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39-選択のとき 1-



 電話がかかってこなくてもクミは想が思っていたほど気にしてはいなかった。
 (今日はお泊りかなぁ?いいや、一人で寝よ)
 クミは想が他の誰かと何をしていても、それほど嫉妬心を持ったことがない。想が自分にとって特別な存在なのは良くわかっているが、クミ以外にも想を必要とする人がいるなら逆にそのことがうれしいとさえ思ってしまう。だから、終電が終わる時間になり、今日は戻らないとわかるとさっさと寝てしまった。
 翌朝、クミが目覚めても想の姿はなかった。直接、大学かバイトに行ったのだろうと思い、その日は一週間は戻っていない自分のアパートに帰ることにした。幸いに晴天で、しかも心地よい風がビルの谷間を吹き抜けていた。クミは家まで5時間かけて歩いた。元々、電車やバスに乗る気は毛頭ない。長い時間歩く途中で、珍しい店を見つけては中をのぞき、疲れたら公園のベンチで缶ジュースを飲み、そこにいた子供と遊んだ。そんなゆっくりしたペースがクミは好きだった。自分が自由きままなネコみたいに思えたが、それさえも嬉しかった。
 アパートに戻ると珍しく(と言っても、自分も久しぶりに帰ったのだが)母がいた。玄関のドアが開くと同時に「クミ?」と大きな声で言った。
 「うん。クミ。ただいまー」
 母は手鏡を起用にテーブルの上に立てて、それを見ながら化粧をしていた。これから、例の愛人とデートなのだろうか?着飾っていて、すでに腰が浮きかけている。機嫌が良さそうだ。
 「あんた・・最近、男ができたんだって?」
 「うーん・・好きな人ができた」
 クミはテーブルを挟んで母の向かい側に座った。
 「そう。そりゃ良かったわ。で、一緒に住んでんのね。ちゃんとした人?」
 「あのね。S大学の4年生でちゃんとした人」
 「へぇ。そりゃまた・・。で、金は持ってる人?」
 「うーんと・・毎日、一生懸命バイトしてる」
 「そう、おかあちゃんは文句は言わないから、あんたは好きにやりなさい」
 クミは今日の機嫌のいい母なら教えてくれるかも知れないと思って聞いてみた。昨日、病院で沖縄の人と自分で言っておきながら、祖母のことは何も知らなかったからだ。
 「あのさ・・おばあちゃんってどんな人?」
 「あんたのおばあちゃん?」
 「うん」
 「あんたのおばあちゃん・・って、あたしの母さんはね。そりゃすごい人だったらしいよ。ただ、あたしはそれを自分の目で見聞きしたわけじゃないんだけどね。それに、あたしが小さい頃に死んじゃったから良くはわからないけどねぇ」
 機嫌のいいときのクミの母は良くしゃべる。もちろん、機嫌が悪くてもそれなりにしゃべるのだが言葉が全く違う。
 「おばあちゃんは私を産む前はね、巫女さんだったのよ。しかもね、沖縄じゃ有名人でね、沖縄中からたくさんの人がお祓いだかなんだかに来てたって。何千人もの心の病気の人を治したんだってさ。ほら、なにせ戦争してたから・・そういう人が多かったらしいよ」
 「へぇ・・すごいなぁ」
 「なんかね人の心がわかるんだってよ。あたしゃ、そう言うの信じられないけどね。でも、あたしを産んだら、それがさっぱりダメになっちまって廃業さ。早死にしたのは人の心を見すぎて、悪いもんが心に溜まったからだって話だったねぇ」
 クミは自分がなぜ人の夢を見られるのかなんとなくわかった。おばあちゃんから貰った力だ。(おかあちゃん・・あたしも・・・)と言いかけてクミは言葉を飲み込んだ。
 「さてと・・じゃ、おかあちゃんはこれから男と出かけるから。あんたもうまくやるんだよ。でも、たまにはここに帰っておいで」
 母はいつになくやさしい言葉をクミにかけると、急いでアパートを出た。テーブルの上の倒れた手鏡の上に四つ折になった一万円札が一枚置かれていた。
 「いってらっしゃーい」
 (そうか・・おばあちゃんが・・たくさんの心の病気の人を治したのかぁ。もしかしたら、私にもできるかな?でも、早死にしたって・・・うーん。それは困るなぁ)
 クミはもう一度病院に行って、あの女先生と相談してみようかな?と思い直した。早死にするのはイヤだけど、こんな自分でも人の役に立つことができるかも知れない。
 (今日、帰ったら想ちゃんに相談してみよう)
 それから、クミは一万円札を両手で持って広げてみた。
 (そうだ、今日はスキヤキにしよう!)
 高い肉を買っている自分を想像してうれしくなった。早く帰らなくっちゃ!クミは、下着や服や小さなぬいぐるみを紙袋に詰めて、アパートを出た。これから、また5時間歩いて想の部屋に戻るのだ。でも、クミは満面の笑顔だった。「よしっ!」と叫ぶと来たのと同じ道を歩いた。朝と変らない雲ひとつない空はもう夏を思わせるほど濃い青だった。背中から吹く風に後押しされながらクミは大股で元気良く手を振りながら歩いた。

