかもしれない。分からないけど。まずはよく思考してよく書かなければ。


それは、ひとまずこんな感じ。


『現代の生の探究(仮)』


第一部 個人の生について


第一章 個人と幸福 ← これが「実存主義の新たな形式」


第二章 存在論の方へ


第二部 場所の哲学


第三章 複数の生 ← これが『複数の生の原理』


第四章 居―場所について


第五章 ()



こんな感じかなぁ。とりあえずなんかつながった。第二章と第四章の位置づけが見えた気がする。そして、それぞれについて書かなければならない。




だいたい、私は、家族に養ってもらいながら、アルバイトをして、作家活動をしている。

さっきも親と口論になった。


できれば、あと2年はおいてほしい。 これが完成し、出版社に回って交渉を取りつけるまでの猶予が欲しい。


よし、頑張ろう。



図書館では、バシュラールやアーレントを借りてきた。

なぜかカンギレムの『科学哲学』もついてきたが。

   本当は大塚英志の『捨て児の民俗学』も借りたかったけど。



最近は、やはり哲学、そしてヘンリー・ミラー。  親との口論さえなければ、調子はよかったのだ。


 ドゥルーズ、フーコー、ホッブズ、そして九鬼修造。 僕は彼らをとても敬愛している。


そして、バシュラールも勉強していくうちに、このリストに加わるかもしれない。科学哲学と詩学をやる人なんて興味深すぎる。 ミシェル・セールもバシュラールの多大な影響にあったらしいし(清水高志『ミシェル・セール』)。


 だいたい、ホッブズは偉大な社会哲学者だ。彼が無かったら、国家の起源についての考察は、もっと遅れていたのかもしれない。

 2年ほど前に、ホッブズの数論とか、二〇〇〇〇円の本が出たから、あれもいつかは読まなくてはいけないんだろうな。


 政治を考える時、いつもいつもホッブズが頭をかすめる。これはおそらくずっとである。



そんなこんな。今はデリダの政治論を読み解いています。次号リツイートの原稿用。暴力論です。

アデュー。