(素描)
気合を入れて思考している分、文章は後から見るとむちゃくちゃなものになるだろう。恥さらしの意味合いでも消さないで残しておこうと思う。
考えたいのは、〈森〉である。 〈森〉とは私の用語であるが、つまり概念化したいからそう表記しているだけなのだが、端的には、あの森、山とか林とか(林はあまりにも人工林のイメージかもしくはヨーロッパ的なイメージが強く、私はあまりオススメできない)、若しくは「自然」「環境」と場合によっては同じ意味の森である。
森= 諸々の差異の存在からなる総体
これである。以上終わりとしたいくらいである。
これはつまり、哲学にたしなみのある人なら、〈一=多〉の思想と呼び変えても良い。多様体だ。手塚治虫の『火の鳥』をイメージしてもらってもよい。
森には、土があり、草があり、樹があり、空気があり、石があり、カミキリがいて、人間の建てた小屋があって・・・
そう、それでおしまいなのである。
もっと別の観点から言う。
生成し、消滅する諸々の存在がある。
世界史を見ても、火の鳥のからだの中をみても、森をみても、様々な商品の集成から成る資本主義的市場をみても、明らかではないだろうか?
世界は、森である。森が在る。 自然哲学は、これだけを言えれば十分なのである。
間違いがある。主にはキリスト教的なありっとあらっゆる概念、思考法、生活様式、全部である。
あいつらは、まず、その森を最初に作った「神」というものがいる、そう言ったのである。
そう、つまり、世界構成を、作るもの/作られるもの の二つに分けてしまったのだ!
神の存在証明という哲学的にも有名な話題があるが(それは現代においてもちょっと残っているが)、私が思うに、神なんてものは人間が頭の中で作り上げたものに決まっているのだ。
神を持ち出すと説明が楽になるからね。
しかし、神なんて見たことある人マジでいないし、マジでいない。
むしろ問題はここからだ。
つまり、人間なくして神はない。
しかし、もしかしたら人間が神かもしれない…。
これには、ちょっと考えることがあった。
そう、この知識を持った人間と指し示されている、この私たちが、神だとしたら?
神= 作るもの
確かに、人間は家を作るし、建造物を作るし、スパナを作るし、陶芸品もつくる。
しかし、リスだって子供を産む。
この考え方はあまり有効でなさそうだ。
結局、人間も含めて、世界は生成しては消滅する存在の総体、つまるところの森、それだけなのでないか…。
森の存在様式は、水平的に伸びていく。 Aが生まれ、その対抗Bが生まれ、A”が生まれ、非―Cが消滅し、そしてDが生まれ、・・・・・・・・
これに対して、人間は、まるで神の代理人であるかのように(実際西洋人はそう言ってきたわけだが)、森、つまり自己以外の諸々の存在を対象として把握する。
ここに、二分法が生まれる。 管理する者と、管理される者、支配する者と、支配される者、植え付けるものと、植え付けられるもの。
これらは、二分法、つまり思考の様式=認識から生まれる差異である。 これを認識論的差異と呼んでおこう。
話はずいぶん変わって、ドゥルーズは差異の哲学を主著『差異と反復』以降展開し、そこから21世紀の思想の中心ワードに「差異」も入ってくるわけだが、
この差異というのには、私は認識上(ここややこしい)、 区別しなければならないものがあると思っている。
何も難しいことではなくて、それはまず1、 認識論的差異、つまり人間が頭=思考の中で創り出した差異。 支配する者/支配される者、抑圧する/抑圧される 賃貸人/賃借人 ありとあらゆる二分法
それから、2 、存在論的差異 、 つまり〈森〉のなかでの、土とカミキリの違いとか、フンと切れ端のロープの違いとか、まぁそういうことである。
そして、1の認識論的差異を尊重=重視する思考にハマっていくと、人間はありとあらゆる「対象」をわがものとし(つまり従属化させ)、やがては、千葉雅也の言う「存在論的ファシズム」へと走っていく。
共産主義への夢、桃源郷、世界共和国・・・。 これは、私は「垂直的」な動きだと思っている。
やがて人間は〈一〉になる、とでもいうような。
つまり、世界=人間=神 とでもいうような。
これこそが、まさに「死せる神」である。 なんだろう死せる神って。
それに対して、やっと本稿の最初に立ちかえるのであるが、
〈森〉のなかの諸々の生成しては消滅していく存在を、水平的に、在る意味平等的に?(このコトバはアヤしい)、見るというか、捉えるというか・・・。
なんか、要は、管理しようと思っても思ってなくても、勝手に死んでいく奴は死んでいくし、予定調和じゃないけど、自然てそんな感じよね、という話になってしまいそうだが・・・ そんなわけではない。
それではただの「弱肉強食の思想」、「食物連鎖の哲学」になるし、そう呼べばいい。
この食物連鎖とかいうのは、生物学の大発見だと思うんだけど。
そうじゃない・・・
まず、 1 創る神は存在しない
2 存在だけがある
3 認識論は窮極には人間を超えない (しかし人間の歴史を調べるにはこれほど便利なものはない)
もし、ドゥルーズの思想が、私が上で呼んだような「認識論的差異でなく、存在論的差異を」みたいなテーゼにも親和性があるのだとしたらそれはどうなのだろう。
もちろん、私はいまの世界の人口の割合とか、資源配分のすごい困難な問題のことを念頭に置いて考えている。 存在が無限に増えると仮定したら大変だからだ・・・。
近年、自然哲学への回帰みたいなことがバカバカしく叫ばれている。 簡単に自然哲学いうなボケとか思う。少なくとも自然哲学を本気で専攻・勉強してない研究者が「これからは自然哲学だ!」とかいうノリで言いだしたら蹴っ飛ばしてやる。
自然なんて言葉は使わない方がいい。確かにそれは示唆に富んでいる。nature 示唆に富みすぎているだろう、「本質」なのだから。エッセンシャル。 しかし日本人がそれをやるためには、具体的にある木とか、花とか、森とか、山とかいう馴染みのある言葉をもっと使った方がいいと思うよ。 自然と言う言葉は多義的だからあんまりよくないと思う。
柄谷行人の自然哲学への注目・回帰(『哲学の起源』)は、なかなかいいセンをいってると思う。
柄谷は、山を歩きまくった柳田論も完成させたわけだ。彼はこれから帝国論を仕上げるらしいが、ぜひ一度、近くの、あまり手入れされていない山に登山でもしてみたらいいと思う。
自然哲学というのは、要するに森とか山のことを考えることであり、そしてヨーロッパの山と日本とかの山はまた全然違う訳だから、日本人が自然哲学を頑張ると、なかなかいいと思うのである。
私はそれをやるけどね。 これも序説の素描だ。 しかしなんだか私なりのチョー適当な西洋哲学の全体的まとめみたいになってしまっている気がする。
もう思考がまとまらないので止める。
最後に一つ付言しておきたい・・・ 私はビッグ・ダディに生理的な嫌悪感を感じる1人の人間である。 経済的に子供に豊かな暮らしが見込めないかもしれない状況で、理性もある大人が子供をたくさん作ってそれでお前らはファミリーじゃー!とか 言うのは第一趣味が悪すぎる。
端的に、子供の数は今の日本の経済状況では限界があるだろう。
なんというか・・・ 漫画『ブラック・ジャック』の悪役・ドクターキリコ(安楽死医師) のことを真面目に考える時が来た気がする。 しかしそれもまた「認識論的差異」に基づく思考ではないのか。ううむ
(了)