38-始まり 11-



 マンションに着いて部屋に入っても、みなみは無口だった。いつもなら二人きりになると少しでも体の部分に触れたがるのに、今日はまともに想の顔すら見ようとしない。空港での抱擁の感触がまだ残っていると言うのに。葉子の件で怒っているのかなと思った。あの葉子のことだ。話を捻じ曲げてみなみに電話をかけたのかも。でも、それならオレは潔白だ。
 閉め切られたままのカーテンを想は開けようとした。数日とは言え、部屋にこもったままの空気はうまいものではないし、薄暗いままの中にいると気が滅入る。特にみなみがこんな状態だ。
 「開けないで・・」
 みなみは大きなため息の後にそう言ってから、ふらふらと想に抱きついて胸に頬を擦りつけた。
 「いったいどうしたんだ?何かあったのなら話せよ」
 「うん・・・」
 みなみは想の腰に回した腕に力を込めた。想の体が少しエビぞりになるくらいに、それは強い力だった。
 「赤ちゃんができた・・・・」
 「え?」
 「私・・妊娠してる」
 別れを告げようと思っていた矢先の出来事である。想は頭の中が真っ白になり、体中の力が抜けそうになるのをぐっとこらえた。
 「初めてした日にできたのよ。今まで黙ってたけど、生理がなくて心配してたの。実家の病院でこっそり検査薬を手に入れて調べてみたの。間違いないわ」
 確かに、あの日は二人とも我を忘れてセックスに没頭していた。避妊どころか想はみなみの中に何度も熱いものを放出した。
 「で、どうする?」
 想は自分がどうするべきなのかわからなかった。やさしいねぎらいの言葉が今の二人が置かれた状況で相応しいとは思えない。「どうすればいい?」とみなみに聞かれることが一番怖かった。
 「私ね・・産もうと思う。出産は卒業した後になるし、両親がなんと言うかわからないけれど、そんなこと関係ない。私の子供の運命は私が決める」
 想は言葉が出てこない。途方に暮れた表情をみなみに悟られないようにするためにみなみの頬に自分の頬をピタリとつけた。
 「安心して。責任をとって結婚してとは言わないわ。私、飛行機の中でいろいろ考えたの。そうそう、クミちゃんは元気?本当は妹じゃないでしょ?男女のことには疎い私でもそれはわかってたわ。でもね、田嶋君のこと好きだったから、愛してたから・・私と一緒の時間を作ってくれるだけでいいと思ってた。本気で人を好きになって、何が大切なのかわかった。」
 みなみの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
 「みなみ・・・オレは」
 昨晩見たヘビの夢は、このことの暗示だったのだ。
 (オレはなんてバカなヤツなんだ・・偉そうに人の恋愛には口を出すくせに、自分のことではこんなにいい加減でだらしない。その結果がこれだ。でも、このままじゃダメだ)
 「みなみ・・今、みなみが言ったことはダメだ。許さない。オレと結婚するか、中絶するか、ふたつにひとつだ。オレの子供を産んで一人で育てる?それだけはダメだ。みなみの人生をオレのせいで台無しにはできない」
 みなみは声を上げて泣いた。想にすがりつき、嗚咽の間に何度も何度も「愛してるのよ」と想に訴えた。

