寺山修司『田園に死す』 母というトラウマ | シネマの万華鏡

シネマの万華鏡

映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

実は昨日発売の『Tokyo Graffiti』5月号の特集「抱きたい 抱かれたい「映画の男」」に声をかけていただき、記事を掲載していただいてます。昨日からTwitterに続々と他の参加者さんのツイートが上がってるんですが・・・やーもう、皆さん肉食もりもりジューシー女子!って感じ!!記事もめっちゃ熱いです。

こーんな豪快なメンツの中じゃ私なんぞ羊の群れの隅っこでお口はむはむしてる草食婆羊 

もっと爪を研げ、牙をむけ、骨を砕けい!!と今どきの華麗なる肉食女子さま方に顔面殴打された感じ? やー、刺激になりました。

私も頑張って肉食べよっ。

 

 

 

さて今日の映画のお話にいきましょう。

最近ちょっと古めの映画がマイブームでして、そうなるといつも利用してるNetflixではなくDVDレンタルやAmazon Primeが大活躍。で、数日前アマプラで古い邦画をあさっていたところ、この映画『田園に死す』をリコメンドされました。寺山修司監督作は未見だったので、わりと即決でぽちっと。

しっかし視聴可能時間48時間で400円とは、さすがアマプラ氏、強気です。こういう映画をもっとお手頃価格でお手軽に見せてくれるところがあればいいんですが。

ただ、400円相当以上のアクの強さは保証。寺山修司の感性がじっくり沁みわたった、濃い味の逸品でした。

 

 

原作の歌集はこちらに収録されていますが、私は未読です。

 

 

あらすじ(以下ネタバレ)

(母を殺すために過去を遡り故郷を訪れた「私」(菅貫太郎)と、少年時代の「私」(高野浩幸))

 

「あらすじ」という項目を立てておいてなんですが、すっきりストーリーをまとめられる類いの話ではないので、いわゆる「あらすじ」が知りたい方はwikiの『田園に死す』の項をご参照ください。

なにしろこの作品に関してはストーリーのネタバレを読んだとしても新鮮な気持ちで観られるんじゃないかと。ストーリーは映画のほんの一部の要素にすぎないと思わせてくれる作品、つまりすごく「映画らしい映画」ってやつですね。

 

青森県出身で早稲田大学入学で上京してきた寺山の半自伝的要素を匂わせた内容。

舞台は恐山近くの村落。父親亡き後母1人子1人で育った少年「私」(高野浩幸)が因習に縛られた村で目撃した、女たちの哀しい人生、サーカスの哀愁、あの世なのかこの世の果てなのかあやふやな恐山の世界・・・そんな「私」の原風景の中にひそむ「私」自身のトラウマを抉っていきます。

 

母と仏壇と柱時計

(浜辺に打ち捨てられた仏壇。その前を仏壇を背負って売る行商の男が通る。)

 

主人公「私」の少年時代、彼の中で最も大きな比重を占めていたのが、母親の存在。

母1人子1人の家の中は、囲炉裏と仏壇、そして柱時計という絞り込んだアイテムでシンボリックに表現されています。

囲炉裏は、「家」の火と不可分の存在である母親そのもの。

そして母親がまるでそのために生まれてきたかのようにいつもいつも磨いている仏壇は、母が「家」に捧げる犠牲の精神?

柱時計はわかりやすく「家を支配するルール」。母と子しかいないこの家では、そのまま母親が子供を支配するルールということになるかもしれません。

時計の持つ意味は、母親が息子、つまり「私」の、腕時計を持ちたいという願いを却下することからも明らかです。彼女は息子が自分のルールを持つことを嫌うんですね。

包茎の手術をしたいという「私」の希望も却下。

息子に一人前になってほしいと願いながら、一方で息子の性までも支配したがる母。彼女は息子を『少年倶楽部』の中の「健全な少年の世界」に閉じ込めておこうとします。極端な言い方をすれば、母親は息子には嫁をもらうまで心身共にホーケイでいてほしいくらいなんでしょう。

 

寺山修司的には、息子を支配したがるのは「私」の母親だけじゃなく母親というものの本質だと言いたいらしいフシも。というのは本作では、村の地主の家の母と息子の関係で、より具体的で滑稽に、母親による息子の支配を描いているんです。

地主の家の後家(原泉)は、息子と美人の新妻(八千草薫)の寝室まで覗きます。覗きのことは息子たちは知らないのかと思いきや、昼間2人だけになると息子の床でのふがいなさを叱る。息子も母親に覗かれてるって知ってるんですねえ。

さらにこの母親はヨメが洗った息子の下着を自分でもう一度洗い直すらしい・・・下着の管理=息子の管理って、社会学者の上野千鶴子が言ってることそのものじゃないですか。

 

このあたり、地主の家の後家を演じているのが原泉だけに、もうすさまじく陰湿かつ可笑しみたっぷりの描写!

