『ストーカー』 眠れる森のタルコフスキー | シネマの万華鏡

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タルコフスキーは眠れる。

中でも眠れる度最高峰じゃないかとひそかに思っているのが『ストーカー』。164分あるから、熟睡保証、寝覚めすっきり。

でも、タルコフスキーの映画が眠いのは、仕方ないことなんです(←開き直り?)。

タルコフスキーは著書『映像のポエジア』の中で、自分の映画の理念は「アメリカの冒険映画とは違う」と書いています。

はっきりと「アメリカの」と言っているところが、ハリウッド映画への敵愾心?もチクっと感じさせて興味深いんですが、要は「外的な動きや、陰謀、事件の構成」には彼は一切興味がない、と言うんですよね。

 

映像のポエジア―刻印された時間

 

そんなタルコフスキーの映画に、アクションシーンもなければ、ストーリーの緩急もない、時としてストーリー自体が見当たらないことさえあるのは当然のこと。だとしたら、「アメリカの冒険映画」の見事な緩急とダイナミズムに慣れ親しんだ私たちがタルコフスキー作品で熟睡できるのもまた、必然の結果なわけです。

そこにないものを求めるから、待ちくたびれて眠くなる。タルコフスキーが見てほしいものに目を向けることができれば、眠気は吹っ飛ぶかもしれません。(それでも眠いかもしれません・笑)

 

タルコフスキーが目指したのは、観客を飽きさせないエンターテインメントではなく、人間の内的世界の追求。「人間の」という部分は「タルコフスキー自身の」と言い替えることができるかもしれません。

勿論、あらゆる「作家の映画」は作家の血肉。でも、絵に例えるなら殆どの映画がストレートに自画像を描いてはいないのに対して、タルコフスキーの映画(特に『鏡』以降の)はまさに自画像そのものだと思うんです。

つまり、タルコフスキーの作品を観ることは彼に相対すること。それもディープな距離感で!

「考えるな、感じろ」とは難解な映画に対してよく言われる言葉ですが、この人の映画は感じると同時に、考えることも必要な気がします。タルコフスキーという鏡に向き合って、自分自身をも見つめる、哲学の色彩を持った映画だと思うから。

 

『ストーカー』の「ゾーン」と『惑星ソラリス』の海

 

きょうび「ストーカー」と聞いて誰もが想像するのは人に偏執的につきまとう人物ですよね。

しかしこの映画が公開された1970年代にはまだその意味の「ストーカー」という言葉はありませんでした。

本作の「ストーカー」は「案内人」という意味合い。主人公はそのストーカー、「ゾーン」と呼ばれる危険な一帯に人々を案内することを生業とする男です。

 

ところで「ゾーン」とは一体何なのか?

この映画を観れば分かると思ったら大間違い。原作を読んでも、分からないかもしれません。(しかも原作の「ゾーン」と映画の「ゾーン」は同じとは限らないのです。)

 

劇中で或る人物が「ゾーン」をバミューダ三角形になぞらえる場面があります。冒頭のキャプションでは隕石の墜落のような「何か」によって突如生まれた謎の一帯だと説明されてる。でも、それは「ゾーン」をめぐる噂にすぎないし、「ゾーン」の表層ですらないかもしれません。

本作の「ゾーン」がある種の「ミステリーゾーン」ではあることは間違いない。しかし、人間が消えたり宇宙人と遭遇したりする、いわゆる『ムー』やその読者がこよなく愛するそれとは違います。

「ゾーン」は非常線のバリケードの向こうへと続く引き込み線の終着点、打ち捨てられた戦車や廃墟が点在する、誰もいない野原。人知れず、可憐な白い花が咲き乱れ、静寂のかなたからかすかに郭公の声が聴こえている・・・

しかし、そういう実体を持ちながら、同時にそこは形而上の世界でもあります。

「ゾーン」に足を踏み入れることは、自分自身に向き合うこと。あるいは、宇宙の摂理・神々の気まぐれに翻弄される人間のはかない生について、答えのない問いを投げかけ続けることでもあるのです。

 

「ゾーン」について最も分かりやすいイメージを与えてくれるのが、主人公によって語られる、ジカブラスという名のストーカーにまつわるエピソード。

ジカブラスは「ゾーン」から町に戻った後、突如大富豪になり、その1週間後に首を吊って死んだという。彼が「ゾーン」へ行ったのは、「弟を救う」という願いを叶えるため。しかし「ゾーン」が彼にもたらしたのは、巨万の富だった。つまりジカブラスの本当の願いは、弟を救うことよりも富を得ることだったという事実を、「ゾーン」は彼に突き付けたのです。

ジカブラスが死を選んだ理由、それは「ゾーン」に自分の本性を暴かれ、絶望したためでした。

 

このジカブラスのエピソード、なんとも『惑星ソラリス』を彷彿とさせますよね。

人間が、何か超自然の力によって、自分自身も知らない本当の自分の願いに向き合わされる。

それは想像を超える恐ろしい体験・・・とても興味深いのですが、この2作に共通するのは、人間にとって最も恐ろしいのは自分の中に眠る自分自身と向き合うことだという発想があることです。

『惑星ソラリス』から7年、タルコフスキーがふたたび似通った題材に取り組んだのは、偶然ではないのでは? この2作が似ているというよりも、多分『ソラリス』以降、タルコフスキーはずっとこのテーマを抱え続けていたのかもしれないですね。『ノスタルジア』にしても、『サクリファイス』にしても、すべて、自分自身と向き合う映画ですから。

 

「ゾーン」と原発事故

1986年にチェルノブイリで起きた原発事故以降にこの映画を観た人には、おそらく「ゾーン」とチェルノブイリがリンクするんじゃないでしょうか?

