『蛇皮の服を着た男』からテネシー・ウィリアムズの世界に惹き込まれてしまって、ちょっとマイブーム。回想録も購入しました。まだほとんど読んでいないのですが、あの鋭い人間観察眼の持ち主がどんな人生を送り、何を考えていたのか、興味津々です。
テネシー・ウィリアムズの戯曲は、エリア・カザンなどが演出を手掛けてブロードウェイで上演されたものが評判を呼び、さらに映画化されて世界的に名を馳せた作品も少なくありません。
映画化作品の監督もエリア・カザンやジョーゼフ・L・マンキーウィッツ(デヴィッド・フィンチャーの『マンク』の主人公・マンキーウィッツの弟)、シドニー・ルメットなど当時の名だたる社会派揃い、キャストも旬のトップスターたちを揃えた豪華な顔ぶれ・・・それも当然ヒットの一因ではあるのでしょうが、あまりに日常に溶け込んでいて見過ごされているような社会の矛盾や差別感情などを浮き彫りにしてみせる手並みの鮮やかさはこの人ならでは。やはり作品そのものの輝きが国境を越えて人々を魅了したんでしょう。
ただ、いくつかの作品を観てきた中で唯一「・・・・・??」となったのがこの『熱いトタン屋根の猫』。特にラストの数分間の不自然な顛末は、ありえない・・・最初は信じられなくて、何か特別な意味があるんじゃないかと思ったくらい。でも、調べてみて、やっぱりこれは紛れもなく「矛盾した結末」なんだということがわかりました。
この作品、1955年にブロードウェイで上演された際、エリア・カザンの要望で原作から内容を変更しているんですね。この変更が全ての元凶。
テネシー・ウィリアムズは何故こんな変更に応じたのか・・・まずはひととおり作品の内容から見ていきたいと思います。
あらすじ(ネタバレ)
今回は詳細をネタバレしないと問題点に斬り込めないため、かなりネタバレしています。
一代で南部の大農場主にのし上がった父親を持つブリック(ポール・ニューマン)は、かつてフットボール選手として活躍していたスポーツマン、かつ超ハンサム。マギー(エリザベス・テイラー)という美しい妻もいます。
家は富豪、スポーツマンでハンサムで妻がエリザベス・テイラーばりの絶世の美女・・・一見、幸せを絵に描いたような人物に思えるのですが、彼は目下酒浸りの生活を送り、妻とベッドを共にすることも頑なに拒み続けています。
きっかけは、フットボールチームの仲間で親友だったスキッパーの自殺なのですが、これが何故ブリックを自暴自棄にさせたのか?妻との関係を悪化させたのか?が本作の前半部を彩るサスペンス要素。
ブリックはマギーがスキッパーを誘惑して寝たことを責めていますが、それが何故スキッパーの自殺につながるのか、ブリックにぞっこんの彼女が何故そんなことをしなければならなかったのか、真実が見えるようで見えない、モヤに包まれたような状況が続きます。
実は、スキッパーとブリックは同性愛的な絆で結ばれていたというのが真相。スキッパーの自殺の原因もマギーにあるのではなく、選手生命の危機に陥ったスキッパーが電話でブリックに助けを求めてきた時(SOSは愛情の告白と表裏一体でもあったのでしょう)ブリックは彼の感情を受け止めきれず、スキッパーはそんなブリックの対応に絶望した・・・というのが本当の自殺原因だったのだということが、中盤ブリックの口から語られます。
ブリックがマギーを責めていたのは半ば八つ当たり。敢えて踏み込めば、自分とスキッパーの仲を割こうとした彼女への憎悪もあったのかもしれません。
ブリックが自暴自棄になっている原因が明らかになった後半部では、ブリックを立ち直らせようと説得する父親とブリックとの親子の本音の激突が繰り広げられます。