今となっては原泉をご存知の方って少なくなっちゃったんですかね・・・中野重治の奥さんで、もともとは美人女優なんでしょうが、年齢重ねてからは自分を美しく見せたいという女優の見栄を全部かなぐり捨てたかのように「ごうつくばりの婆」を演じた凄いバイプレイヤー。彼女の作り出す人間の浅ましさが浮き出したような表情にはビリビリ来るものがあって、けしてメインキャストじゃないのに彼女が登場するだけで作品の密度が上がるような気がしたもんです。

ああいう全部捨てて人間の醜さを演じられる女優って、日本にはいなくなったかもしれないですね。

 

少年のトラウマを作る女たち、その向こうにあるもの

 

とにかく登場する女たちが皆強烈。「私」の少年時代の物語でありながら、同年代の友人は1人も登場しないし、子供らしい遊びもしない。「私」が恋をするのは、地主の家の嫁で、演じている八千草薫は当時すでに40代。いくら少年は年上の女に憧れると言ったって、恋の相手にはちょっとアンバランスです。しかも彼女は「私」と駆け落ちの約束をしながら別の男(原田芳雄)と心中してしまう。。。

 

春川ますみ演じるサーカス団の「空気女」というのがまた、滑稽だけど哀しい女。

自転車の空気ポンプで空気を入れると膨らむから「空気女」。ただ、彼女に空気を入れることができるのは男だけ。膨らませてやると彼女はよろこぶ・・・つまり彼女を「膨らませる」ことはセックスのメタファーになっているんですね。

男たちは彼女を膨らませては去っていく。それでも「空気女」は笑顔を絶やさない・・・男に流されていくサーカスの女。

春川ますみの、かなしい時も笑ってるように見えてしまう、ふくよかでやさしい顏が効いています。

 

私生児を産んで村八分にされ、追い込まれて子供を川に流してしまった女(新高恵子)は、閉塞的な村社会の犠牲者そのもの

その後村にいられなくなって東京に出て行ったこの女と少年の「私」が再会し、「私」が女に、まるで犯されるように童貞を失う場面は、その場所が祭壇の前ということもあって、エロチックというよりもさながら禍々しいイニシエーション。

 

「私」が少年の日との決別を迎えたのがこの女とのセックスだったというのも意味深。普通男にとって童貞喪失はロストよりもゲインの側面が強いはずなのに、不思議なことに少年の「私」は彼女との体験によって喪失しか感じていないんですよね。。。

実は、『薔薇族』の初代編集長の伊藤文学氏が寺山修司に関してこんなことを言っています。

真相は分かりませんが、もし寺山修司がゲイだったとしたら、この作品の登場する少年「私」もゲイなんでしょう。

そう考えると彼が何故インモラルという烙印を押されて村からつまはじきにされた女の手によって大人になり「もう村にはいられない」と感じて村を出ていくのか、何故本作が、まるでトラウマのように村で疎外感を感じている女たちばかりを描き、子供らしい思い出をひとつも語らなかったのか、そのあたりがすっと理解できる気がしてきます。

彼女たちが感じていた疎外感は、「私」自身の疎外感だったのかもしれない。そう考えることで、この作品の向こうにあるもの、タイトル『田園に死す』の意味するところも見えてくるように思えるんです。

 

「私」が過去に戻って母親を殺そうとするのも、単に「過去の母親を殺したら自分はどうなるのか」を証明したいということではなくて、母の思い出にまとわりついてくる疎外感や閉塞感、もしかしたら心のどこかで抱え続けていた自殺願望を断ち切りたい思いと綯い交ぜになっているのでは?

母親という自分のアイデンティティの根源をトラウマとして描き、それでも断ち切れない母への愛情を引きずりながら生きている「私」の今が、あの新宿の交差点に座って母と食事をするラストシーンには表現されているんでしょう。

誰しも母を甘い思い出として描きたがるけれど、寺山修司は母にトラウマを塗りつけた。

故郷は恐山。今もアイデンティティは恐山にある。

何か私にも新しいトラウマを植え付けていったような、禍々しくも昏い魅力を秘めた作品でした。