 恋愛はさまざまな産物を残す。それは形のあるなしにかかわらず、人の心に揺さぶりをかける。恋愛は喜怒哀楽を何十倍にも増幅させ、いつまでも心を支配し続ける。それを有効な糧にできるかどうか、そして幾重にも別れた選択肢の迷路に入り込む。そしてその人の人生の方向が決まっていくことも稀ではない。
 想は選択しなければならなかった。そのために残された時間はわずかだ。ただ、忘れてはならないのはみなみの選択をも含めた上で決定しなければならないことだ。

 今日はこれ以上考えるのはよそう。想は事の重大さを充分にわかってはいた。さっきは「ふたつにひとつ」だなどと言ったが、今はあせって結論を出すべきではないと思った。ただ、一向に泣き止みそうにないみなみをずっと抱き続けることはやめてはいけない。そして、そんな優しい気持ちとは裏腹に少しずつ冷たく重くなっていく頭を想は自分で感じていた。病院から戻ってひとり残してきたクミのことが気がかりだった。けれど、クミに電話を一本かけることもなく想の7月17日は過ぎようとしていた。

37-始まり 10-



 想とクミが帰ったあと、蓮沼は録音したテープを聴きなおしていた。彼女はすごい逸材だ。ちゃんとした検査をすればハッキリとわかると思うが、たぶん彼女が触れている人間と脳波が同調するはず。あの二人はその同調が苦痛ではないのが不思議だ。彼女が精神医療の手伝いをしてくれれば、飛躍的に心の患部をあらわにすることができる。ただ、それにはあのクミと名乗った少女に強い精神力と体力が要求される。精神病患者の強い概念に負けて、彼女自身が精神崩壊を起こす可能性もある。そう思うと、このままそっとしておいた方がいいのでは、とも思ってしまう。蓮沼自身が医者としての自分と人間としての自分のはざまで迷っていた。
 蓮沼はクミが沖縄出身であることを聞いて、たぶんシャーマンの血統なのだろうと予想した。蓮沼のその推理は当たっていた。これは、クミ自身も知らないことだがクミの祖母は若い頃、沖縄で巫女として有名な人だった。究極のシャーマンと言われ、数多くの精神を病んだ人々を癒す仕事をしていた。戦時下には特にその能力を役立て、人々の心から恐怖や葛藤を取り除き、もてはやされた。それが、子供(つまりクミの母親)を産んで以来、その特異な能力が消えうせ普通の人に戻ったらしい。その遺伝子が一世代通り越してクミの体内に存在しているに違いない。
 
 「クミはもうテストはいや」
 クミは病院の帰りの電車の中で(もちろん、他人との接触がないように注意して乗っているが)すがりつくように想に訴えた。
 「だって・・頭の中が自分じゃなくなるみたいだもの。想ちゃんだから我慢できた」
 「そっか・・そうだよな。オレが間違ってた。もう行くのはやめよう。先生には断りの電話を入れておくよ」
 クミはしきりに頭を上下に振った。





 
 想はクミを自室に、と言っても最近はほとんど同棲状態ではあったが、送ってからゆっくり休むように言い聞かせ、自分は北海道から帰ってくるみなみを迎えに行くために再び外に出た。
 羽田空港は平日だと言うのに、相変わらず人が多い。みなみの乗った飛行機が降りるまでにはまだ30分ほどある。みなみを待つ間に想は、どんな言葉でいつ別れを告げるべきか考えていた。付き合って約3ヶ月、本当に楽しく過ごせた。今だってみなみのことが好きだ。決してみなみに非はない。でも、けじめはつけた方がいいに決まっている。いつまでも「Just About」じゃダメなんだ。今のオレにとって一番大切なのはクミなんだ。今日、一緒に病院へ行ってさらに思いは強くなった。オレがクミを守ってやらなければ・・・と。
 (今日は・・少し言いにくいな。親戚の不幸の直後だし・・疲れているだろう。ただ、早い方がいい。週末くらいに外で飯でも食おう。バイトは休んだっていい)
 空港を行きかう人々は慌しい。何をそんなに急いでいるのだろう?想の目にはクミと一緒にいるときと比べて時間の流れがやたら速いような気がしてならない。思えば、クミと出会う前、いや出会ってからもしばらくは目の前を行きかう人々と同じような”あせり”の中にいた。学校もバイトも全てが時間に追われ、その時間の中に身を投ずることをまるで義務のように思っていた。特別な趣味も持たず、時間の流れに逆らわずに浮いていることが自分を小さく思わせた。特に大きな変化や起伏を欲しているわけではないが、もう少し歩くスピードを落とそう。そんなゆとりがオレには必要だったんだ。想は少しだけ大人になったのかも知れない。