豊かさというアメリカンドリームを掴み取ることに必死で、そのためにあらゆる欺瞞を受け入れてきた父親は「現実とは苦労と汗と金と愛せない女を抱くことだ(自分はそうしてきた)」とブリックに現実を受け入れるよう説得しますが、世間の欺瞞もスキッパーを拒んだ自分自身の欺瞞も許せないブリックは、逆に誰の愛も信じない父親を責めます。
しかし、ブリックの兄グーパーが、自分よりブリックを可愛がっている父親が大農場をブリックに譲るつもりでいることを察知して、自分に財産が入るよう画策していたことが露呈したことで、父親とブリックの間に連帯が生まれ、ブリックは父に歩み寄っていきます。そして父と同じくブリックの子供を望んでいるマギーにも。
「(農場は親子で継承されていくべきもので)子供ができないブリック夫婦に農場を譲るのはおかしい」と言い張る兄嫁に対抗して、マギーが「実は妊娠している」と嘘をつくと、ブリックも彼女の嘘を支持。それでも嘘だと言い続ける兄嫁を無視して部屋に戻った2人は、いつのまにか仲睦まじい夫婦に。ブリックのほうから、嘘をまことにするための子作りを提案し、熱いムードのうちに幕となります。
シュミーズ姿でぐいぐい来るテイラー、振り払うニューマン
ブリックの家族問題・夫婦問題が話題の中心になってはいますが、このファミリーの中でひときわ存在感を放っているのはエリザベス・テイラー演じるマギー。
夫には親友(真相は恋人)と寝たと責められる、義兄夫婦たちは子供ができないマギーを笑い、その上義父の財産を独占しようとする・・・妻として嫁として大ピンチに瀕しているマギーが、どうにか窮地を乗り越えて自分の居場所を切り開く--というのが、本作のストーリーの1つの側面です。
序盤は、兄夫婦の太った子供たちを「首のない子供たち」と笑ったりと、毒を吐きまくるマギー。この性格の悪さ、性悪の義兄夫婦にも十分対抗できそうです。
「今の私は焼けたトタン屋根の上の猫(つまり全方位から集中砲火を浴びていて居場所がない)かもしれないけど、絶対に勝ってみせるわ!!」
と宣言する彼女に、夫のブリックは、
「その猫にとって、勝つってどういうことを言うのさ」
とあきれ顔で尋ねるのですが、彼女は不敵な笑みを浮かべてこう答えます↓
「飛び下りずに頑張ることよ」
ハンサムな夫にゾッコンなのか、財産目当ても多少はあるのか、とにかくたくましい女性なんですよね。そもそもブリックとの結婚も押しかけ女房だったようで。
とは言え、マギー役のエリザベス・テイラーがハンパなく美しいのはたしかだし、その上彼女、攻撃的なまでにエロティックなんです。
彼女がシュミーズ1枚で夫にぐいぐい迫るシーンは、本作のハイライトシーンと言っていいのかどうか・・・何にしても、一番眼に焼き付くシーンではあります。
渾身の色気で迫りくるエリザベス・テイラーを無表情に突き放すポール・ニューマンの冷たさも、テイラーが美しい分異様さが際立つんですよね。
観客席の男性たちの本能の疼きをものの見事にかわすブリックの、英雄的なまでの「拒絶」!
まあ、ブリックはおそらくゲイなんですから、彼のセクシュアリティ的には当然のことなんですけどね。
時代に屈した内容変更
エリザベス・テイラーとポール・ニューマンの絡みはさすがに華やかで、そこに見惚れてしまいがちですが、本作の重心はそこじゃない。劇中何度となく登場するmendacity(欺瞞)というキーワードのほうにあります。
スキッパーの自分への愛にきちんと向き合えなかった自分自身の欺瞞に苦しんでいるブリックと、彼を立ち直らせようとする父親との、初めてお互いの本心をぶつけ合った親子喧嘩。その中で、彼らは「欺瞞」から解き放たれる方向に向かうのか・・・と思いきや、気が付けばむしろ「欺瞞」を受け入れて大団円に終わるという、不思議な結末を迎えます。
あまつさえ、ブリックとマギーが子作りに励むことを決めるラストシーンには足元を掬われた気分。
こ、これこそ「欺瞞」ってやつじゃないの? それとも、同性愛は治るとでも・・・?