というのは「何か異常な事態が起きて以後立ち入り禁止になった地域」という類似点だけでなく、「ソーン」に出入りするストーカーの子供には障害が出るというあたりが、放射能の影響を思わせるからです。

でも、この原作が書かれたのは1972年で、映画も1979年の製作。当然チェルノブイリの事故の前・・・まるでチェルノブイリの事故を予言したようだというので、タルコフスキーの「天使性」に言及した批評家もいたらしいのですが、IMDbによると、実は「ゾーン」は別の原発事故にインスパイアされたものだったのだとか。この事故は隠蔽されていたために、当時事故の全容は世界には知られていなかったようです。

その後チェルノブイリの事故が起きた際、危険を承知で立入禁止区域内に侵入し、略奪行為をする者が「ストーカー」と呼ばれたという話も。

 

映画版の「ゾーン」は、多くの人が死んだ不穏な場所として描かれてはいるものの、原発とは無関係な場所。ただ、主人公が法をおかしてゾーンに立ち入ったせいで彼の娘には生まれつき足がないという設定は、「ゾーン」=原発事故の現場という前提があって初めてしっくりくるものだし、そうであって初めて、自分の生き方のツケを娘に背負わせた彼の悲しみがずっしりとした重みをもって伝わってくる気がします。

劇中ストーカーの案内で「ゾーン」を訪れた物理学者が作ったという兵器は、それこそ暗に核をイメージしたものだったのかもしれませんね。

 

主人公の「心からの願い」

 

ストーカーが物理学者と作家を案内して「ゾーン」に行き、そして戻ってくるまでの一部始終を描いた本作は、或る意味でロードムービーとも言えます。

タルコフスキーはきっと、そんな俗な言われ方をするのを嫌ったに違いないのですが、そういう掴みで捉えるとこの作品にもおぼろげな「ストーリーの進展」が見えてくるから不思議です。

 

多くの先人たちが「ゾーン」で命を落としたにもかかわらず、ストーカーたちは「ゾーン」の核心部に無事辿り着きます。ただ、そこに入れば最も切実な願いが叶うという「部屋」には紆余曲折の末に結局入らないまま、街へ戻ってきます。

しかしその後、主人公の身辺に1つの変化が起きるんですよね。

障害を背負った彼の娘・「お猿」がテーブルの上のコップをじっと見つめると、そのコップがガタガタと振動しながら動いていく・・・いつからか、彼女にそういう不思議な「力」が備わっていたんです。

主人公たちは「部屋」には入らなかったのだから、それが彼の願いの反映なのかどうか、「ゾーン」行きとの因果関係はわかりません。第一、こんな奇妙な力が備わったところで何かの役に立つわけじゃない。「お猿」が歩けるようになれば最高だけれど、そんな幸福な奇跡は訪れないのです。

 

ただ、非常に曖昧で決めつけない形ではあるけれど、主人公の本当の願いは娘の幸せだったのではないか・・・と感じさせるものがある。少女が引き起こす奇跡の向こうに、親子の絆が見えてくるような、そんなあたたかさが映像に静かに滲んでいく気配の中で、映画は終わります。

この結末がとてもさりげなくて好き。睡魔にとりつかれていた時には気づかなかったことです。

 

人間を試す超自然の領域「ゾーン」でさえも、郷愁に溢れていた

タルコフスキーの映画を集中して観てみて感じるのは、彼は本質的に懐古的な嗜好を持った人ではないかということです。私自身懐古的な人間だから余計、それを強く感じるのかもしれませんが。

 

タルコフスキー得意のノスタルジーとセンチメンタリズムは、本作でも遺憾なく発揮されています。

原作者が原発事故の廃墟にインスパイアされたという「ゾーン」。人によってはもっとおどろおどろしい場所として描くんじゃないでしょうか? ところが、タルコフスキーは、「ゾーン」に打ち捨てられた戦車に人の遺骸らしきシルエットを覗かせたりしながらも、おどろおどろしさよりも圧倒的に、えもいわれぬ懐かしさ漂う美しい場所として、「ゾーン」を描いています。

 

本作の中で主人公が「人は過去を思う時より善良になれる」と言う場面がありますが、本作の「ゾーン」は、まさにタルコフスキーにとって(そしてあらゆる人にとって)の過去が詰まったような場所。

美しい草原は『鏡』で少年が母や妹と遊ぶ野にとてもよく似ているし、朽ち毀れた廃墟や、その廃墟を包む深い霧、霧の中から現れる黒い犬は、遠い思い出の中の場所への郷愁、もうそこには戻れない哀しみを湧き上がらせます。そしてその映像が放つセンチメンタリズムを、エドゥアルド・アルテミエフの東欧的哀愁の旋律がこれ以上なく引き立てていて・・・

タルコフスキーが作り出してみせた「ゾーン」は、ミステリーゾーンというよりも、人の心の原点というイメージを強く付着させている気がします。怒涛の郷愁に包まれた、彼の心の原点。

 

この作品の脚本にはタルコフスキーはクレジットされていないのですが、本作を(目を開けて)観れば隅から隅までタルコフスキー色。彼が関わってないわけがない、ということがよくわかります。

実際、原作者で脚本も担当したストルガツキー兄弟は、最終的な作品があまりにも自分たちの原作・脚本とは乖離していたせいか、後に独自の脚本を発表しているそうです。

その脚本が映画化されることはなかったようですが、一体本来はどんなシナリオだったのか、観てみたいですね。