 みなみの乗った便の到着アナウンスが流れた。想は到着ロビーに場所を移して、みなみが出てくるのを待った。まもなくみなみが現れた。想を見つけて小走りで駆け寄ってきて、バッグを放り出して抱きついた。
 「会いたかった・・」
 「オレも・・」
 (あぁ・・でも、オレは決めたんだ。みなみ・・週末には泣かすことになるかも知れない)
 「大事な話があるの。このまま私のマンションまで送ってくれる」
 みなみの表情がその言葉と共に急に引き締まったように見えた。
 「始めからそのつもりだ」
 想はみなみの荷物を持ちモノレール乗り場に向かおうとした。
 「タクシーで行きましょう。お金は私が出すわ」
 「いいのか?」
 「ええ。今日は人ごみがいやなの。時間とお金がかかっても静かなところにいたい」
 いつものみなみとちょっと違うなと想は思った。
 予想通り首都高速は渋滞していたが、みなみはそれを気にするふうでもなく窓からじっと外を見ている。見えるのは車と遮音用の壁だけだと言うのに。そして、何かに怒ったり不機嫌な感じでもないのに、少ない口数が想を不安にさせた。
 タクシーは1時間ほどかけて、みなみのマンションに着いた。

36-始まり 9-



 7月17日、水曜日。この日は想にとって特別な日になった。
 
 午後2時、クミを連れて世田谷の桜新町にあるS女子医大病院の蓮沼教授を訪ねた。S女子医大病院は白亜で12階建ての威容を誇る総合病院でその近代的な設備や最新鋭の医療で政治家や著名人も数多く利用している。
 神経・精神科は3階の奥の他の科とは隔離されたような場所にあった。独立した待合スペースはまるでホテルのロビーのような雰囲気があった。診療時間内ではあったが完全予約制のため患者はまばらだった。
 その待合室の入り口にある専用の受付で蓮沼教授と約束があると言うと、その場にいた看護婦は丁寧に蓮沼教授の個室まで先導して案内してくれた。
 「こんにちは」
 想がクミを伴い、ドアを開けると大きな革張りの回転式の椅子をくるりと回して蓮沼はこちらを向いた。
 「いらっしゃい。待ってたわ」
 「すいません。お忙しいのに」
 「あら、いいのよ。それよりもそのお嬢さん?例の・・」
 「はい」
 「じゃ、まずはちょっとお話を聞こうかしら」
 二人は蓮沼に勧められて、大きなソファに並んで座った。蓮沼はボイスレコーダーをテーブルの上にセットして身を乗り出した。
 「お嬢さん、お名前は?」
 「クミ」
 「うーん・・苗字もね」
 蓮沼は笑顔を絶やさない。
 「金城クミ」
 (オレ・・今までクミの苗字知らなかった)
 想は苦笑いした。
 「キンジョウ?生まれは沖縄?」
 「うーんと・・おばあちゃんは沖縄の人」
 「そうか・・」
 それから30分ほどかけて想とクミは今まであったことをいっきにまくし立てるように話した。正直、想は誰かに話したくてしかたなかった。クミの類まれなる能力を埋もれさせるのはもったいないと思っていた。他人の夢がクミに及ぼした影響や、その状況をこと細かく蓮沼に伝えた。もちろん電車に乗ってひどい目にあったことや、夢の中に介入できることをも話した。夢が映画のように音と映像を伴うと言ったときだけ、蓮沼は少し眉を動かしたがそれ以外は特に表情を変えることもなく二人が話し終えるまで黙って聞いていた。
 「・・ということなんです」
 「・・なんです」
 想が話し終えるとクミも同じように話を切った。
 「そうかぁ・・それは素晴らしいことだわ」
 蓮沼は冷静に答えたあと、椅子から立ち上がり
 「じゃあ・・簡単なテストしよっか?あ、大丈夫よ。痛いことは何もないから」
 テストと聞いて怯えたように首をすぼめたクミの肩に手を置いた。
 「あ、その前に何か飲む?たくさん話して喉が渇いたでしょ?」
 「オレンジジュース!」
 クミがうれしそうに叫んだのを聞いて、蓮沼は内線電話でジュースとコーヒーを頼んだ。