あれほど父親に向かって「パパには愛がわからないんだ!」とスキッパーとの絆の純粋さを主張していたブリックなのに。
初めは私の解釈が間違っていたのかも・・・と思ったんですが、しかし、この論文↓を見つけて、そうではないこと、またこういう結末になった理由も、よくわかりました。
『クイア・カップルの亡霊と遺産』
http://www.ritsumei.ac.jp/ir/isaru/assets/file/journal/21-3_01KishiMasayuki.pdf
この論文を書かれた貴志雅之氏は現在大阪大学教授。こちらはブロードウェイで上演された演劇バージョンについての論文なのですが、映画バージョンでも同じことが起きています。
内容をかいつまんで書くと、要はラストシーンは演出家のエリア・カザンによって書き変えを要請され、テネシー・ウィリアムズはそれに応じたということです。
オリジナルバージョンでは、「妊娠した」と嘘をついたマギーは、嘘をまことにするために子供を作ろうとブリックに提案する(つまり改訂版とは逆)のですが、ブリックは拒絶はしないものの、シニカルな態度で応じます。
本作には「父のプランテーション農場相続は、それを将来継承する子供がいることが要件」という大前提があり、結果としてブリックは目の前にある富の継承のために、(あるいは父親の遺志を継ぐために)「欺瞞」を甘んじて受け入れようとしているわけですが、それは彼の本意ではないのです。いずれにしてもブリックはマギーへの愛に目覚めたわけでもないし、彼のセクシュアリティが変わったわけでもありません。
貴志氏は、エリア・カザンが本作のシナリオの変更を要請した背景に、1950年代当時のアメリカ社会に吹き荒れていたマッカーシズムの影響を挙げています。マッカーシズム=レッドパージと思われがちですが、マッカーシー上院議員が「アメリカの敵」として排除すべきターゲットとしたものの中には同性愛も含まれていたんですね。
もとは共産主義に傾倒していたエリア・カザンがレッドパージの嵐の中で転向者となったことはよく知られています(この辺は蓮實重彦著『ハリウッド映画史講義』を読まれるといいかもしれません。)し、そのエリア・カザンが同性愛に対する弾圧にも屈し、商業的な成功を優先させたことは十分ありえる話です。
でも何故自身もゲイであるテネシー・ウィリアムズがそれに応じたのか?
ここが私にはわからなかったし、危うくテネシー・ウィリアムズに幻滅するところだったのですが、貴志氏は、ウィリアムズが戯曲の出版にあたってオリジナルと改訂版の両方を併載したことに着目し、ウィリアムズは何がどう改訂されたかを明らかにすることによって「その背後に潜むホモフォービックなアメリカ政治・文化状況と支配的イデオロギーに対する告発」を行ったのではないかとポジティブに解釈しています。
ちなみにテネシー・ウィリアムズの回想録によれば、この後もウィリアムズとエリア・カザンとは「親友」であり続けたよう。オリジナル版で上演して弾圧に潰されるよりも、改訂があったことを世間に知らしめるという方法で2人がマッカーシズムに抵抗した、という貴志氏の解釈は自然なように思えます。
いずれにしても、シナリオの改訂について何も語らず、改訂後の内容だけを映し出す映画版は、時代の変遷によって完全なアナクロニズムのかなたに押しやられてしまった感がありますね。もはや博物館でしか見ることができないような「古き悪しき時代の負の遺産」。
映画は時代背景と切り離して観ることはできません。これはそのことを証明するティピカルな事例ですね。でも、だから「観ない」「観せない」というんじゃなくて、「時代背景を踏まえて観てみる」「問題を認識できる形で観せる」というのが大人の対応なんじゃないかと思う今日この頃です。