Facebookは屑である。完璧にそう思ったのでこの論考を書く。Facebookは屑である。あんなものは一刻も早く滅亡するべきである。



 というのは、TwitterFacebookなどの、個人の様々な意匠が明示化されること――によって成り立つコミュニケーション――は、フーコーが予言していた。あるいはフーコーが言っていた事の具体的な事象がツイッターやフェイスブックなどであったといってよい。



 フーコーは、社会―文学を語る上で、そういったのである。

今やその意味するところがはっきりする。


Facebookとは、文学とは全く違う。

Facebookは、現実を抑圧するのだ!

誠実な文学は現実を捻じ曲げたりなどしない。


文学は、現実を攪乱させたり、曖昧にさせたりする。他の作家はどうかはわからないが、ぼくが小説を書くときは、現実から得られたイメージをもとに、それを頭の中に遊ばして、書いて、また「目の前の」読者に送り返す、といったような作業をしている(と思っている)。



 文学は現実を抑圧したりなどしない。しかしFacebookは、世の中で起こるありとあらゆる出来事から、汚い事、すなわち喧嘩だとか不和だとか戦争だとかセックスだとか買春だとか殺人だとか事故だとか首つり自殺だとかニートだとか住居不払いだとか浮浪者だとか統合失調症だとかシングルマザーだとか人種差別だとか、その他もろもろ、ありとあらゆる暗きものを、抹殺させ、そして世界とはこうである!と知った顔でしゃべっている。



現実を隠すとは何事か!

Facebookは、文学に足らない、ただのごみくずである。

文芸批評どころか、社会批評にもならない。とんだ使い物にならない、忌むべき産物である。


死ね。 (了)










nowhere




焼けただれていく、皮膚が、


紅く、引き裂かれていく。



熱さの中で鉄の屑が死ぬ。

白いマグカップをテーブルに置いたら、

地が響き渡り、

声が震え、

形という形は壊れ、



すぐにすぐにすぐにすぐに


最たるものとして戯れの中に没する。



間違いとは何だったか
アンニュイとは何だったか


なんでもなんでも分からなくなって、
放置されて、
不毛になって、
滅されて、


そして______________________



(了)










例えばそうなのだが、「体調管理を徹底するように」という言説は、「自己責任」、つまり、体調の不備は自己責任、体調をちゃんと「自己」でケアすれば、余計な風邪はひかない、というこの考え方の傾向性そのもの。



 これは、いろいろなところにおいて見られる。というより、私がその言葉を目にしたのは、アイドルグループである。


証拠などいくらでもあげられるであろう。


 つまり、「体調管理」の言説は、「自己責任」の言説とあいまって、昨今になって急速に拡大していっていると考えられる。


 もうひとつ例をあげれば、心情のコントロール、とかいった言説もそうだ。


先ほど見たスポーツ番組の解説で、必勝ポイントは「心情のコントロールだ」、とズバリ言われていた。



さて、これらの言説の奥底には、「管理社会化」の問題が潜んでいる。明らかである。


 管理社会の概念に付いては、ドゥルーズが『記号と事件』に収められている短いエッセイの中で言及している。


 そして、当ブログでも何回か扱っているが、アーキテクチャ、つまり環境管理型社会(化)、というのは、この管理社会の概念とセットになっている。



 むろん、環境管理型社会の内実は、実はあの『現代思想vol3 特集アーキテクチャ』以後、文壇の世界において、あまり刷新されていない。


 『思想地図 β1』の、ショッピングモールのテーマについては、思いっきり関連付けられているが。


 あるいは、「管理社会」「アーキテクチャ」の問題は、外延が広すぎて、その問題を論ずるに辺り、細かい範囲からなされていっているから、なかなか総論めいたことが言えないのかもしれない。


 しかし、「管理社会」「アーキテクチャ」のことを真正面から論ずる総論的言説は、明らかに必要とされている。 というか、僕が必要としている(笑)