 間もなく、それが運ばれてきた。それらを飲んで一息つくと二人は別室に案内された。
 「じゃ、始めよっか。これで目隠しをして」
 クミに安眠マスクを手渡してさらにクミと想の間についたてを置いた。
 「これはね。昔、流行ったエスパーテストの応用版ってとこね。二人は手を繋いで。それでね、想君の見たものがなにかを当てて欲しいの」
 想の前のテーブルには丸や四角や三角、波型、星型の5枚のカードが並べられた。     ついたての向こうのクミに「目隠しした?」と聞いて5枚のカードを裏返し、そのうちの一枚だけをめくった。星のマークだった。想が今見ているのは星のマークだ。
 「どう?クミちゃん」
 クミは想の手をぐっと握ると、間髪を得ず「星!」と答えた。
 「じゃ、次ね」
 次のカードは丸だったが、クミはそれも見事に言い当てた。その後は何度繰り返してもクミは一度も間違えることはなかった。これには想も驚いた。クミが見られるのは他人の夢だけではなかったのだ。人の目を介して・・いや、その脳の中の電気信号を自分の脳で変換している。
 蓮沼はさほど驚いたふうでもなく、
 「じゃ、次は音を試すわね。悪いけど、クミちゃんはもうしばらくそのまま目隠しをしててね」
 そう言うと、大きなラジカセと密封式のヘッドフォンを看護婦に用意させた。想にヘッドフォンをかぶせテープを聞かせた。そのテープには音楽ではなく、さまざまな楽器の音色が入っていた。想が最初に聞いたのはトランペットの音だった。何かのファンファーレだ。無論、想以外には誰にも聞こえない。蓮沼は想に指でマルを作って見せた。クミが言い当てたのだろう。次にピアノの「ネコふんじゃった」が始まった。蓮沼はクミが言い当てるたびにマルを作って想に笑いかけた。クミは音も100%言い当てた。ただ、想と繋いだ手を離すと絵も音も全く当たらなかった。そして、テストは終わった。
 「すごいわね。驚いたわ」
 蓮沼は初めて驚きを口にした。
 「一種の超能力ね。他人の見たもの聞いたものを感じることができるのね、クミちゃんは。夢を見ることができるのも多分同じ原理ね。人の脳波を共有できるっていうか、脳波を自分と同調させることができるのね。もう少し詳しく調べてみたいわ。今日は時間ある?」
 想には蓮沼が冷静さを装っているように見えた。それはそうだ。もし、クミの能力を借りれば、他人の精神構造まで細かく分析できる。精神科医としては下手な医療機器よりもクミの力のほうがはるかに役立つに違いない。
 クミは想の顔を見て、首を横に振った。目が疲れたと言っている。
 「先生・・クミはちょっと疲れたみたいです。今日はこのくらいで勘弁してやってくれませんか?こちらからお願いしたのに申し訳ないんですけど」
 「うーん、そうね。じゃ、また来週来てくれる?」
 クミは考え込んでいる。そんなクミを見ながら想は蓮沼に言った。
 「一度、家に戻って話してみます。また電話します」
 想は5時には羽田にみなみを迎えに行かねばならないこともあって、検査の続行を断った。
 「そっか・・じゃ、良く考えてね。でも、必ず来て欲しいわ」
 まだ、言いたいことはたくさんありそうだったが、蓮沼は笑顔で二人に握手をした。
 「あ、先生。お願いがあります。クミのことはくれぐれも先生の心の中だけに・・」
 想はクミが研究の実験台とされることだけは避けたかった。
 「ええ、もちろんよ。ただ、テレビになんか出ると一躍大スターにはなれるわね」
 (とんでもない話だ・・・テレビだなんて)
 「先生を信頼しています」
 想はそう言って深々と頭を下げると診察室を出た。
 「もう・・ここには来たくない」
 部屋を出るなり、クミが消え入るような声で言った。
 (あ・・ヘビの夢のことを聞くのを忘れてた・・ま、いいか)
 想はクミの手をしっかり握って病院の出口へ急いだ。

35-始まり 8-



 想がマンションに戻ると、エレベーターが7階で止まる音を聞いて麗子の部屋からクミが出てくる。それが、最近では当たり前になった。クミにとっては麗子の部屋の居心地が良いようだ。麗子も気にいったクミのために有名なパテシェのケーキやお菓子を毎日のように買って来ては、クミを誘って話相手にしているらしい。想も二人でどんな話をしたのかを楽しそうに教えてくれるクミが好きだった。

 想は部屋に入ってクミを座らせると、今日会った蓮沼先生の話をした。
 「今度、病院へ行って診てもらおう。オレも一緒に行くから安心しろ。先生はやさしい女の人で信用できる。きっとクミにとって損はない。必ず良い結果が待っているはずだから」
 クミはしばらく考えていたが「うん」と一言だけ言って笑った。
 その日、抱き合うようにしなければ入れない小さなユニットバスに一緒に入った。クミは想の背中を流すのがうまくなった。そして、その日二人は初めてセックスをした。いつものように裸で抱き合って眠るつもりでいたが、クミが想の下腹部をグッと握り締めたことがきっかけだった。いつもなら笑い飛ばしてしまうところだったが、クミの目には潤いが感じられた。そんなクミを見て欲情したと言うよりも愛おしさがこみ上げてきた。想はクミの小さな胸の突起を思わず口に含んだ。それからはごく自然に二人はひとつになった。想の胸の下でクミは乱れた息の合間合間に「大好き・・・」と何度も繰り返した。
 クミが寝た後、天井をボーっと見ながら想は考えていた。
 (みなみとは別れよう・・その方がいい。オレはこの少しトロイが小さくて愛しげなこいつを守ってやりたい。いつまでもクミのことを妹だと言って騙し続けることもできない。ただ・・みなみの落胆と悲しみは想像できる。オレは今まで女を振ったことはない。でも、今回は仕方ない。お互いのためだ。傷つきあうのも恋愛だ・・・・)






 想は頭から尻尾の先まで20メートルはありそうな大蛇と戦っている。真っ黒な空に稲光が絶えず大きな音を発している。大蛇ははるか頭上から想を見下ろしている。真っ赤な目と舌で想を威嚇する。想の手には粗末な剣一本だけだ。ただ、妖精のように宙に浮いたクミが「殺しちゃだめ」と叫んでいるのが、場面に相応しくない違和感をかもし出している。ふいに大蛇が鎌首を想に向けて突っ込んできた。それを寸前でかわした想は思い切り大蛇の腹の下に入り、剣でその腹を切り裂いた。それを見たクミが気絶して地面に落ちた。切り裂いた大蛇の腹から、小さな赤ん坊が血まみれになって這い出してきて大きな声で泣き出した。

 「大丈夫?ねぇ・・大丈夫?」
 クミが汗を額にあふれさせ、うなされる想を揺り動かした。想がカッと目を見開いたのでクミはびっくりしてベッドから転げ落ちたが、すばやく起き上がるとコップに入れた水とタオルを用意してきて、再びベッドの上に飛び乗った。
 「ひどい夢だ・・・」
 胸の動悸が治まらず、呼吸が整わない。全身が汗でぐっしょりと濡れている。
 「お水・・・」
 クミの手からコップを受け取り、一口だけ水を飲んだ。クミはタオルで顔の汗を拭いている。
 「お前も見たのか?今の夢・・」
 「最後のところだけ少し・・」
 「そうか・・嫌な夢だった」
 「うん・・・」
 想はクミを抱きしめた。
 しばらく、二人は眠れなかった。今の夢はいったい何を暗示しているのだろう?あまりにも生々しく夢とは思えないほどの現実感があった。
 (ちょうどいい・・。この夢のことを、今度あの先生に話してみよう)
 結局、寝ると夢の続きを見てしまいそうな気がして、その日は朝まで起きていた。クミもずっとしがみついたままで寝ようとしなかった。

 朝、大学へ出かけようと準備をしているときに北海道にいるみなみから電話がかかってきた。親戚の葬儀も終わったので予定を早めて水曜に戻ってくると言う。夕方に到着する便だと言うので、想は病院に行った後でも充分に間に合うと思い、羽田まで迎えに行くと約束した。