そこでそこで。


 まぁそれを考えようと言う訳なんだけれども、もうここまで書いた時点で疲れてきました。


環境管理型社会(アーキテクチャ)を考える時は、規律権力型社会との対比を明確に打ち出すのがもちろんいい。


そして、規律権力ということは、フーコーの発明・発見である。


したがって、『監獄の誕生』の読解はマスト。


なのだが、筆者は『監獄の誕生』を10ページくらいしか読んでいない。


だから、これから読むべきである(キリッ)



なんじゃこら。笑


 そして、読みたい文献をあげるならば、確か『セキュリティの後で』(?だったような)。 日本のフーコー研究者が共同で執筆している薄いあの本。あれも絶対読まないといけない気がするし、


それから、監視社会! これは社会学からのアプローチだが、デヴィット・ライアンがずーっと監視社会監視社会いうてるので、デヴィット・ライアン『監視社会』くらいは読まないと失礼だろう。



『監獄の誕生』『セキュリティの後で』『監視社会』。 これをまたゆっくり読んでから、総論めいたことはじょじょに語っていける気がする。



がんばろ。  アデュー。


こんばんは。



藤野可織さんがゾンビ好き好きということを公言してから、実際雑誌「文學界」にもその関連の文章をたくさん出していて、



あぁそういえば僕も大学生の頃は自称・ホラー専門家とかいって、同じくホラー大好きな親友といっぱい映画のこと語り合ったなぁて思いだしたりして。




僕は、日本のホラー界が頑張ってほしいんです。


 実はというか?、僕は「リング」という映画がとても好きでして。



もちろん?(笑)、リング1だけが最高で、後に続いていく「リング2」、それから「リング ザ・バースデイ」に至ってはもうごみくず同然の映画なのですが笑、



しかし1は素晴らしい。 あれは、世界基準でホラー映画というものを考えたときに、割とインパクトを与えた作品だと勝手に思っています。



鈴木光司さん原作ですよね。 鈴木さんの本も若い時に2冊くらい読みましたが、あれもいいけど、演出や脚本を頑張ったんだと思う。



「仄暗い水の底から」の原作は、とてもいいんですよ。いっぱい素敵な話が出てくる。映画「仄暗い水の底から」はダメだったけど。




 今の日本のあらゆるホラーは、リングの貞子か、呪怨のかやこか、両方をミックスしたやつしか出てこない。

それだけ閉塞感を表しています。



 ハリウッド界もあんまり最近は巧く言ってなくて、まぁあるのが、「SAW」シリーズ、パニック系、定点カメラ形式(そのヒット作の名前を忘れた)、そしてゾンビ系。



 ゾンビがとりあえず主流だと。 ゾンビの概念が変わるかもしれないくらい、ゾンビがいま新しいものになりつつあると。


 ゾンビでうまいことやれば、海外はまたうまくホラーの歴史にひとつ味を占めるでしょう。



日本はどうする? 黒髪の女だけでいいのか? あれもうこわいか? 誰でもできるぞ!!



新しい、インパクトのある、バケモノ(笑)、いい意味でモンスターを、日本の映画界・ドラマ界が作ってほしいな!!




あ、この前友人と話してたら、ちょっとまえにあったドラマ・「トリハダ」がけっこう面白いそうで。パッケージ、いいかんじにコワい!  見る価値ありそうです☆





おしまい

anywhere


たとえば、蒼い澄んだ瞳をしたあの時の少女とか、


    森の中に隠れたとってもきれいな白い牙をそなえた黄金のライオンとか、


かつての場所、僕はそういった幾つかの人たち・ものたちを、かつての場所に置いてきた。

 忘れるのである。人は。過去を何回でも忘れてしまう。


でもそれは完全な忘却ではないだろう。忘れることは、いつでも一時停止、ちょっとおいておく、それだけのことなのだ。


だから心配は要らない。

心配は要らないよ。そう自分でも言い聞かせてきた。僕にはそれだけで十分だ。


やがて、そのかつての場所に、蒼い澄んだ瞳をした少女や黄金のライオンがいる場所に、戻ることができた。


もう僕は、好きなだけ、自分が本当に愛する物事を、やっていきたい。


そしてまた、それが終わりを迎えたら、その時はまた、旅立つかもしれないけど。


いつも、ありがとう。

そして、これからもよろしく。(了)